浸水車両
車窓から見る夜の川は、今日も静かだ。
橋を渡る時、いつも水面を眺める。
流れてゆく街灯りと空の月が映ってきらきらと輝く。
そんな景色が好きだった。
見慣れた風景なのに、飽きることはない。
腕時計を見ると、十八時を回っている。
いつもの帰宅時間。
私が乗る六車両目は、今日も変わらず薄暗かった。
車内灯の一部が不規則にバチッバチッと小さく点滅していて、不穏な空気を漂わせている。
この時間のこの車両は、普段からこんな感じ。
慣れてしまえば、むしろ落ち着く。
扉付近には、ここでよく見かける彼の姿があった。
サラっとした感じの黒髪。ラフなTシャツにジーンズ。
横顔が少し……かっこいいなって思う。
でも、それだけ。
話したこともない。名前も知らない。
乗り込む車両が一緒になる、私と同じ歳くらいの男性。
車窓に映る自分を見て、何気なく思う。
――私、あの人と釣り合うかなぁ……
流行りのミルクティー色に染めた、緩く巻いた長い髪。
爪の先が少し剥げたネイル。
二十代も終わりの年齢に差し掛かってきて……
色々と頑張ってる感のする自分の外見が、急に恥ずかしくなってきた。
年齢とか、将来とか。考えたくないことばかりが浮かぶ。
「……はぁ」
小さく溜め息をついてまた車窓の外を見る。
川沿いを走る電車。
見慣れた景色の帰り道。
電車を降りたら、駅前のコンビニでスイーツでも買おう。
シュークリームがいいかな。それとも、チーズケーキ?
自分へのご褒美だからと、言い訳をして。
ささやかな楽しみで、今日と言う日を終わらせる。その繰り返し。
それが悪いわけじゃない。平穏で、安全で、予測可能な日々。
でもどこかで、ロマンティックな変化を期待する自分も居る。
いつか素敵な王子様が――
ふと、扉付近の彼を見る。
降りる駅も一緒。
前に一度だけ、電車を降りてから彼の姿をなんとなく目で追ったことがあった。
改札口に向かう彼の背中。
その後を追うように、人波に沿って歩く私。
でもそのまま、彼は消えてしまった。
もしかしたらご近所さんで、駅前のコンビニでバッタリ!
とか、ないかな? って思ったこともあったけど。
そういうことも無いし、この先も彼とは多分、縁がないのだろう。
同じ車両に乗り、その時間を共有する乗客同士。
それ以上でも、それ以下でもない。
電車を降りたら、それぞれ自分の場所へと戻ってく。
……そんなことを考えてたら
「次はー、葉月坂ー、葉月坂ー。お降りの際は御足もとに――」
降りる駅名のアナウンスに思考は掻き消された。
さぁ、降りなきゃ。
*
今日は、仕事が長引いた。
朝、テレビの天気予報で言っていた通り、帰宅時間前に降り出した雨。
閉じた傘の先から、水滴がポタリと落ちてゆく。
残業でいつもより二時間強、遅い電車に乗る。六号車はガラガラで、乗客は私を含めて五、六人程度。
なのに。
あれ? 扉付近にあの彼がいる。
とっくに帰っているはずの時間なのに。
彼も残業だったのかな。違う用事でもあったのかな?
呑み会だったとか? でも、酔っている様子はない。
いつもそうしてるように、窓の外を見ている。
知っている顔があって、なんだかほっとした。
同時に、小さな寒気が肌を這う。
雨のせいだろうか。
車両内の冷房が効きすぎてる感じ。足元が冷たい。
下を見ると床が濡れていた。靴の裏がじっとりと湿っている。
車窓を見れば、上から下へいくつも水滴が線を描いている。
他の乗客の手にも傘。
雨に濡れた乗客たちの傘や鞄から落ちた雫が、床に広がっていったのだろう。
川沿いを走る電車の音に混じり、さっきから遠くで雷鳴がする。
だんだん窓を叩く雨が激しくなる。
窓をぼんやりと眺めていると。
急に眩い閃光が走り、直後に大きくドォンッ! と雷が鼓膜に響く。
あまりの音の大きさに、身体がきゅっと縮こまる。
動く電車を揺らすように、雷鳴が車両の中で振動する。
もしかしたら、どこかに雷が落ちたのかも。
電車にか、線路にか。かなり近くに落ちた気がする。
でも、停電もしてなければ、車内アナウンスもない。
強い雷雨の中、電車は走り続けている。
ここに落ちたのではなさそう。
割と近い場所で、落雷があったのかも知れない。
台風でも来てるのかな?
天気予報ではそんなこと、言ってなかったように思うけど。
*
翌日、すっかり雨は止んでいた。
今日は定時で仕事を終え、寄り道もせずに駅まで歩く。
見上げた空には薄っすらと、月が浮かんでいる。
どこからか、蝉のジジジという鳴き声もする。
すれ違う人の中に、浴衣を着ている人がちらほらと居た。皆、淡い色の浴衣。
最近の流行の色なのかな? お祭りでもあるのかな?
そっか。もうすぐお盆だものね。盆踊りの時期なんだ。
昔はお祭りにもよく行ったけど、社会人になってそういう行事ごとには参加することもなくなっていた。
駅に着くと、改札を抜けホームに向かう。普段通りに、停車中の電車の六車両目に乗り込む。
チラッと周りを見回す。少し疲れた顔のサラリーマン、小さな声で会話する女子高生たち。スマホ覗き込む、私と同年代くらいの女性。
電車はゆっくりと動き出した。
いつもの風景。何も変わらない。
はずなのに、今日も足元がヒヤっとする。
視線を落とすと、水で床が濡れていた。
え? 雨、降ってなかったよね?
じゃあ――
この水、なに?
そう思ったと同時に、じゅわりと靴が水に濡れてゆく。
ゆっくりと床一面に薄く水が広がっていき、足元を動かすたびにぺちゃぺちゃと音がする。
「水……なんで?」
そんな言葉が無意識に、口から漏れていた。
わ……っ、恥ずかしい。
独り言なんて、みっともない。
慌てて口元を引き締めた瞬間。
「気づいてましたか」
「え?」
その声に振り返ると、扉付近のあの彼が、私のすぐ後ろに立っていた。
こんな近くに居たんだ!?
「水のこと」
そう言われて再び視線を落とすと、彼の靴も同じように濡れている。
でも彼に、困った様子はない。
「あ、あの……」
初めて話しかけられた。
どうしよう。
戸惑い、言葉を探していると
「俺、光太。いつも見かけてたから」
彼の方から自己紹介をしてくれた。
光太さん。
初めて知った彼の名前。
「彩佳です」
「彩佳」
私の名前を、そのまま繰り返すように言った光太さん。
口に出すのは初めての名前なのに、不思議と馴染んでいるような響きだった。
なぜか怖くもないし、嫌じゃない。
寧ろやっと話せたという嬉しさの方が大きかった。
「この水、変ですよね」
さっきの口から漏れた独り言の言い訳をしてみる。
「そうだね。でも、きっと大丈夫でしょ」
彼の声は柔らかく、落ち着いていた。
それでも、何を話せばいいのかわからずに、思いついた適当な話題を振ってみる。
「そういえば……昨日の雷、凄かったですよね」
「うん、あんな音、久しぶりだったな」
「電車、揺れましたよね。……ちょっと怖かった」
「あの音で、目が覚めた気がした。そいえば、駅から、歩いて帰ってるの?」
「はい。15分くらい。ちょうどいい運動になってます」
「ああ、あの坂の途中に信号がやたら長いとこ、あるよね」
「わかります! 私、よく引っかかるんです。あそこ」
「俺も小さい頃、あそこでよく信号にひっかかって、持ってたアイス溶かしたことあったなぁ」
「家に着く前に食べたらよかったのに」
「うん。一緒に居た女の子にもそう言われたよ」
「へぇ? 仲良かった子なんですか?」
「うん。とても。昔にね大事な約束をした子」
「そうなんですね」
「でも今はなかなか会えなくてね。話すこともあまりなくて。寂しいよね」
そう言った光太さんは、少しだけ微笑んだけど寂しそうな眼をする。
私はと言うと、胸の奥がチクリとした。
昔の話なのに。今日初めて話した人なのに。
『大事な約束をした子』
その小さな女の子にちょっとしたやきもち……してるんだなって自分でもわかった。
その後、駅前で見かけた浴衣の話から、昔いった盆踊りの話をお互いにしたり。
川べりで魚釣りをしたり、ざりがにを取った話をしたり。
どうやら地元が同じみたいで、共通の話題が多くてとても楽しい。
他の人が聞いたら他愛もない話を重ねていく。
気づくと、あっという間に葉月駅のアナウンスが流れた。
「着いたみたいだね」
「はい」
「話相手になってくれてありがとう。あっという間だった」
「こちらこそ。お話出来て楽しかったです」
お互いに顔を見て、微笑みあう。
電車の降り際「じゃあ」と言いあい、やっぱりお互いの場所へと戻ってゆく。
改札口を出て、自宅まで歩いてる最中。
もしかしたらまた、あの車両で会った時に、もう少しお近づきになれるかも。
そんな期待感が、私の中で仄かに生まれてた。
ちょっと嬉しくなって、知らず知らず頬が緩んでいた。
*
その翌日。
今日もいつもの時間に車両に乗る。
ただ、少し変化があった。
「今、帰り?」
光太さんが、声を掛けて来てくれた。
「はい。光太さんもですか?」
「うん。久しぶりにね。懐かしい人たちと会ってたんだ」
そんな風に話してると、いつものように動き出す電車。
なのにまた、寒気がしてきて――
足元をみたら床に水が張っていた。
「え? また?」
どんどん水が流れ込んできて、車両の中に水が溢れてくる。
あっという間に水位が、足首まで達していた。
これは……異常だ。絶対におかしい。
なのに周りの乗客は誰も気にしていない。普通に座って、普通にスマホを見て、普通に眠っている。
水の中に足を突っ込んでいるのに。
「この車両……おかしいですよね?」
光太さんに真剣に話しかけた。
「そうだね」
あっさりと言う。
「どうしてそんなに冷静なんで――」
「落ち着いて」
彼は私が全部言い終わる前に、そう言い微笑んだ。
「大丈夫だから。彩佳は、心配しすぎ」
その笑顔がなぜか胸に響く。
暖かくて、安心できる笑顔。
でもこのまま、ここに居てはいけない気がしてならない。
「でも……。私、次の駅で……降ります」
そう伝えた瞬間、光太さんの表情が変わり
「駄目だ!」
急に、私の腕を強く掴んできた。
その変化に驚きと共に困惑した私は、彼の手を振り払おうとしたけれど、大きく力強いそれは微動だにしない。
「いっ痛い……っ」
思わず声が出る。
「あっ……ごめん。でも、駄目だ。ちゃんといつもの駅で降りるんだ」
光太さんの顔は真剣そのもので、私の腕を掴んだまま離そうとはしない。
「わっ、わかりました。だから腕を……」
「駅に着いたら離すよ」
光太さんの声が、表情が、さっきまでと全然違う。
ずっと感じていた安心感が、恐怖と気持ち悪さに変わった。
この人、一体何者?
最寄り駅の葉月坂に着くまでの時間。二人ともずっと黙ってた。
私は光太さんが怖くて。気持ち悪くて。
顔を上げられずに俯いたまま。
普段よりも、電車に乗っている時間が長く感じる。
足元を濡らす水が車内灯の光を反射し、車両が揺れるたびにキラキラさせながら波立つ。そんな光景を眺めながらも、私の心は嵐の中に立たされているように乱れていた。
早く着いて! 早く……っ!
心の中で唱え続ける。
恐怖なのか、不安なのか。どちらにしろここから逃げたい。
なんでこんなことになってるんだろう。
訳のわからない奇妙な状況を呪いたくなった。
普段の倍、いや数十倍にも思える時間だった。
やっと葉月坂駅につき扉が開くと、彼は腕を離してくれた。
私は光太さんの顔を見ず、声もかけず、逃げるように電車を降りた。
そのまま振り返らずに小走りで駅を出た。
*
今日は、電車の時間をずらした。二、三本遅い電車に乗れば、光太さんはいないはず。そうすれば、あの異常な状況に巻き込まれずに済むかもしれない。
暫く違う路線の電車に乗ろうかな? とも思った。でも、そうすると歩く距離がいつもの倍以上になってしまう。
迷った末に、やっぱりいつもの電車の六車両目に乗り込んでしまった。
彼の姿はない。
ほっとした。
やっぱり、あの水は彼が関係していたんだ。
だとすると――
彼は本当に何者なのだろう?
浮かぶ疑問にゾッとする。
普通の人ではない。
肌寒さを覚え、半袖のブラウスから出た腕を数回摩った。
そのうちに動き出す電車。
もう彼が乗り込んでくることも無いだろう。
そう思うと、安堵感が込み上げて気が抜けた。
でも少しすると、隣に誰かが座る気配がした。
「遅い時間だな。残業?」
その声に、全身に戦慄が走る。
光太さんだった。
いつの間に?
さっきまで確実に、この車両にはいなかったのに!
「どうして……? ……ここに?」
声が小さくなってしまう。
背筋が凍るような恐怖。
心臓がバクバクする。
「どうして? 変なこと言うなぁ。俺たち、いつもそうだろ?」
いつも……って?
私たちが話すようになったのは、つい数日前から。
この人、絶対変だ。
逃げなきゃ。
そう思って場所を移動しようと腰を浮かせたと同時に、電車がトンネルに入る。
トンネル?
この路線にトンネルなんて……あったっけ?
窓の外が真っ暗になった瞬間、水位が一気に膝の高さまで上がった。
「な……なに……? なにこれ」
乗客の誰かが出す音。衣服の擦れる音、スマホから漏れ聞こえるシャカシャカ音。
同じリズムを刻みながら進む、線路を電車が踏む音。
そう言った周りの音が、全て消えた。
車両の揺れも感じなくなった。
静寂の中で、水だけがたゆたい、ゆらゆら不気味に生きていた。
「嘘……待って……」
「大丈夫」
水位がさらに上昇していた。腰元近くまで迫っている。
「こんなの変でしょ!? 普通じゃない!」
あり得ない状況に混乱しながら周りを見回すと、乗客は全員消えていた。
車内には私と光太さんだけ。
「あなた、なんなの……っ!? 私、どうなるの!? おかしいでしょ! ……助けて!」
今すぐ逃げたくて、立ち上がろうとしたけれど、水の抵抗で思うように動けない。
水の圧が重い。まるで全身を縛られてるみたいで、思うように動かせない。
「落ち着け」
慌てる私の耳の傍、至近距離で聞こえる声。
「どうしてそんなに落ち着いてるの!? ……あなた何者なの? ねぇ! いや! 近づかないで!」
彼の存在が。今の状況が。
全て恐怖でしかなかった。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、光太さんが静かに言う。
「大丈夫。彩佳は守る。このまま、俺を信じて」
彼が私を強く抱きしめた。
その瞬間、信じられないことに身体は拒絶するどころか、力がスッと抜けて行った。
水位は既に、首元まで迫っている。
もうすぐ完全に、私たちは水に沈んでしまうだろう。
なのに。
水に包まれているのに、苦しくない。
むしろ、心地よささえ感じる。
不思議だ。
光太さんの腕の中にいると、本当に大丈夫のような気がしてきた。
恐怖も不安も全て、水に溶けるように消えてゆく。
自分の鼓動だけが、ドクン、ドクン、とやけに大きく響いてくる。
「光太……さ……」
「ここにいるから。ずっと、ここに居た。彩佳と居たから」
水は、ついに私たちを完全に飲み込んだ。
暗い水の中で、光太さんの顔が滲んで見えた。
優しい笑顔。
どこか懐かしい、はにかむように笑う顔。
あれ? この表情、昔から知ってる。
でも、どこで? いつ?
記憶の奥から、何かが蘇ろうとしている。
暖かい午後の日差し。
川のほとり。
小さな手と手を繋いで。
「約束したじゃないか。絶対に、離れないって」
光太さんの声が、身体中に沁み込んでゆく。
水中なのに、はっきりと聞こえる。
もしかして――
この人は……
幼い頃、一緒に川で水遊びをした光景が、瞼の裏に薄っすらと浮かんだ。
*
闇の中で、車内アナウンスが響いた。
「次は、葉月坂ー、葉月坂です。お降りの――」
私……たちが降りる駅。
「彩佳」
光太さんの声が、私の中に入ってくる。
「一緒に、降りよう」
「うん、ありがとう、光太」
二人でトンネルの向こう側へ。
夜なのに、光が溢れた出口へと水の中を漂いながら
ゆらり。
ゆらり。
ゆっくりと、流れてゆく。
その流れに身を任せて。
段々と近づく眩しい光に、そのまま私は目を閉じた。
「ちゃんとそばに居るから」
光太さんのそんな言葉を微かに聴きながら。
*
目を開けると、見知らぬ天井。消毒液の匂い。
吊るされたパックから、点滴液がポタリポタリと筒へ落ちている。
横からは、心電図の波形音が微かに聞こえてきた。
私、なんでここで、寝てる? の……?
「彩佳! 気がついたのね!」
母の声が聞こえた。
そちらの方へ視線を向けると、泣いているみたいだった。
どうして?
何があったんだろう。
霞む頭で色々思い出そうとしたけれども。
周りが騒がしくなってゆき、そのまま私は再び目を閉じた。
それからしばらくして。
再び目を開いた時には、思考はスッキリしていた。
どうやら私は、病院の一室にいるらしい。
状況からして、事故か何かに遭い、入院していると言ったところだろう。
私がいる病室のテレビがついていて、ニュースを流していた。
『三日前に発生した電車脱線事故の続報です。車両が川に転落した際、一部の車両は完全に水没しており、引き上げ作業が難航している様です。水没車両である六車両目の乗客、六名の方々は無事に救助されています。奇跡的にも死亡者は居られませんでしたが、一名の方は未だ意識不明の重体とのこと――』
そっか。そうだったんだ。
だから、水に飲み込まれたんだ。
あの六車両目は、本当に水に沈んでいた。
私は助かった。
でも意識が戻るまで、長い時間がかかった。
私が体験したこと。
あれは、その間に起きた出来事? 夢?
違う。夢じゃなかった。
あの水も、光太も、全部本当だった。はず。
その時の感覚がまだ残っている。
そう言えば、彼は……光太さんは
どうなったんだろう?
*
お盆の日。
病室に、見知らぬ女性が訪れた。五十代くらいの、上品な方。
「彩佳ちゃんよね? お久しぶり。私の事……光太郎のこと、覚えてる?」
光太郎。
その名前を聞いた瞬間、思い出が鮮明に蘇る。
「あ、お隣の……?」
「ええ。何年かぶりにね。こちらに戻って来たの。それでご挨拶をしたら、彩佳ちゃん、入院してると聞いて」
「はい。ご無沙汰してます。それでわざわざ、来てくださったのですか?」
「今月は……光太郎の十七回忌だから。彩佳ちゃんと光太郎は仲が良かったでしょう? でも、車両が川に突っ込んだあの事故。それに彩佳ちゃんも乗ってたって聞いてね。居てもたってもいられなくなったの」
そうだ――
懐かしい記憶が一気に、頭の中に蘇る。
決して忘れていたわけじゃない。
むしろ折に触れて、その頃の記憶は時々過ぎることがあった。
幼い頃の夏。
川遊びをした日。
隣の家の男の子。
いつも一緒にいた、大切な友達。
光太郎。
『絶対に離れない』って、約束したのに。
光太郎が川の水難事故で亡くなった時、私たちはまだ小学生だった。
その後、光太郎の家族は違う街へと引っ越された。
それから十六年。光太郎のことを忘れた訳じゃない。
でも、彼が大きくなった姿を、私は知らない。知るはずがない。
電車で出会った光太。
あの懐かしい笑顔。なぜか惹かれる気持ち。
すべてが繋がった。
「あの……荒唐無稽かもしれませんが。話を、聞いてもらえませんか?」
そう言うとおばさんは「もちろん」と言ってくれた。
電車に乗ってたこと、そこで起きた奇妙なことをゆっくりと話した。
「光太郎が、彩佳ちゃんを守ってくれたのね」
話し終えるとおばさんは、涙を浮かべて言った。
「ありがとう。あの子と……光太郎と一緒にいてくれて」
***
退院した日の夜。
私は、あの川沿いに立っていた。
橋の上から見下ろす水面に、月が揺れている。
「ありがとう、光太郎」
夏の湿った空気を含む風が、頬を撫でてゆく。
どこからか、彼の声が聞こえたような気がした。
『また会おうな、彩佳』
水面に映る三日月が、一瞬だけ、微笑んだように見えた。
―了ー
ご覧いただきまして、ありがとうございました(❁ᴗ͈ˬᴗ͈)