109 取り戻した記憶
ヤンアルの言葉に、ベルは驚きと嬉しさが入り混じった表情で訊き返す。
「————き、記憶が戻ったって……、本当かい……?」
「ああ。所々あやふやな部分はあるが、概ね取り戻した」
「……ヤンアル————」
ゴクリと固唾を呑み込んだベルが口を開いた時、またしても『クウ』という可愛らしい擬音が室内に響いた。
わずかに頬を赤らめたヤンアルが何か発する前にティーナが先手を打つ。
「その話は食事を取った後で聞かせてもらいましょうか」
◇
食事を終えたヤンアルはコップの水を飲み干した後、ゆっくりと語り始めた。
「————私の本当の名前は朱燕児。『朱』が姓で、『燕児』が名だ。字は特にない」
「アザナ?」
聞き慣れない言葉に向かいの席に座るベルが思わず口を挟んだ。
「私の国では主に男子が姓名とは別に呼び名を持つことがある。ロセリアで言うところの愛称のようなものと思ってくれればいい」
「キミの国とは、やっぱり————」
「————ああ、私は『神州』の出身だ」
「……神州国……、遙か昔に東洋に存在した国の名ね……」
ヤンアルの右手の席に着いているティーナが眼鏡のツルに触れながらつぶやく。
「マル————いや、これからはティーナと呼ばせてもらおう。お前も神州を知っているのか?」
「……貴女にティーナと呼ばれるのは何か複雑な気分ね」
「ティーナさん、ヤンアルに愛称で呼ばれるのは家族とか仲間だと思われた証なんです。どうか、気を悪くしないでください」
すかさずベルが助け舟を出すが、ティーナは気を悪くするどころか、わずかに笑みを浮かべて答える。
「安心してください、『ベル』。複雑とは言ったけれど、別に嫌だとは言っていません」
「ティーナさん……!」
ティーナはベルにうなずいて見せると、ヤンアルに向き直って答える。
「————私も長くフランチェスコの元にいたから、少しは東洋について知っているわ。神州とは西暦で言えば、900年代後半から1200年代半ばまで存在していた国の名ね」
「900年代後半から1200年代半ば……。今は1576年だから、やっぱり————」
ここでベルは言葉を区切り、複雑な表情を正面のヤンアルへ向けた。
「…………私が神州にいた時は西暦という概念はなかったが、やはり神州は滅んだということか……」
ヤンアルの美しい顔に暗い陰が落ちた。自らが産まれ落ちた国が既に滅亡していると改めて聞かされれば、この反応も当然であろう。記憶の中にある近しい者や愛する者たち、その全てが今やこの世に存在していないことになるのである。
「……隠していても分かることだから言うけれど、疫病で国が疲弊していた時に飢饉が重なり、国力がドン底まで落ちた隙に隣国に攻め入れられたと歴史には記されているわ」
「…………」
「ヤンアル……、大丈夫かい……? 少し落ち着いてからにしよう」
「……ありがとう、ベル。私なら大丈夫だ。話を戻すが、私は神州で『朱雀派』の『仙士』として任務に当たっていた」
「スザク・ハ……。確か女性だけで構成される魔物退治のグループだね。なんでもリーダーから召使いに至るまで皆んな同じ姓を名乗って空を駆けることが出来るとか……」
「よく調べているじゃないか、ベル。しかし『真氣の翼』を使えるのは朱雀派の中でも厳しい修行に耐えられた者だけだ」
「そうなんだね。じゃあ逆に言えば、ヤンアル級に強い女性がスザク・ハには複数人はいたということになるのか……!」
興奮気味にベルが言うと、ヤンアルは静かに首を横に振った。
「いや、自慢する訳じゃないが朱雀派の仙士で私よりも強い者は掌門だけだった」
「ショウモン?」
「掌門とはリーダーのことだ。私の母でもあるが」
「ヤンアルの母上か! きっと強くて美しい女性なんだろうね!」
「ああ……。掌門————母は私が足元にも及ばないほどに気高く、そして美しかった……」
在りし日の母を思い浮かべるヤンアルの表情に再び陰りが見えた。ベルは慌てて話題を変える。
「————そっ、それで、キミはあの『老師』とかいう人物とは面識があったのかい⁉︎ 向こうはキミのことを良く知っている様子だったけど……」
「……いや、面識などはないはずだ」
「フランチェスコの元にも現れたという謎の人物ね。その『老師』が貴女をロセリアに送り込んだ張本人のようだけど、本当に心当たりはないの? 話を聞くにどうやら姿を自在に変えられるようだから、貴女の前に現れた時は別人だったのかも知れないわ」
「…………」
ティーナの言葉にヤンアルはしばらく考え込んだ後、やはり首を横に振った。
「……やはり心当たりがない。と言うより私は『老師』という存在すら耳にしたことがなかった。知恵者だった母からも、そんな人物の話は聞いたことがない」
「姿形を変えるどころか、ヤンアルとロンジュを時空を超えて転移させるような力の持ち主だからね。もしかすると、俺たちの想像が及ばないような『超絶の存在』というヤツかも知れないな……」
頭の後ろで手を組んだベルが天井を見上げながら言うと、ティーナがツッコミを入れる。
「……超絶の存在……?」
「あ、いや……、特に意味はないと言うか、言ってみただけと言うかですね……」
「いえ、言い得て妙だと思うわ。他に形容する言葉が見つからないもの」
「そうですね……」
『…………』
三人は各々頭を捻ってみるが、いくら考え込んでも『老師』の正体は思い浮かばない。
「————ダメだ! ヤンアル、ロンジュのことは何か心当たりはあるかい?」
「それは私も考えていたが、ロンジュにも面識はない。だが思い返してみればロンジュは『玄武派』縁の者かも知れない」
「ゲンブ・ハって?」
「玄武派は神州の北方を守護する門派だ。私たち朱雀派は南方を守護していた」
「北方と南方、真反対の位置にあるけれど、何故ロンジュがそのゲンブ・ハ縁の者だと思うの?」
ティーナの問いにヤンアルは淀みなく答える。
「お前の言う通り玄武派の者とは関わりがないが、母から聞いたことがある。玄武派の仙士は『氷の真氣』を操ると……」
「『氷の真氣』……!」
思わずベルは以前ロンジュに凍らされた右肩に手を当てた。
「ヤンアル。ロンジュをフランチェスコの元から助け出したいとは思うが、彼の『氷の腕』は危険だ。何か破る策はあるかい……⁉︎」
「……先ほども言ったように玄武派の者とは手を交えたことがない。今は破る手が思いつかない……」
「そうか……。でも急がなければ、あの技はロンジュの身体に何か負担を強いているように思う」
「……ありがとう、ベル……!」
ヤンアルが礼を言うと、おもむろにティーナが尋ねる。
「————ヤンアル。話を変えるけれど、貴女は『エリクシール』————いえ、『仙丹』を作り出す知識を持っているのかしら?」
「いや……、『錬丹術』を追求する者がいるとは聞いたことはあるが、私たち仙士はあくまでも妖怪退治を専門とする武術家だ。私の周りでも『錬丹術』に明るい者はいなかった」
「そう……」
「……すまない。私の記憶の中で役に立つことはあまりなさそうだ」
申し訳なさそうに話すヤンアルを励ますようにベルは立ち上がって拳を握った。
「————そんなことないさ! フランチェスコがヤンアルに求めているのは知識よりも真氣の方だろう。裏を返せば、それだけヤンアルの力は驚異的だってことさ! ヤツにとっても、俺たちにとってもね!」
「ベル……」
「それに記憶が戻ったってことは、今まで忘れていた技や動きも取り戻したってことじゃないのか? 今まででも充分強かったヤンアルがさらにその強さを増すんだ! これ以上心強いことなんてないさ!」
「……ふふ、いつになくポジティブだな。ベル……!」
眼を覚ましてから初めて見せるヤンアルの笑顔にベルがうなずいた時、
「良い心の持ち様ですね。それでは、次は私がフランチェスコについて話しましょう」
神妙な面持ちでティーナが口を開いた。




