101 二つの行路
マッシモ爺さん?の言葉をベルは怪訝な表情で繰り返す。
「————二つの行路……? 急に何を言い出すんだ……⁉︎」
しかし、マッシモ爺さん?はその声が聞こえていないかのように続ける。
「一つはこのまま王宮へと向かう行路————」
「————待て! なぜ私たちが王宮へ向かっていると知っている⁉︎」
「ヤンアル! こいつはきっとフランチェスコの手下だ! 放っておこう!」
ベルはヤンアルの腕を引っ張るが、その身体は大地に根が這ったように動かない。
「ヤンアル……⁉︎」
「ベル。多少は手加減したとは言え、こいつは私の蹴りを難なく躱して見せた。たとえ魔法の心得があったとして、それだけで外せるほど私の蹴りはぬるくない」
超一流の武術家であるヤンアルの勘が、眼の前の男?をこのまま放置しておくことは危険だと判断したのだろう。ベルはうなずいてヤンアルの腕を放した。
「……分かった。マッシモ爺————じゃなかった。ややこしいな、アンタのことはなんて呼べばいい?」
「フフ。案外冷静だな、ベルティカ。呼び名から私の素性を探ろうというのか」
「…………ッ」
目論見を看破されたベルは苦虫を噛み潰したような表情で黙り込んだ。
「そうだな……、では私のことは『老師』とでも呼んでもらおうか」
「老師だって? 俺たちはアンタの弟子でもなんでもないぞ」
「呼びたくないのならなんでも構わないさ。そんなことよりも続けるぞ」
そう言って老師は王宮の方角へ腕を差し伸ばした。
「この先、お前たちには二つの行路がある。一つは王宮へと向かう行路。そしてもう一つは————」
老師は伸ばしていた手をベルとヤンアルの背後に向けた。
「————回れ右をして辿ってきた道を戻る行路だ」
「…………」
老師の言葉にヤンアルが無言で考え込む中、ベルがたまらず口を開く。
「いったい何の質問かと思えば分かり切ったことを訊くんだな。王宮に行くに決まっているだろう。行こう、ヤンアル!」
「……待ってくれ、ベル」
今度はヤンアルがベルの袖を引っ張って動きを制した。
「ヤンアル……俺たちにはこんな奴にこれ以上付き合っている暇は……!」
「すまない、もう少しだけ時間をくれ」
ヤンアルはベルの袖を放して老師に顔を向けた。
「————二つの行路と言ったな。例えば最短距離を辿らず回り道をして、あるいは日を経て王宮に向かった場合はどうなる?」
「どの道を行くか、いま行くかは問題じゃない。分かりやすく言うのなら、王宮に『行く』のか『行かない』のかを訊いている」
「……王宮に行ったのなら、どうなるんだ……?」
「それは『激動の行路』。行けばお前たちは果てしない戦いの日々にその身を投げ入れることになる。しかし、その代わりにお前の失われた記憶は呼び覚まされることになるだろう、ヤンアル」
「————‼︎」
ヤンアルは漆黒の双眸を見開き絶句した。ベルはその肩に手を添えて代わりに尋ねる。
「馬鹿馬鹿しいが聞いてやる。王宮に行かずに戻った場合はどうなると言うんだ……⁉︎」
「それは『安寧の行路』。故郷に戻ったお前たちは一切の争いに巻き込まれることなく、残りの一生を平穏無事に過ごせるだろう。しかし、ヤンアルの記憶は二度と蘇ることはない」
「…………‼︎」
「だが、悲観することはない。戻らなくていい記憶というものもある。大切なのはお前とヤンアル二人の間に築かれた思い出じゃないか、ベルティカ?」
「…………」
いつの間にか老師の言葉に乗せられたベルは虚空を見つめて考え込む。
(……王宮に行かずにトリアーナに戻れば、ヤンアルは心に住んでいる男を思い出すことがない……? そうすれば、ヤンアルと一生を平穏無事に暮らせる……? 願ってもないことじゃないか。激動とは無縁の人生をヤンアルや父上母上、レベイアやミキ、カレンにガスパールたちと過ごせる。理想的な人生だ……!)
家族や友人、そして愛する女との幸せな暮らしがベルの脳内に映し出された。自分を含めた全員が穏やかな笑みを浮かべて楽しそうに暮らしている。
————しかし、褐色の女性の笑顔にはどこか陰のようなものが感じられ、何か憂いを帯びているようにも見えた。
「————ベル……?」
幻想的な幸せに迷い込んだベルを、燕のさえずりにも似た澄んだ声が現実に引き戻した。
「…………ヤンアル……」
「大丈夫か……? 眼の焦点が合っていなかったぞ……?」
「あ、ああ……」
心配そうな表情を浮かべるヤンアルをベルはジッと見つめた。
「…………」
「ベル……? 本当に大丈夫なのか……⁉︎」
突然意識が無くなったかのようにボーッとしたかと思えば、今度は無言で穴が空くほど見つめてくるベルにヤンアルは戸惑いの声を上げた。
「————キミのせいだ」
「え?」
「俺は争いとは無縁の平穏無事な暮らしをずっと続けたかったのに、キミと出会ってしまったことでそのプランは崩れてしまったよ」
「ベル……」
「ヤンアル。キミは俺を変えてくれる唯一の女性だ。たとえキミが誰を思い出そうが、そんなものは俺が全部上書きしてやるさ……‼︎」
強気な笑みを浮かべたベルは老師に向き直った。
「————答えはこうだ。俺たちは『王宮に向かう』」
「……本当にそれでいいのか……?」
「元から俺たちに選択肢なんてないのさ。アリーヤとロンジュを助け出さないといけないからな」
「ベル……!」
感激の表情で声を震わせるヤンアルにベルが微笑んで見せた時、男のものとも女のものとも取れる中性的な声色が脳内に直接響いてきた。
…………そうか、分かった————。
ハッとした二人は辺りをキョロキョロと見回すが、マッシモ爺さんの姿を借りていた者は忽然とその姿を消していた。
「————ヤンアル、どこに行った⁉︎ あの老師って奴……!」
「……もうこの近くにはいない。奴の氣の気配が消えてしまった……」
「…………いったい、なんだったんだ、アイツは……⁉︎」
「分からない……が、どうやらフランチェスコの手下とは違うようだな」
「ああ、確かにね。そんな感じはする」
腕を組んでベルが思案していると、ヤンアルが嬉しそうに口を開いた。
「……だが、安心したぞ。ベル」
「え?」
「もしお前が『王宮に行かない』と言っていたら、私は今度こそお前と二度と会わないつもりでいた」
「…………それはゾッとしないな……」
冷や汗を流すベルに笑顔のヤンアルが続ける。
「さあ、道草を食うのはここまでだ。王宮に乗り込むぞ」
「……やれやれ。早速、平穏無事な暮らしが恋しくなってきたよ……」
頭をかいて愚痴をこぼしたベルだったが、その表情は吐き出された言葉とは裏腹に晴れ晴れとしたものであった。




