062 二人目の老師
ベルが拳を構えて見せたが、ファビオは直立不動のままである。
「……私をトレーニング相手に……?」
「うん。ガスパールよりも強いというお前と手を交えてみたいんだが、ダメかな?」
「…………」
ファビオは数秒黙り込んでようやく口を開いた。
「……御命令とあらば……」
「ありがとう、ファビオ」
「……しかし、手加減は出来かねますが……」
「いいよ。接待をされてはトレーニングにならないからな」
「…………」
ファビオは無言でうなずいた。
「————お兄様! 病み上がりなのですからお止めください!」
「大丈夫だよ、レベイア。口ではこう言いながらファビオはきっと手加減してくれるさ」
「…………」
ベルがファビオへ顔を向けたが、今度はうなずくことはなかった。
「フフ、顔の表情で大体お前が何を考えているのか分かるようになって来たぞ。さあ、レベイア。危ないからお前は下がっていなさい」
「……分かりましたわ。ただし、くれぐれも無茶はなさらないでくださいね」
渋々といった様子でレベイアは二人から距離を取った。
「————さて、始めようか。ファビオ」
「……参ります……」
手始めにファビオは無構えから左ジャブを放った。それは数ある手技の中でも最速の一手であったが、『パァンッ!』という乾いた音を立てて標的の目前で動きが止まった。
「…………!」
「まさか本当に手加減してくれるとは思わなかったよ」
右手でファビオの左拳を掴んだベルは驚いたような表情で言った。
「…………」
「————おっと、危ない」
拳を握られたファビオが足を上げて膝を砕きに来たが、いち早く察知したベルは拳を離して回避する。
ベルから距離を取ったファビオの表情は少しも変わっていないように見えるが、その実、内心では多少の動揺が見られた。
(……世間知らずのおぼっちゃまに少しお灸を据えて差し上げようと思っていたが、さすがに手加減が過ぎたか……)
ファビオが腕を上げて構えると、ベルは白い歯を見せた。
「怖いな。威圧感が増した」
「…………」
ファビオの二撃目が放たれる。
それは先ほどのものよりも数段速いジャブであったが、今度は掴まれることなく空を切ってしまった。
「いいね。今度は俺からも行くぞ!」
拳一つ分顔を傾けてジャブを外したベルはお返しとばかりに、右の拳を突き出した。
「————!」
ベルの右ストレートが唸りを上げてファビオの顔面を襲う。これを間一髪躱したファビオが蹴りも交えて応戦を始めた。
————レベイアは呆然とした様子で二人のトレーニングを見つめていた。
今まで半ば無理矢理にガスパールとトレーニングさせられていた兄の姿を何度か見たことがあったが、その時の動きとは素人目にも違って見える。それはファビオのような洗練された動きではなかったが、明らかにベルの方が優勢を保っており、徐々にファビオが後退し出した。
その時、後退したファビオの足が石につまずき、大きくバランスを崩した。
(————もらった!)
好機と見たベルが右ストレートを打ち下ろしたが、これはファビオの誘いの手であった。ベルが大振りになったところを見逃さず、ファビオの右ストレートが発動する。
「————お兄様‼︎」
顔を覆いながら叫び声を上げたレベイアだったが、先ほどまでの格闘の音が聞こえなくなったことを確認して恐る恐る顔を上げた。
すると視線の先には笑顔でファビオと握手しているベルの姿があった。
「————ありがとう、ファビオ! いいトレーニングになったよ!」
「……いえ、こちらこそ……」
落ち着いて見てみると、ファビオのカウンターを被弾したと思われたベルは綺麗な顔をしており、逆にファビオの右頬がわずかに赤みを帯びていた。
「な、何が起こったんですの……?」
不思議そうにレベイアがつぶやくと、ファビオが答える。
「……まさか、あの場面で身体が沈み込むとは思いませんでした。私が見たことの無い動きです……」
「沈み込む……? あっ! それってもしかして————」
何かに気付いたようにレベイアが口に手を当てた。その様子にベルがニヤリと笑みを漏らす。
「————そう。咄嗟にヤンアルがカレンを倒した時の動きがトレースされたんだ。でも、最後の左フックをギリギリで躱されるとは思わなかったよ」
「……ベルティカ様の振りがもう少しコンパクトであれば、私は今頃空を見上げていたことでしょう……」
「やっぱりそうか! スピードは俺の方が速かったと思うけど、一つ一つの技のキレはファビオの方が上だったな!」
「……失礼ですが、どうして急に身体能力が上がられたのですか……? バフ魔法を掛けているわけではなさそうですが……」
「うん、それなんだが————」
◇
ベルの仮説を聞いたファビオは興味深そうにアゴに指を当てた。
「————成程……、ヤンアル様の不思議な力と血液が身体に入り込んだために身体能力が強化されたと……」
「あくまでも仮説だがな」
突拍子もないベルの言葉にファビオはうなずいた。
「……信じましょう。……と言うより、死の淵を彷徨った人間の身体能力が向上するなど『氣』の作用以外考えられません……」
「『キ』って?」
「……『氣』とは東洋に伝わる生命エネルギーといったところでしょうか。『氣』を用いることで身体能力や五感を高められる他、殺傷能力を強化したり逆に傷を治療することなども出来るそうです……」
「『氣』か……。そう言えば、ヤンアルもいつか口にしていたような気もするな。ところで、ファビオ。そんな知識をどこで得たんだ?」
「……州立図書館の禁帯出(貸し出し不可)で見ました……」
「やっぱり州立図書館だな! 出発する前に行ってみよう!」
「……出発……?」
不思議に思ったファビオが尋ねると、レベイアが代わりに答える。
「お兄様はヤンアルを捜しに行かれるそうですの」
「……それで私とトレーニングを……」
「ああ、そうだ。身体能力や五感は高まったが、俺は武術に関しては素人だ。子供の頃から避けていたことを今こそ払拭したいと思っている。本当はガスパールに教えてもらうのが筋だろうが、今はトリアーナに戻っている時間が惜しい」
ここまで言うとベルはヤンアルの真似をして拳と掌を合わせて見せた。
「————ファビオ。いや、ファビオ老師! どうか俺に技や闘いの駆け引きを教えてください!」
「私からもお願いいたしますわ」
「……お止めください……」
ベルとレベイアに頭を下げられたファビオだったが、礼を避けるように身を逸らした。
「……ファビオ……」
「……頭を下げる必要などございません。ただ命じていただければいいのです……」
ファビオの返事を聞いたベルの口元がゆるんだ。
「————よし、それではお前に命じる。俺を強くしてくれ!」




