冷たい地下室
崩れかけ、廃墟も同然となった病棟。その地下室で、僕はカビ臭い床に力なく座り込んだ。
古びた研究レポートを持った手が震えている。恐れていた事態が、現実のものとなってしまった。
もう僕にはどうすることもできないだろう。
底知れない絶望感に苛まれながら、僕はいつのまにか荒くなっていた呼吸を整え、再び祈るような眼差しでレポートに目を通す。
そこにあるのは、揺らぐことのない、あまりにも残酷な真実。
知りたかった。でも知らなければよかった。そんな相反する行き場のない感情の渦が、僕の中で巻き起こる。
その衝動の赴くまま、僕はレポートを握り潰し、壁に叩きつけた。何かが破裂するような乾いた音が薄暗い地下室に響く。
「こんなの……あんまりだ……」
頭を掻きむしるように両手で抱え、静かに嗚咽を漏らす。
レポートに書かれていたものは、それこそ研究者が錯乱したまま書いたかのような内容だった。
これを何の予備知識もない人間が見たとしたら、「妄想ですか?」と、鼻で笑うことだろう。
だが、悲しいかな。ここに書かれている内容に該当する出来事を、僕は殆ど知っている。
勿論知識として習得していた訳ではない。ただこの身で経験し、その蓄積の末に推測した内容とほぼ一致する事が、そこには記されていた。
ジグソーパズルのピースのように、それらは収まるべき所へとはまり込み、僕の頭の中でこれは真実だ。と主張する。
わかっては……いたのだ。
僕がそんな独白を漏らした時、地下室のドアの向こう――。廊下の奥から微かに足音が聞こえてきた。
それはしだいに大きくなり、やがて、地下室のドアの前で静止する。感覚でわかってしまう。このドア越しにいるモノが何なのかを。間違えようもない。
〝あいつ〟が来たのだ。
低い音を立ててドアが開かれる。
現れたのは少女だった。腰ほどまで伸びた、艶やかな黒髪。前髪は切り揃えられ、その不気味なまでに整った顔立ちも相まって、まるで日本人形のよう。黒いセーラー服に身を包み、スラリとした脚は同じく黒いストッキングで覆われている。そんなことごとく黒を強調した格好とは対照的に、その肌は病的なまでに白い。キメの細やかさは、まるで陶磁器を思わせた。
美しい少女だった。
血も心も凍りつくような、美しい少女だった。
少女は、僕のいる地下室に入るなりキョロキョロと室内を見回し始めた。まるで迷子の子どもを思わせる仕草。確認するまでもない。僕を探しているのだ。
やがて、ゾッとするほど綺麗で吸い込まれるような光を帯びた漆黒の瞳が、部屋の隅に座り込んでいた僕を捉えて――。その瞬間、僕の覚悟は決まった。
少女がこちらに近づいてくる。
再び響き始めた足音を聞きながら、僕はゆっくり顔を上げた。地下室のぼんやりとした明かりが、少女の白い顔を照らしている。距離が近づくとともに地下室の臭いに花のような香りが混じりはじめて、それが僕の鼻を。心すら侵していく。
ここまで来るのに色々あった。だけど、特に思い出されるのは、やはり少女と初めて遭遇した、あの日の夜のことだった。
あの日僕は恐怖し、魅了され、そして捕らえられた――。きっとそうなった時点で、僕と彼女はこうなる運命だったのだ。
「出来るだけ……優しくしてくれると嬉しいな」
僕の情けない訴えを、果たして少女が理解できているのかはわからない。
でも、普段は完全に無表情な筈の彼女は――。美しい『名前のない怪物』は、妖艶に。それでいて確かに幸せそうに微笑んで……、ゴクリと。御馳走を前にしたかの如く喉を鳴らした。