第1話 追放技師
九十九。
赤い目盛りが、視界のど真ん中で止まった。
地下実験区画。人の背丈より大きい接続輪の前で、技師たちが固定具を締めている。青白い回路が壁を走り、床の下から唸りが上がる。
その全部より、俺には数字のほうがはっきり見えた。
「接続開始まで十秒」
上官の声。誰も手を止めない。
俺は一歩踏み出した。
「止めてください。補助回路が生きたままです。このまま繋げば閾値を超えます」
数人が俺を見る。厄介ごとを持ち込む顔に向ける目だ。
上官は手元の板を閉じ、平坦に言った。
「またそれか、ジン。赤い幻覚は報告書に不要だ」
「幻覚じゃありません。南塔のときも同じ数字で」
「南塔はお前の判断遅れだ。責任転嫁はやめろ」
言い切りだった。議論を許さない声。
「接続開始」
梃子が倒される。接続輪の内側で白い火花が弾けた。
空気が焼ける匂い。
数字は九十九のまま、点滅に変わる。
「遮断しろ!」
叫びながら、俺は自分で緊急遮断棒へ飛びついた。誰かの手が遅れて重なり、棒が叩き込まれる。
光が一瞬だけ爆ぜ、窓がびりびりと震えた。
それで止まった。紙一枚分だけ、死ななかった。
沈黙。
最初に口を開いたのは、やっぱり上官だった。
「記録。接続失敗。原因は補助技師ジンの指揮系統逸脱」
笑いそうになって、笑えなかった。
九十九の点滅だけが、ゆっくり消えていく。
追放はその日の夕方に決まった。
軍情報部遺物管理局。所属抹消。装備返納。再任用なし。
理由は「規律違反と作業妨害」。命令書は三行。
返ってきたのは、私物の工具箱だけだった。
削れたレンチ、壊れた測定針、焦げた手袋。積んだ年数の割に、やけに軽い。
港町アルヴァスへ着いたのは三日後の夕方だった。
潮と魚煙の匂い。石畳の隙間の塩。港は賑わっていたが、外縁の通りは古い倉庫と欠けた壁ばかりだ。
金は少ない。宿代を払えば、二週間で底が見える。
「泊まるなら先払いだよ」
通り角の食堂で、腕を組んだ女が言った。日に焼けた肌、作業用の革手袋。
「一番安い部屋は」
「二階の物置。雨漏りはする。文句は受け付けない」
銀貨を置いて鍵を受け取った瞬間、店の外で子どもの悲鳴が上がる。
「ラウラ姉ちゃん! また止まった!」
女――ラウラが舌打ちして飛び出し、俺もつられて外へ出た。
通り端の共同井戸。古い遺物ポンプの継ぎ目から、白い蒸気が細く噴いている。
その上に赤い目盛りが浮かんだ。
九十六。
周りには子どもが三人、桶を抱えて立っていた。
このままなら数字は上がる。遺物が裂ける。最初に巻き込まれるのは、近くの小さい身体だ。
「離れろ!」
工具箱を地面に置き、側板をこじ開ける。中はひどい。腐食した補助線に、素人の銅線を無理やり継いである。
「あんた、何してんの!」
ラウラの声に、目を上げず返した。
「今止める。水が要るんだろ」
焼けた線を切る。予備導線へ交換。圧縮弁を半回転戻し、冷却路を開く。主軸接点を磨いて固定。
指先が震える。怖さじゃない。数字の圧だ。
九十六。九十。八十。六十。
十七。
取っ手を押した。
金属筒が短く唸り、澄んだ水が勢いよく落ちる。桶が一気に満ちる音。子どもの歓声。
「……動いた」
ラウラが呟く。俺はその場に座り込み、息を吐いた。
赤い目盛りは十二。安全域。
「あんた、技師?」
「元、だ」
「元でもいい。外縁、壊れた遺物だらけで困ってる」
濡れた手の子どもが袖を引く。
「おじさん、灯りも直せる?」
言い返す気力はなかった。
代わりに、濡れた鉄板と塩で白くなった継ぎ目を見る。雑な修理跡。見れば見るほど仕事がある。
「金は取るぞ」
子どもはけろっと笑った。
「水が出るなら、みんな払うよ!」
夜、雨漏りする物置部屋で工具箱を並べる。
レンチ三本、測定針一本、絶縁布少し、銅線は残りわずか。
足りないものだらけだが、ゼロじゃない。
窓の外では、さっき直したポンプに列ができていた。老人、母親、漁帰りの男。
水が出るたび、小さな笑い声が起こる。
軍の実験区画で聞いた拍手とは別の音だ。
数字を上げるためじゃない。生きるための音。
木箱の上に紙を広げ、震える手で書く。
潮目工房(仮)。
遺物修理・生活道具改修・危険度診断。
書き終えたところで、階下からラウラの声が飛んだ。
「ジン! 明日、港の灯り見て! 夜の入港が詰まって死人が出る!」
俺は短く返す。
「朝一で行く」
紙の端に追記した。
先払い、必須。
同じ夜、港の反対側で黒衣の男が封蝋文書を開いた。
回収対象。
追放技師ジン。
識別特記事項――危険閾値の視認能力あり。




