ボクの発表会 第二章
「遅れた遅れた~」
その日は日曜クラスの練習日だったけど、前の電車が非常停止ボタン対応したとかの遅延でスポーツセンターに着いたのはギリギリだった。
教室へ通う為に電車は使うけど、もうママの付き添いは無く一人で通うようになっていた。
エレベーターが上の階に行ったばかりで待てないので横の階段を3階まで駆け上がり、廊下も奥まで走った。
更衣室で手早く着替えようかと思って、教室に入った。良かった、まだ始まっていない。でも、あれ?
教室に皆が集まっていて、一番前にネギお姉ちゃんがいるけど、変だ。お姉ちゃん練習着に着替えていない。
「遅れました。でもネギ先輩、どうしたの? まだ私服で」
そうボクが言うと、お姉ちゃんは目を伏せてこっちの方を見た。
「あ、アユミ。悪いけど私、先月付でこの教室を退会したんだ」
「え……」
お姉ちゃんは、今度の市民祭りの発表会までは続けるって言っていたのに。
「何で、どうして?」
「実は、ウチの父さんの会社が倒産して……父さんが倒産~って」
そう言いながら、お姉ちゃんは苦笑いした。
「だから、もう辞めるんだ。そんな時に私が気楽にバレエ続ける訳にはいかない。どうせ、この5月で辞める予定だったしね」
「でも、発表会がほんの少し先に……」
そうボクが言うと、お姉ちゃんは目を伏せた。
「そうしたいけど、発表会ってお金がかかるんだ。そんな負担かけられない」
ああ。そうだった。さすがに1年目のボクでもバレエの発表会はとてもお金がかかる事、親とか関係者にもの凄い手伝いがかかる事ぐらいは知っていた。でも今回の発表会は地元・市民祭りの一環で、会場や機材の一部は市の設備なのでほぼ無料で使えるし、発表会もウチだけじゃなく他のバレエ教室との合同だし、出演は全て内々のメンバーだけで済ませて外部ゲストへの謝礼金は不要だし、一般的な発表会に比べてかなり安くできるらしいとは聞いている。
でも、お金がかかるのは会場の賃料だけじゃない。使う会場の付属設備だけじゃ、舞台設備は全然足りないし、大道具小道具、また舞台製作費用、それと照明スタッフとか専門家の人件費はかかるし、衣装のレンタルも結構かかる。
発表会のメインポスターなど広告は市民祭りとして市の方でやってくれるが、専用のチラシやパンフレットなどの印刷関係は、こっちで用意する必要がある。
本部教室には大人の部の人も多いから、子供の方の負担はやや低くしてくれているが、それでも出演者は一人当たり5万から8万円位かかると聞いている。でもこれはウチがまだ恵まれているから。
これが一般的な発表会なら子供一人で10万円越え、場合によっては20万円の大台に乗る事もある。
入場料が発生する場合はそれぞれチケットの販売ノルマなどもあるらしいが、今回のウチの市民祭りは観る方も無料だから、それもないから助かっている。
とはいえ、相応にかかる費用を出演者で負担しなければいけない事は、変わりない。
この日曜教室に来る生徒は、あまり裕福な家ではない事も、実は気付いている。元々がプロを目指すような教室ではないのだ。レッスン料も本部に比べて格段に安い。でも、最初はこの教室で始めた子達も、金銭に余裕があり、本格的にバレエを習いたい子達は本部の方に移動していく。
そんな発表会の準備も進んでいる中、予定より早くネギお姉ちゃんが、この教室を辞めようとしている。
聞けば、納得できる理由ではあるが、ある意味、ボクにとっては想定外の出来事だった。
「で、でもそれじゃ」
ボクはネギさんの方を見た。
「発表会のクララの役は?」
本来、この役は本部側の人がする予定だったところを無理言って回して貰った。
今更、また元に戻すの? 発表会までもう一ヵ月と迫ったところで。
「それなんだけどね」
ネギさんは、皆の方を一回見渡した後、こっちを見た。
「クララの役、アユミちゃんやらない?」
「え? えー!!」
ボクがクララの役!? ポワント(つま先立ち)も覚えたばっかりの私が!?
「この前一緒にやったのを見て、イケるんじゃないかと思ったのよ。実際、始めて半年くらいだけど、この中で一番見栄えいいんじゃない?。私の次くらい」
「え?」
ボクはそこに集まった人たちを見まわした。
確かに、ここは楽しく踊ろう的な教室で、本格的なキツイ練習こなしているのは半数以下。しかもトウシューズ履いているのもボクとネギお姉ちゃん以外には、ほんの数人しかいない。
トウシューズ履くほど本格的にやりたいと思っていないという一面もあるが、半分は経済面だ。
はっきり言ってトウシューズも高い。一般的なバレエシューズが3千円位からなのに対してトウシューズは最低1万円はするし、消耗品だから何度も買い替える必要がある。ボク達は足がすぐ大きくなるし、劣化も早い。特にトウシューズは足にピッタリ合っていないといけない。
経済的負担は、発表会だけじゃないのだ。
ふと皆の一団の中に、キーちゃんの顔が見えた。
この中で、経験の長さという意味ではかなり長いし、凄く上手い。でも……。
『だめだ!』
目が合ったキーちゃんは下を向いた。
キーちゃんは、まだトウシューズ履けない。クララの役には向いていない。
それにキーちゃんは今回、ネズミの王さまを楽しみにしている。
今更、主旨替えなんか出来ない。
でも、他に誰か……。
「アユミちゃ~ん。やったらぁ?」
数少ないトウシューズ履いている娘が言った。確かこの人は花江さん。いつもそう呼んでいるけど、この花江が姓なのか名前なのかは、憶えていないし今更聞けない。ネギさんと同じ今度中3で、地味に上手い。しかも、なんだかポワポワしている。一応、教室上限の中学卒業までした以降は、サポート側に来てくれると聞いている。
「私はぁ確かに技術だけなら上かもしれないけどぉ。でも貴方には華があるんじゃない?。同じ技を決めても、私だと地味になっちゃうのよぉ」
そう彼女が言うと、皆もうんうんと頷いている。
それを確認し、ネギさんは私の肩に手をやった。
「だから、今すぐじゃなくても良いの。考えて。私はアユミちゃんにクララを演って欲しい。私はもう此処には来れないけど」
「そんな!!」
ネギお姉ちゃんの切実な願いは分かる。
でも、でも……。勝手だよ! そんな役をボクに押し付けて。でも……。
そう思った次の瞬間、ボクは逃げ出していた。この教室から、みんなのいるこの場から。
色んなものが、頭の中を交錯した。
何なんだよ。一体何が起こったんだ。
ボクはスポーツセンターも飛び出し、何も考えることなく電車にも乗り、家に帰っていた。
バタンと玄関から入る。
ママが驚いた顔でこっちを見ている。
「どうしたの? 今日は教室でしょ」
「うわああああああ!」
ボクはママの胸に飛び込んで抱きついて泣いていた。
「あらあら」
訳がわからないままママは抱きしめ返し、ボクの頭をポンポンと叩いた。
かなり長い間、ボクは泣いていたと思う。でも、ママは何も言わずずっと抱きしめてくれていた。
ようやく落ち着いてきた。
ゆっくりと顔を上げる。ママがこっちの方を見ている。
「落ち着いた?」
「うん」
ボクとママはダイニングへ移動した。
ママはボクをソファに座らせた後、キッチンに移動し、ティファールの湯沸かしのスイッチを入れ、食器棚から2人分のウェッジウッドのマグカップを出して、スティックの粉末レモネード、そして湯沸かしで沸いたお湯を入れて、愛用のピンクのマグカップの方をボクの前に置いてくれた。
それをボクは手に取る。
いつもならちゃんと本物のレモンと蜂蜜で作るのだが、今回は急ぎという事だろう。それでもボクの大好きなホットレモネードだ。
そのちょっと熱いレモネードの湯気の香りを嗅ぐだけでだいぶ落ち着いてきた。
ママはもう片方、白いウェッジウッドのマグカップを手に取ると一口飲んでから、口を開いた。
「じゃあ、何で泣いていたか教えてくれる?」
「うん」
ボクはそのマグカップを両手に持ったまま、ボソボソと話し始めた。
ネギお姉ちゃんが、バレエ教室をやめる事。そしてやめる理由も。
そして本来の自分の主人公・クララの役を、ボクに譲りたいと提案してきた事。
日曜教室の他の娘達も、それに賛同してくれた事。
ママは、聞きながらゆっくり頷いている。
「で、アユミはどうしたいの?」
「え?」
言われて気が付いた。
それに対して、どうするか何も考えていなかった事。ただ、ネギお姉ちゃんがやめる事のショックで思考が停止していた事に。
「どうしよう……」
「そうねぇ、どうしようかしらねぇ」
そう言われて改めて、その役を自分がやりたいと思っている事に気付いた。
お姉ちゃんがやりたかったクララの役を、みすみす本部の方に返したくなかった。
自分がクララの役をする事をお姉ちゃんも望んでいる。
だからやりたい。お姉ちゃんの望みを叶えたい。
でも同時に、無理だとも思う。まだ自分はポワント(つま先立ち)も上手く出来ない。未熟というより無謀なチャレンジだと思う。全員がプロではないが、大人のベテランも混じった舞台の、一幕というか1シーンのみとはいえ主人公を演じないといけないのだ。単なるソロとは違う。
どうしたらいい。どうしたら出来る。
考えた。
じっくりと考えた。
どうしたらいいかの、方法は1つしかない。自分が上手くなるしかない。
ゆっくりと顔を上げた。
「ママ、お願いがあるの」
「ん?」
ママはちょっとだけ首をかしげた。
「レッスンを増やしたい。本部の方で、週2回位。もっと上手にならないと」
「そう……」
ママも少し考えている様だった。そしてスマホを出してきて検索を始めた。
いくつか出しては消し、出しては消し。
場合によっては、ウチの本部の方だけじゃなく、別の教室も見ているかもしれなかった。
ゆっくり待ちながら、マグカップのレモネードを飲んだ。
少しぬるくなって、味も少し薄いけど、飲んでいると気持ちも落ち着いた。
言う事は言った。やりたい事は、ちゃんと伝わった。後はママの判断だ。
教室の他の子達には少し申し訳ない事だが、実は我が家は、かなり裕福だ。
パパは2代目の社長でお金持ち。でもって、元タカラジェンヌの母に惚れぬいて結婚し、ボクが生まれた。
だから、パパはママにもボクにも激甘だし、多少の我儘も、経済的負担も無理がきく。
その上、どうやら今のママのボクに対する望みは、バレエが上手くなって宝塚音楽学校に入って、自分がなれなかったトップスターになる事……に軌道修正した感がある。
本来なら、早々に日曜教室から本部の平日クラスに移動して欲しいとも思っている。
そう。この状況は、バレエが上手くなりたいボクの望みとママの望みは一致している、今のところは。
「じゃあね、月・水にジュニアクラスで90分。金曜日に、発表会用の個人レッスンを90分。それでいい?」
ボクは、うんうんと頷いた。
「日曜教室のレッスンも今まで通り受けるのよね」
再度、うんと頷いた。
ネギお姉ちゃんは、もう来ないけど。平日クラスを受ける為に、そっちをやめたくはなかった。やめたら本当にネギお姉ちゃんと縁が切れるみたいだし、今回の発表会が終わっても、その後も平日クラスのレッスンを続けたとしても、日曜教室の方は極力続けたかった。
「でも、大丈夫?」
「え、何が? 週4回は多いけど、やり遂げるよ」
「そういう事じゃないの」
ママはちょっと嘆息して、話し始めた。
「この状況で貴方がクララの役を受けるのという事は、本部の子達に喧嘩を売ったのと同じ事よ。卒業する事を理由に特別に役を貰った筈なのに、その役を返さず未熟な貴方が代わりにする。しかも貴方は未熟だからという理由で、本部のクラスのレッスンを追加で受ける為に乗り込んでくるなんて、本部の人達が快く思う筈がないもの」
「あ……」
そんな事、考えもしなかった。
むしろこんなタイミングで、今更返してくるの? と迷惑がられると思ったから。
「習うなら、別のバレエ教室でもいいのよ」
ママは、ちょっと冷ややかな目で見てくる。
微笑まで浮かべている。挑発しているのか?
「いい!!」
ボクは断言した。
逆に言えば、それぐらいの覚悟が必要という事。生半可な気持ちじゃ出来ない。
「やるよ。皆に文句言わせない位、上達すればいいんだろ」
「まぁ怖い」
全然怖がっている様子はない。
「宝塚音楽学校受験科目は、バレエじゃなくてもいいのよ。日本舞踊でも」
「バレエするもん。ロイヤルバレエスクールのスカラシップ取って、国立バレエ団に留学するもん」
「あらあら、そんな言葉、どこで覚えてきたのかしら」
ママは機嫌よくコロコロと笑う。
「もういいよ!」
ボクは立ち上がって2階へ上がった。
昨夜途中で止めていた、バレエの舞台・ 『くるみ割り人形』の動画の続きを観る為。
それ用にパパの部屋のパソコンは使って良いと許可は貰っている。
ボクが2階にあがる途中、ママはどこかへ電話している様だった。
また何か悪い事考えているのかもしれないけど、もう気にしない事にした。
☆
PS.不覚にも、そのバレエの動画を最後まで観て泣いた。ネギお姉ちゃんと一緒に観たかったなぁ。