018 『神州見聞録』
ヤンアルとカレンの代理決闘の翌日、朝食を終えたベルの足は或る部屋に向かっていた。普段はあまり人の立ち入ることのないその扉を開けると、わずかなカビ臭さと共に懐かしい匂いがベルの鼻腔を刺激する。
「うーん、懐かしい匂いだ」
書庫に入ったベルは深呼吸をしてつぶやいた。
「……匂いと記憶は密接に関係していると聞くが、この紙とインクの独特な匂いを嗅ぐと、子供の頃にガスパールからここで強制的に勉強をさせられ————いや、授業を受けていたことを思い出すな」
懐かしさと同時に脂汗が出るような思い出も蘇ったベルは、記憶を呼び起こす元となった匂いを吹き飛ばすために窓を開け放った。新鮮な風が書庫に流れ込み、滞っていた空気を循環させる。
「————さてと、確かこっちに……」
気を取り直したベルは書庫の端の本棚へと歩き出す。そこには外国の歴史や風俗などを記した文献がわずかに並んでいた。
(……どうもヤンアルは記憶喪失のようで、無理に思い出させるのは難しそうだ。となると、キーワードは『東の空より紅き翼を携えし一人の騎士が降臨され————』……)
ベルは真面目な表情で『東方』関連の文献を指で追い始める。
(ん……?)
見慣れない文字が書かれた背表紙にベルの指が止まる。
(————『神州見聞録』……? 全く読めない文字だ)
興味を惹かれたベルは本を手に取ってみた。表紙にも題名と思われる背表紙と同じ文字が大きく書かれており、その脇には『民明書房』とやはり読めない文字があった。装丁や表紙に描かれた紋様も珍しいものであり、どうやら他文化の書物で間違いなさそうである。パラパラとめくってみると、そこには見慣れた横文字が連なっており、ベルはホッと息を吐いた
(良かった。中身は翻訳されている。なになに…………、どうやら内容はマリオ・パーロという男の旅行記のようだな————……)
ベルは書庫の隅に置かれた机について書物の中の世界に飛び込んだ。
◇ ◇ ◇
————大砂漠を越え辿り着いた先は、気候から建築様式、人々が話す言葉や着ている衣服などありとあらゆる全てが私が今まで見たことも聞いたこともない土地であった。皇帝によって統治されるこの国の名は…………
(……国の名は『シンシュウ』というのか。俺も初めて聞いたな。続きは————)
————『シンシュウ』の地で私が最も興味を惹かれたことは、皇帝から命を受けて『ヨウカイ』という魔物を退治する『センシ』と呼ばれる拳闘士の存在である。
(————拳闘士! これはビンゴじゃないか⁉︎)
————『センシ』の彼らは我々がよく知る魔法とは異なる体系の不思議な術を用いて『ヨウカイ』と闘う。呪文の詠唱を必要とせずに、特殊な呼吸法によって自己の身体能力を強化するのである。この技を用いれば女子供でも大岩を持ち上げたり、川をひとっ飛びで渡るなど信じがたい力を得られる。
(特殊な呼吸法によって大岩を持ち上げたり、川をひとっ飛び……!)
————この不思議な技は『キコウ』と総称しているそうだが、どうして呼吸をするだけで超人的な力を得られるのか我々には理解が遠く及ばない。私は彼らに金品と引き換えに教えを請うたが、彼らは頑として首を縦に振ってはくれなかった。どうやら弟子入りして長い修行の後、人品も認められなければ授けてはくれないらしい。しかし、我々にはこの地にこれ以上留まる時間がない。我が王の命により『シンシュウ』の地の更なる東の海に浮かぶという黄金郷を探し当てなければならないのだ。嗚呼、無念である……。
◇ ◇ ◇
ベルは『神州見聞録』を閉じてフウッと息をついた。
(……飛ばし読みした程度だが、どうやらヤンアルは『シンシュウ』と関わりがあることは間違いなさそうだ)
「————ル」
(ヤンアルが使うあの技は『キコウ』というのか。ヤンアルがミキに教えないと言ったのも、正式に弟子入りをしていないからなのか)
「————ベル!」
声に驚いたベルは思わず『神州見聞録』を懐にねじ込んでしまった。
「聞いているのか? ベル」
椅子に座ったベルの肩口から、ヤンアルの美しい顔がニュッと覗き込まれる。
「ヤ、ヤンアル! こんな間近でキミの顔が見られるのはいいが、ビックリするじゃないか!」
「何を言っている。二度声を掛けたが、お前が反応しなかったんじゃないか」
「へ? そ、そうか。すまない、読書に夢中になっていたんだ」
「ふむ、読書か……」
ここでようやくヤンアルが肩口から離れてくれてベルが振り返る。
「成程、ここは書庫か。なかなかの蔵書だな」
興味深そうに辺りを見回すヤンアルだったが、その出で立ちは昨日までとは異なっていた。
「……ヤンアル、その服はどうしたんだ?」
「ああ、これか。この衣はカレンに借りたんだ。私が着ていた物は破れてしまったからな」
「カレンの……」
ヤンアルの褐色の肌に純白のブラウスが大層映えており、その美しい対比にベルは思わず見惚れてしまう。
「だが、これには少し問題があるんだ」
「問題?」
「丈や身幅はピッタリなのだが、胸部の辺りが少し窮屈————」
わずかに眉根を寄せたヤンアルが胸に手を置いたとき、第一から第三までのボタンが圧迫に耐えきれず弾け飛んでしまった。
「……全くもって問題なんかないじゃないか」
盛大に現れた深い谷間に向かって感謝するようにベルが答える。
「うん。胸部の問題はこれで解決されたが、もう一つ問題があって————」
「ヤンアル! こんなところに居ましたのね!」
その時、幼さを残す声と共にレベイアがカレンを伴って書庫に入ってきた。胸元が露わになっているヤンアルの姿を見て、レベイアの眼が吊り上がった。
「————お兄様! 書庫で一体何をなさっていますの⁉︎ 私、ますます見損ないましたわ!」
「待て待て、誤解だ! 俺は何もしていない! ボタンの奴がヤンアルの胸を抑えきれなかったんだ!」
『…………』
レベイアとカレンは無言で顔を見合わせた。
「……やっぱり貴女なんか嫌いですわ」
「すまない、カレン。借り物を傷めてしまった」
「……いいえ。私が至らないせいでございます。どうぞお気になさらず……」
「気にするな、カレン。俺はスレンダーな女性も美しいと思うぞ?」
「————!」
場を和ませようとしたベルだったが、氷のようなカレンの眼に見据えられて慌てて話題を変えた。
「————と、ところで、ヤンアル。もう一つの問題とはなんなんだい?」
「ああ、やはりこの衣の色が気になってな」
「色?」
「以前に言っただろう。私の故郷では白は喪服に使われる色だと。こちらでは縁起の良い色かもしれないが、私にはどうも落ち着かないんだ」
「成程……」
ベルが腕を組んで答えると、レベイアが代わりに口を開く。
「ヤンアル。街へ服を買いに参りますわよ!」