4. 迷子のブランチ
「ディアン様、さっきから何してんですか?」
不思議そうに尋ねるアポルオンに返事はいつものように当然ない。……はずが、珍しく―― いや、初めてディアンはアポルオンへと振り向いて爽やかに微笑みながら答えた。
「練習していたのですよ」
「……へ?」
まさか返事を貰えるとは思っていなかったアポルオンは一瞬、幻を見ているのかとゴシゴシと目を擦り、幻聴が聞こえたのかと両耳を軽く叩いた。
だが、やはりディアンはアポルオンに向けて微笑みを浮かべているし、人間よりも良く聞こえる耳もどうやら狂ってはないようだ。
「以前、異世界からハナ様の許に来たパンニャという生物の事を思い出しましてね……」
「ディアン様……」
あまりの嬉しさに、返事の内容は全く頭に入っていないアポルオンはその金色の瞳を涙に滲ませながらディアンへと近づいた。するとディアンはアポルオンを急かす様に手招きをする。
「ディアン様!!」
感極まったアポルオンは涙だけでなく鼻水まで流しながら勢いよくディアンへと飛び付いた。
が、ディアンはヒラリとその身をかわす。
このままだと壁へと激突するアポルオンは慌てて足を踏ん張って立ち止まったが、目の前にあるはずのない赤く光輝く扉を見て驚きの声を上げた。
「……へ?」
未だバランスが取れず、体をふらつかせるアポルオンの背をディアンはトンっと扉へと軽く押し出した。
「……へ?」
扉へと吸い込まれる様に傾いだ体を反転させたアポルオンが目にしたのは、今までに見たこともないほどのディアンの極上の笑顔。
「これはカケルから教わった異世界へと開く扉です。いってらっしゃい、アポルオン。素敵な旅を。もう戻って来なくていいですから、安心して迷って下さい。そして死ね」
「んのあぁぁぁ~~~!!?」
光輝く扉が徐々に小さくなると共に、アポルオンの絶叫も遠のいて行ったのだった。
**********
「がうぅっ!?」
「な……なんだぁ???」
目の前が真っ暗になったアポルオンは、すぐに眩しい光の中に飛び出し、柔らかなモフモフの上に着地した。と同時に、そのモフモフから低いうなり声が聞こえたのだ。
「ふんっ!俺様とやろうってのか?」
無駄に偉そうに背を反らして、声の聞こえた方にアポルオンが視線をやると、ちょっと辛そうに瞳をうるうるさせた獣がいた。
アポルオンにわかろうはずもないが、ここは動物園の人気者・アムールトラのアンセム君の檻の中、いきなり自分の上に圧し掛かって来た者に対してもっと怒ってもいいはずなのだが、アンセム君は心優しい密林の王者なのだ。
「なっ~~~!!」
あまりにもいじらしい姿にアポルオンは思わずその首に抱きつく。
「お前、可愛い奴だな!!よし、喜べ!!俺様のシモベにしてやる!!」
モフモフに顔を埋めながらアポルオンは頬を上気させた。
「これが『可愛い子には旅をさせろ』ってやつだな!!でもディアン様は優しいなぁ。これはきっと俺様にシモベを見つけさせる為の旅なんだな!!……と、するともう少しシモベも欲しい所―― な!?」
新たな獣の気配を感じて、そちらへと視線を向けたアポルオンは驚き、慌ててモフモフの後ろへと隠れた。
「リリー!!?」
モフモフの向こうからチラリと覗く黒く艶やかな毛並みを持ったその獣に慄きながら、恐る恐る声をかけると、当の獣はまるで人間の様に顔を顰め、不機嫌そうにフンッと鼻を鳴らしてアポルオンへと近づいてきた。
「うなあ゛ぁぁぁ!!」
「ぎゃあああ!!来るなあぁぁ!!」
その絶叫を最後に、アポルオンはその場からパッと消えてしまった。
「うなっ!?」
「がう!?」
驚く二匹の獣を残したまま。
**********
「ぐしッうふぇぇ、ぐしッぐしッ。ふぇうぅぅ……」
「……」
怪しい外国人がいると近所の人から教えられて駆け付けた交番勤務の孝臣が見たものは、公園のベンチに座って鼻を啜りながら涙を流すコスプレイヤー?
浅黒い肌に、漆黒の髪の間からは羊の角の様な物が覗いている。
めんどくせえなぁ、と溜息を吐きながら近づいて声をかけた。
「あの、すみません。ちょっとよろしいですか?」
このクソ寒い中かなりの薄着でいる男の側に寄ると何故だかふわりと暖かく感じ、そして声に反応して上げた顔は泣き腫らして鼻水も垂れているが珍しい金色の瞳を持つかなりのイケメンだった。
だが、髪の毛は鳥の巣の様にわさわさとあちこち飛び跳ねてて、衣服も薄汚れている。
もったいねえな、と思いながら更に質問を口にした。
「失礼ですが、お名前を教えてもらえますか?」
言葉通じてるか?と思いながらの問いに、男はまじまじと孝臣を見つめた後、堰を切ったように泣き出した。
「うわーん!!お腹すいたよぉぉぉ!!一晩何も食べてないんだよぉぉぉ!!この世界には凶暴な生き物ばかりで、真黒い鳥なんて俺の目ん玉めがけて襲いかかってくるんだよぉぉぉ!!」
め、めんどくせえぇ。
盛大に泣き声を上げる男に向けて孝臣は顔を顰めたのだった。
*****
「で?名前は?」
「悪いが名前は教えてやれん!!俺様の名前はディアン様に捧げてるからな!!」
「はい、名前はオシエテヤレンですね。 で、住所は?」
「そんなマヌケな名前の訳あるか!!俺様には素敵でかっこいい名前がちゃんとあるに決まってるだろ!!」
「……ほほう? 俺がテメェの下らない意地に付き合ってやってるのに不満だってのか? じゃあ、まどろっこしいのはヤメだ。 で、覚悟は出来たか? 言っておくが、俺、あんまり優しくねぇぞ」
紺色の衣服を纏った男―― 孝臣は手帳に書きつけようと握っていたボールペンをバキッと握り壊した。
それを見たアポルオンは一気に青ざめる。
「ペ、ペペペ、ペンッはお友達なんだぞ!」
「へえ?それで、ペ・ペペペ・ペンが友人であるお前の名前は?」
「アッ――!!」
勢いよく立ち上がって「アホか!!」と怒鳴りかけたアポルオンだが、その瞬間、孝臣は獲物に喰らいつく猟犬のような動きで、その金色の瞳に折れたペンの先を突きつけた。
その距離、わずか1mmほどのところで鋭いプラスチックの破片が停止する。
「優しくないって言ったよな?」
その鋭利な先端の剣呑さというよりも、孝臣から放たれる氷のような殺気に気圧されて、アポルオンはストンとそのまま椅子に座った。
「アポルオンです!!」
「初めから言え!!」
「すみませんでした!!」
ゴンッ!
孝臣の怒声に深く頭を下げたアポルオンは、カウンター席に座っていた為、目の前のカウンター上部に激しく額をぶつけてしまった。
が、堪えた様子はない。
「えっと、孝臣さん……その、アホ……アホ、オンさん……おしょ、おしょじ。さむなか……1日迷子さま……無様じゃなくて。その、災難で……質問は……」
「……もしかして、『アポルオンさん、この寒い中一晩中、彷徨っていたんだから、質問は後にしてお食事にしたらどうでしょう』といいたいのか?」
カウンター向こうから顔の上半分だけ覗かせて、小動物のような目をした男が蚊の鳴くような声で呟いた解読不能な言葉を、孝臣が通訳する。
そのまま孝臣は「もっと堂々としろ!!」と言いながらカウンター向こうの男の頭を殴りつけているのだが、アポルオンにその様子は目に入らないのか、ただ『お食事』と言う言葉に金色の瞳を更に輝かせていた。
実はアポルオンは昨日の早朝、リリーに似た恐ろしい黒い獣(実は子猫)から逃げ出した後、街中を一晩中彷徨い、車にはクラクションを鳴らされ、すれ違う犬には吠えられ、光り物の好きなカラス達には輝く金色の瞳を狙われて逃げまどい、そしてあの公園のベンチで力尽きたのだった。
「く、食うもんく―― ぎゃあああ!!」
食事を用意してくれるのかと、問いかけようとしたアポルオンが小動物へと視線を向けると、その小動物は大きな猛獣へと変身を遂げていた。―― 要するに小動物だと思っていた男が立ち上がったのだが、その大きさにアポルオンは恐怖のあまり悲鳴を上げたのだった。
「うるせぇ!!」
ゴンッ!!
孝臣に後頭部を強く叩かれて、アポルオンは再びカウンター上部へ額をぶつけたのだった。
***
「ど、どうぞ……」
でかい図体とは不釣り合いな気弱そうな優しそうな顔に笑顔を張りつけて、猛獣な小動物―― 楓太郎と名乗った男は、額を真っ赤にしたアポルオンの前に湯気の立つスープを差し出した。
「うお!旨そうないい匂いだな!!」
「ま、まずは、ポタージュ・デュ・コルザ(菜の花のポタージュ)を。 春じゃなくて、花の咲く直前の今の時期が一番おいしい……です」
茹でて荒く潰した菜の花の緑が真っ白なスープに浮かび、まるで雪に埋もれて春の息吹が眠っているかのような、更に一口すするだけで、ほんの少しほろ苦い菜の花をミルクとバターがやさしく包み込み、天使の白い羽で暖かく包まれたような気分になれる一品。
塩を控えた柔らかな味わいが胃に優しく、飲めば飲むほど食欲がそそられるのだ。
「うめー!!すげえ旨い!!こんな旨い汁、初めて飲んだぞ!!」
「こ、こっちはグルヌイユ・ヴェルトのリエット。 ルッコラのソースをかけたもの……です。 ちょっと珍しい食材ですが、いいものが入ったので使ってみた……でした」
「ヌルヌルベルト?なんだそりゃ?」
続いて楓太郎が出してきたのは小さなフライの皿。
緑のソースが上からかかっているが、どうもアポルオンは慣れない。
「この緑の……食うものなのか?」
「え、ええ……もちろん、で、でも苦手なようでしたら……」
答えを最後まで聞かず、アポルオンは勢いよくかじった。
すると、カリッとした歯ざわりとともに白身魚に似た味が口の中にジンワリと広がる。
「うめー!!これ何だ!?食べた事あるような気もするのに、初めての味がする!!」
ヒラメか何かのようにも思えるものだが(アポルオン的には魚としか思ってないが)、鶏肉のような形状と味わいなのだ。
「それは、グルヌイユと言って……カエルの事です。フランスではメジャーですが、日本ではなかなか手に入らなくて……」
「カエル!?」
「す、すみません……お気に召さなかったら……」
「俺がいっつも食ってるカエルと全然違うから気付かなかった!!焼くだけより全然旨いのな!!」
「……お前はいつもカエルを焼いて食ってんのか? いったいどんな食生活だよ」
なんでそんな野蛮人にこんな手の込んだモノを……と目で訴えながら、複雑そうな顔でぶつぶつ文句をこぼしつつアポルオンを見ている。
「あの、次はスズキのポワソン・ペルシエ・オ・ムタールド(白身魚の香草焼き)なのだ……です。 出すのが遅れましたが、よかったら白ワインも飲みやがれ……ですか? 超、お勧め……です」
マスタードとパセリやニンニクをまぶした白身魚に、煮詰めてトロリとさせた魚のスープをかけたもので、白ワインと非常によく合うのだ。
繊細な白身魚の味がニンニクとパセリの香り、さらにはマスタードのピリリとした味に引き締められて、思わずワインが欲しくなる一品。
「いいのか!?」
「ええ、どうぞ……」
もちろんアポルオンに遠慮などというものはなく、勧められるままに白ワインを頂く。……ガブガブと。
それを見て、益々機嫌悪そうに顔を顰める孝臣には気付かない。
「メ、メインディッシュはブッフ・ブルギニョンヌ。 熱々で猫殺し。 急いで(食べると)病院送り」
その言葉と共に、楓太郎の手にした深皿から思考が吹っ飛びそうなほどまろやかな香りが漂ってくる。
「猫……リリー殺し……」
ゴクリと唾を飲み込み、恐る恐るアポルオンが手にしたフォークで軽く突付くと、濃いブラウンのシチューで煮込まれた牛肉の塊は、ほろほろと簡単に崩れてしまった。
その柔らかさにちょっと手間取りながら、なんとかスプーンの上に肉を転がしてハフハフと頬張ると、濃厚なワインの風味とともに広がるのは未知の快楽。
気がつくと、目を半眼ににしたままぼんやりと快楽に酔いしれていた。
「美味いだろ」
なぜか楓太郎本人ではなく、横にいる孝臣が鼻高々に自慢する。
「デ、デザートはパン・デピス入りのアイスクリームです。パン・デピスはフランスでは有名なパウンドケーキなんですが……失礼します」
最後にデザートを出して説明を始めた楓太郎だったが、それは電話の呼び出し音に遮られてしまった。
まあ、アポルオンには正直な所、説明はどうでもいいので気にしていないが。
スプーンを突き立てて一口食べれば、シナモン、クローヴ、生姜、アニス、ナツメグ、オレンジピール、数限りないスパイスとフルーツの香りが、鼻から脳髄に駆け巡る。
「うめー!!けど、つめてー!!けど、うめー!!」
ゴンッ!!
感嘆の声を上げながら食べていたアポルオンの後頭部を孝臣が勢いよく叩く。痛みと同時に、何かが鼻から脳髄を駆け巡る。
「……黙って食え。 アホ羊」
楓太郎の目が無いことを確認し、孝臣はがゆらりと立ち上がる。
「美味いのは当たり前なんだよ! この俺のひいきの店だぞ!」
そのままどすの利いた小さな声で囁きながら、アポルオンの胸倉を掴みあげた。
「それに、もっと他に言葉はねぇのか!? バカの一つ覚えみたいに『うめー、うめー』うるさく言いやがって。 アムールトラがアイーダを歌うこのご時世、羊の方がまだ芸があるっ!!」
「バッ!!あんな下等生物と一緒にすんな!!俺様は――」
怒って反論しかけた言葉は孝臣の一睨みで途切れてしまった。
「もう一度チャンスをやる。 おまえ、この料理を褒めてみろ」
「……す、すごくおいしいな。ハハハ、まるで……あ、味の宝石箱だ!!」
ゴンッ!!
「お前はどこのグルメリポーターだ!?」
さすがに涙目になったアポルオンが抗議しかけた所に、楓太郎の焦った声が聞こえてきた。
「ええ?そ、そそそれは申し訳、もうしない、ありま……とり、とりに伺い……」
そして電話を切ると大きく溜息を吐いた楓太郎。
「どうした?ぷーさん」
「実は昨日、発送したお歳暮が間違って届けられたみたいなんです。それで今、受け取った方……会社だったんですけど、そこの社員の方がわざわざ知らせて下さって。引き取りに行けない距離じゃないので、今日は早めに店じまいして行ってきます」
「そんなん、着払いで送り返してもらうか、配送業者に文句言って引き取りに行かせたらいいんじゃないか?」
「いえ、それは申し訳ないですし……ああ、でも今日は神前さんがお休みだから、給仕にも回らないと……ラ、ランチタイムが……ああ、で、でも……」
「落ち着け、ぷーさん」
急に焦ったようにあたふたする楓太郎を窘める孝臣だが、手伝う気はないようだ。
だが、その視線は未だアイスクリームを頬張るアポルオンへと向けられた。
「お前手伝え」
「へ?」
「……まさか、こんだけメシ食べさせてもらっておいて、食い逃げするつもりじゃねえよな?金は持ってんのか?」
「……へ?」
*****
「わあ、アポルオンさん、かっこいいですね」
孝臣の部屋で身支度を整えてギャルソン服に身を包んだアポルオンが店内に現れた瞬間、女性客がざわめいた。
それに気付いた様子もなく、楓太郎が感嘆の声を上げたが、孝臣はツカツカとアポルオンに近付くと頭の角を引っ張った。
「てめえ、いつまでこんなもんつけてんだ!!さっさと取れや!!」
「たたたたた!!何すんだよぅ!!それは俺様の一部だ!!取れるわけ―― いや、本当に勘弁して下さい。すみませんでした!!」
―― その後、予想外にアポルオンはよく働いた。そして思いのほか使えた。
常日頃、ディアンにこき使われているので(本人は愛のムチだと思っているが)、アポルオンはやれば出来る子なのである。
そうしていつも以上になぜか多い主婦層のお客様相手に(後ろからの孝臣の凶暴な視線の為か)笑顔で接客をこなし、やたらと奥様達の手が偶然お尻に当たりながらも、なんとか怒涛のランチタイムを乗り切ったのであった。
「ありがとうございました。とても助かりました」
「ぷーさん、タダ飯食らいにお礼なんて言う必要ねえよ」
「いえ、そう言う訳にはいきません。今日はいつもの倍近くのお客様がいらして下さったんですから。それなのに問題なくやり過ごせるなんてアポルオンさんはすごいですよ。もしかして前にもこのようなお仕事を?」
「問題なくねぇ……」
呆れたように吐き出しながら孝臣が向けた視線の先にいるのは、当のアポルオン。
アポルオンは俯いたままプルプルと楓太郎の言葉に頭を振っている。
本来ならここで威張るはずの彼はカウンター席に座り、蒼白な顔でブツブツ呟いていた。
「……女怖い……女怖い……ケツ、ケツを……こ、こか……こか…まで……」
「やはりかなりお疲れのようですね。慣れない事をさせてしまって申し訳ありません」
「……」
「これ、お礼と言っては何ですが、よかったら貰って下さい」
そういって楓太郎が差し出したのは、ボール紙で出来た大きな箱だった。
中には狐色をしたクッキーがぎっしりと詰まっている。
「猫の舌って名前のクッキーです。 表面の感触が、猫の舌みたいザラっとしているからなんですが、たくさん作りすぎたのでよかったらもらって下さい。 あ、もちろん味見もどうぞ」
楓太郎の言葉が終わるのも待たず、アポルオンは先程までの憔悴が嘘の様に立ち上がると、さっと一枚取り出してて一口かじった。すると、アーモンドやバニラの甘い香りとバターの控えめな香りが口の中で溶けて色鮮やかに混ざり合う。
しかも普段口にするクッキーと比べると口当たりが軽く、これなら甘いものの苦手な人間でも食べられそうだ。
「うめー!これならディアン様も喜んで……」
と、言いかけて孝臣の視線に気付き、口ごもる。
「サクサクとして食べやすいけど、意外とカロリーは高いので、食べすぎには注意してくださいね?」
そんな二人のやり取り?に気付かずに、楓太郎はニコニコと注意を付けくわえた。
「色々と世話になったな!!そこに、元の世界に連れて帰ってくれるって奴が来たからこれ頂いて帰るぞ!!」
なんだか偉そうな、嬉しそうなアポルオンの言う「そこ」を振り向いて見た孝臣は眉間にしわを寄せて不機嫌そうに再びアポルオンへと向く。
「はあ?てめぇ何言ってんだ?誰もいねえじゃねえか!」
楓太郎も何も言わないが、同じ様に後ろを振り向き見て誰もいない事に首を傾げていた。
それもそのはず、アポルオンの言う「そこにいる奴」とはこの世界の神であり、その名を埼王権現という。
仮にも仏の姿が通常の人間に見えるわけもなく、楓太郎と孝臣は怪訝な目をアポルオンに向けるだけだった。
「話は変わるが……おい、てめぇ、まさかそれ全部持って帰る気じゃねえだろうな? タダメシ喰らいがいなくなるのは大歓迎だがそいつはちょっと厚かましいと思わねぇか?」
甘い香りを放つ菓子箱に狙いを定めながら、孝臣がジリジリとアポルオンに近づいてゆく。
「な、なんだよ……くれるってんだから、貰っていいだろ?そもそもお前……わかった!!お前、ディアン様に似てるんだ!!凶悪で偏執的で偏愛的な……」
なぜかうっとりとした表情で語り出したアポルオンは、ふと今までにないほどの冷ややかな殺気を感じて口を閉ざした。
そして、その発生源へと恐る恐る視線を向けて……
「…………じゃ、じゃあ帰るな!!あばよ!!」
「待て! にげるな、この黒羊!!」
額に青筋を立てた孝臣の手がその服の袖を掴む直前、アポルオンの姿が一瞬金色に輝いたかと思うと、次の瞬間にはまるで霧のように虚空へと消え去ってしまった。
「はー 彼、実はマジシャンだったんですね」
こういう所だけはなにげにしぶとい楓太郎は、アポルオンが消えたあたりを見つめてパチパチとなぜか拍手をしている。
「ぷーさん、相変わらず超常現象は認めないのな」
呆れた顔で呟いた孝臣の声は、賑やかな珍客が去った後の昼下がりの喫茶店に静かに浸透していった。
**********
「ああ!しまった!!せっかくディアン様が機会をくれたのに、シモベを連れて帰るのを忘れていた!!」
重なりあった何枚もの重要書類をお尻の下に敷いて、悔しそうに叫んだアポルオンは殺気を感じて、ハッと目の前の人物に意識を向けた。
その人物―― ディアンは、突如執務机の上に現れたアポルオンに驚いた様子もなく爽やかに微笑んでいる。
「そうですか、心残りがあるのは残念ですね。では、今度こそ何も残らないようにしてあげましょう。髪の毛一本さえも残らないように」
「ディアン様?な、何を言ってるんすか?こ、恐いですよ!?」
じりじりと後退するアポルオンのお尻の下で書類がクシャリと音を立てると、更にディアンの笑顔が深くなる。
慌てたアポルオンは、持っていた箱を突き出した。
「こ、これお土産です!!」
「いりません」
「そんな!!これ菓子なんです!!すっげー旨いんです!!姫さんが絶対喜ぶようなやつ!!それにあいつも釣れるはずです!!」
「それはそれは」
「本当ですって!!じゃ、じゃあ、俺これを姫さんに渡してきます!!」
いつも以上に鋭くなる殺気に、アポルオンは慌てて逃げ出した。
しかしその後に待ち受けていたのは、ルークからの本気の殺意。
楓太郎から借りたギャルソン服のままだったアポルオンを見た花が「アポルオンさん、かっこいいです!!」と、何度も称賛した為だ。
結局、行き場をなくしたアポルオンは暫くの間、レナードの部屋に居候する羽目になったのだった。
ちなみにアポルオンが持ち帰った猫の舌は、どんなに王宮の料理人が頑張っても同じ味にはならず、今では幻のクッキーと呼ばれているそうである。