106 『インヴィディア』
燕面を着けた女の口から発せられた名は『アリーヤ』でも『ロンディーネ』でもなく、その名を耳にしたベルの顔が驚愕の色に染まった。
「……『インヴィディア』……⁉︎ な、何を言ってるんだ……、アリーヤ……⁉︎」
「…………」
ベルに呼び掛けられたアリーヤだが、その声はまるで耳に届いていないかのように見向きもせずフラーの元へと歩み寄った。
「フフ……、久しぶりだな。インヴィディア」
「…………」
歓迎するようにフラーが両腕を広げた。アリーヤはなおも無言を貫きながら、微笑を浮かべるフラーの顔を凝視する。
「————そう、あなたはそこにいるのね……?」
「……ああ。お前と同様にまだ本調子ではないがな。私のことはとりあえずフランチェスコと呼んでくれ。フラーでも構わないがな」
「じゃあ、フラーで」
二人の交わしている会話の意味が分からず、業を煮やしたベルが声を荒げる。
「アリーヤ! いったいどうしたんだ⁉︎ フランチェスコ! 彼女に何を注入した⁉︎ 答えろッ‼︎」
「……さっきからうるさいわね。なんなの? あの人間は……」
「な……ッ⁉︎」
およそアリーヤらしからぬ物言いにベルは絶句した。
「気にするな、インヴィディア。彼にもう用はない。目障りなら始末させよう」
そう言うとフラーは、いささか戸惑いの色を見せるロンジュへ顔を向けた。
「————ロンジュ。お前の望みを叶えさせてやる。ベルを凍らせていいぞ」
「……は、はい。フラー様、でも……」
「でも……なんだ?」
「…………」
ロンジュは『インヴィディア』を名乗るアリーヤへ竜面を向けた。
「……フラー様、さっきロンディーネにあげたのは元気になる薬なんだよね……?」
「そうだ。現に彼女はこの通り眼を覚ましただろう」
「でも……」
「でも、はもう使うな」
「はい……。ロンディーネの気配が変わった気がする……」
「……ほう?」
「ううん……、それだけじゃない。なんだか気配が増えたような気が……」
「…………分かった。もういい」
フラーは興味をなくしたようにロンジュに背を向けた。
「フラー様……?」
「————インヴィディア。すまないが、キミに頼めるかな」
フラーは戸惑うロンジュを黙殺して、インヴィディアに声を掛けた。
「……そっちのウンウン唸ってる馬鹿女は?」
ご指名を受けたインヴィディアはいまだ強烈な頭痛に苦しむヤンアルを指差す。
「……彼女はダメだ。まだ利用価値がある」
「あっそう」
つまらなそうに吐き捨てたインヴィディアはコツコツと軽やかな音を立てて、『結界捕縛』で捕らわれているベルに近づいた。
「……アリーヤ……?」
「…………」
インヴィディアは指でベルのアゴをクイッと持ち上げて、まるで品定めをするようにマジマジと見つめた。
「ふうん……。なかなか整った顔してるじゃない。頭の方は残念な感じだけど」
「アリーヤ……いったい、どうしたっていうんだ……⁉︎」
「しつこいね。アタシは『アリーヤ』でも『ロンディーネ』でもないって、まだ分からないの?」
「フランチェスコの薬で操られているんだな……⁉︎」
「……もういいわ。お別れよ……!」
冷たく言い放つと、インヴィディアはベルの顔の前に右掌をかざす。
「アリーヤ、何を……⁉︎」
「アリーヴェデル————ッ⁉︎」
突然、インヴィディアは左手でかざしていた右手を押さえつけた。
「……な、何よ……これは……⁉︎」
「————どうした、インヴィディア⁉︎」
「分からないわ……。急に身体が言うことを……!」
「なんだと……⁉︎」
インヴィディアの返事にフラーが眉根を寄せた時、ベルを縛っていた結界が消滅した。
「————! 『結界捕縛』が……⁉︎」
「————ガレリオ卿! こちらへ!」
声に振り向くと、いまだ苦しんでいるヤンアルに肩を貸しているティーナの姿が見えた。
「マルティーナさん……⁉︎」
「今は退きましょう! こちらへ来てください!」
マルティーナの足元の床には隠し通路と思われる地下への階段があった。
「マルティーナ! なんのつもりだ————ッ」
自ら駆け付けてきたフラーが手を伸ばしたが、ベルの手前で『バチッ』と音を立てて弾かれてしまった。どうやらベルとフラーを境界にして床から天井まで強力な結界が張られているようである。
「ガレリオ卿! 長くは保ちません! どうか私を信じてください!」
「…………」
逡巡する様子のベルに変わってフラーが口を開く。
「……マルティーナ、私を裏切る気か……‼︎」
「…………あなたは————いえ、お前は私の知っているフランチェスコ様ではない‼︎」
「…………」
ティーナの魂の叫びにフラーが口をつぐむと、今度はベルが声を上げた。
「————マルティーナさん、分かりました! 貴女を信じます!」
「私に付いて来てください!」
「はい!」
力強く返事をしたベルは、ティーナとヤンアルの後を追って地下への階段を降りて行った。
だんだんと遠ざかっていく三人の足音を耳にしながらフラーはインヴィディアへ顔を向けた。
「————インヴィディア。身体の様子はどうだ?」
「……今はなんともないわ。でも、さっきあの銀髪の男を消そうとした時、左手がアタシの意思とは関係なく動いた……」
インヴィディアはしきりに左手を動かしながら答えた。その釈然としない様子にフラーは口元を歪めてつぶやく。
「…………クク、これだから『人間』というモノは面白い……!」




