第2話 赤い目盛り
開業前なのに、朝から四十人並んだ。
共同井戸の前で、桶を抱えた列が曲がっている。
昨日直した遺物ポンプは動いていた。だが安全とは別だ。視界の隅で赤い目盛りが薄く光る。
二十一。
低い。だが、上流が触ればすぐ跳ねる数字だ。
「おはよう、技師さん」
ラウラが干し網を肩に担いで歩いてくる。昨日より声が柔らかい。
「おはよう。網干しは朝か」
「潮が上がる前の風が一番乾く」
ポンプの側板を開いて点検する。緩みはない。
「昨日、何を見て直してたの?」
ラウラが聞く。俺は迷った末に答えた。
「危険度の目安だ。上がりすぎると遺物は裂ける」
「見えるの?」
「俺にだけ」
笑われると思ったが、ラウラは頷くだけだった。
「じゃあ、町のほかの遺物も見て。報酬は出す。出せるだけ出す」
その言い方に、この町の焦りが乗っていた。
昼前、最初の現場は貯水槽。
外縁裏手の石積み槽は、上流導管と繋がっている。蓋を開けると錆と湿熱が吹き上がった。
赤い目盛りは七十四。
「導管の継ぎ目、三箇所が死にかけてる。今週中に替えないと夜に破裂する」
「今週中って、そんなに急?」
「遺物は壊れる前に静かになる。静かなやつほど、急に弾ける」
横で、ぼさぼさ頭の少年が手元を覗きこんでいた。昨日ポンプ前にいた子だ。
「それ、どこ回してるの?」
目が速い。手も速そうだ。
「ここは触るな。指が飛ぶ」
「飛んだらくっつければいいじゃん」
「くっつける薬師がここにいるのか」
「……いない」
口を尖らせる少年に聞く。
「名前」
「セオ」
「見てるだけならいい。部品を落としたら帰れ」
セオは頷き、落ちた小ねじを先回りで拾った。反射がいい。
嫌な音は、忙しいときに限って来る。
午後、井戸側で金属音が弾けた。悲鳴。桶が転がる音。
走って戻るとポンプ腹から蒸気が噴き、赤い目盛りが跳ねていた。
八十八。
「離れろ! 子どもを下げろ!」
側板を開く。原因は明白だった。上流圧の急上昇と、逃し弁の固着。
「セオ、細いレンチ! 布は濡らして持ってこい!」
「はい!」
返事が速い。指示どおりの工具がすぐ届く。
弁座を叩いて固着を外し、予備抜き路を開く。蒸気が手の甲を舐める。焼ける。
八十四。七十七。六十三。
主弁を半回転戻し、補助線を一本切る。
蒸気が細り、止まる。
二十九。
静まり返った井戸で、誰かが小さく拍手した。
次に二人、三人。
気づけば全員が俺を見ていた。
「助かった……」
老婆が深く頭を下げる。
「礼はいい。圧を上げる前に連絡しろ」
ラウラが息を整えながら笑った。
「連絡先も工房もないのに?」
そこで、腹が決まった。
追放技師として終わるか、この町で仕事を始めるか。
「作る。連絡先も、工房も」
セオが目を輝かせる。
「じゃあ俺、弟子でいい?」
「弟子は給金がない」
「飯が出るなら平気!」
笑いが起こる。外縁の空気が、昨日より軽い。
夜、物置部屋の机で帳面を開く。
必要部材。銅線、絶縁布、小型冷却石、弁座加工針。
その下に一行。
助手候補:セオ(手が早い。危なっかしい)。
窓の外の井戸は、今日も動いている。
赤い目盛りは二十を切ったままだ。
そのとき、階下からラウラの声が飛んだ。
「ジン! 港湾管理から! 航路灯が三夜連続で落ちてるって!」
明日の仕事が決まった。
開業届を書く前に、町の夜を直しに行くことになった。




