033 『蛟竜』
つい先ほどまで泉のほとりには自然の生み出す音律が協奏曲のように奏でられていたが、今は不気味な静寂さが辺りを支配し、まさに嵐の前の静けさという表現にピッタリとなった。
「お、おい、見ろ! 湖面が……!」
ベルが指差した泉の中央では、不自然なほど大きな波紋が幾重にも発生して広がりを見せていた。
「ベル、ミキ。剣を抜いて構えろ」
「あ、ああ!」
ヤンアルの声に従ってベルが剣を抜いた瞬間、波紋の中心が山のように隆起し、大量の湖水が雨のように湖面に降り注いだ。
「くっ!」
相当の高さから打ちつけられた水飛沫が泉のほとりまで跳ね飛び、ベルは思わず眼を閉じて顔を背けてしまった。
十数秒後、顔を叩く水飛沫が止んだと感じたベルは眼を開けた瞬間絶句した。
————そこには、樹齢数百年の大木を思わせる太さの胴体を持った大蛇のような生物がこちらを睨みつけている姿があったのである。その背景には先ほどの水飛沫によって生じたであろう虹が色鮮やかに掛かっており、そのあまりにシュールな絵面にベルは思考が混乱した。
「————な、なんだ⁉︎ 一体何がどうしたらこうなるんだッ⁉︎」
「落ち着け、ベル! おそらくアレは『蛟竜』の一種だろう」
「セ、セルペンテ⁉︎」
おうむ返しするベルにミキが視線を外さずうなずく。
「セルペンテとは水辺に棲む竜の呼び名だ。ただ、竜と言ってもその姿は蛇に近いものや、魚や鰐に似たものなど個体差が大きいらしい」
「蛇や魚……」
改めて前方のセルペンテをじっくりと観察すれば、その姿は魚の鱗とヒレ、そして竜の頭部を持った大蛇のようにも観えた。
「……なるほど、言われてみれば————いや、関心してる場合じゃない! なんなんだ、アイツは!」
「状況から考えてあの『蛟』————いや、セルペンテとやらが失踪事件の原因と見て間違いないだろう」
「原因……⁉︎」
ヤンアルの言葉を聞いたベルは再びセルペンテへと視線を送った。その体長は以前襲われた翼竜よりもかなり大きく、大人を簡単に丸呑み出来そうなほどである。
「ま、まさか、失踪した人たちはコイツに……‼︎」
想像したことを口に出すと吐きそうになり、ベルは口元を押さえて続く言葉をゴクリと飲み込んだ。
「どちらにせよ、こうして姿を現したからには私たちを逃す気はなさそうだ。ミキ、お前とベルはもう少し泉から離れていてくれ」
「————ヤンアルッ!」
ヤンアルが少し視線を外した瞬間にセルペンテが凄まじいスピードで襲い掛かる。しかし、ヤンアルは顔を背けたままトンボ返りしてセルペンテの攻撃を外すと、その余勢を駆って思い切りセルペンテの頭部を蹴り上げた。
「キシャアァァァァッ‼︎」
耳をつんざくような金切り声を上げ、セルペンテが泉へと吹っ飛ばされた。
ヤンアルは何事もなかったかのように着地すると、ベルとミキの方へ振り返る。
「ミキ。今ので奴の射程距離は測れただろう。もう少し下がってベルを守ってやってくれ」
「……キミはどうするんだ、ヤンアル」
「知れたこと。『仙士』として妖怪は退治する」
「————『センシ』……⁉︎」
ベルはどこかで聞いた『センシ』と言う単語に反応したが、すぐにハッとしてヤンアルを呼び止める。
「待つんだ、ヤンアル! 一人じゃ————」
「大丈夫だ。水上での闘いには慣れている————おっと、翼を出すのはマズいんだったな」
そう言うとヤンアルは泉の端へ軽やかに跳躍してしまった。このままでは豪快に着水してしまうと思ったベルとミキが同時に声を上げた。
『ヤンア————ル?』
二人は眼前の光景に揃って眼を丸くした。
なんと、ヤンアルは泉に浮かぶ水蓮の葉に左足だけで平然と立っているのである。左掌は水面に向け、右掌は軽く前に突き出し、右脚を宙に浮かしたヤンアルの身体は小揺るぎもせずピタリと静止している。その優雅な立ち姿は、まるで彼の偉大な彫刻家によって生み出された彫像のようであり、ベルは魅入られたようにヤンアルから眼を離せなくなってしまった。
しかし、当の本人はそんな視線など全く気にする素振りも見せず、突き出した右掌を手招きするように動かした。
「さあ来い、セルペンテ。お前の相手は私が引き受けよう」




