21.別れの言葉
◎
よくよく考えれば〈朧美月〉が〈エクス・クレルト〉にもたらしていた恩恵は夜の光源、だけでしかなかった。
なので、僕らの生活は何も変わらない。不自然なほどに変わらない。
そんな風だからか、訪れた危機もまるで夢でも見ているかのように思えた。だけど、夢じゃない、と脳裏に刻み付ける。
何のために戦ってきたのか――。
自宅にて荷造りをしていると、窓ガラスをノックする人影がいた。軍服を思わせる白い服とスカートを纏った少女――フィニスさんが笑顔で手を振っている。
窓に寄って、鍵を開けると彼女は淵に腰掛けた。
「さっき、大樹見て来たよ。あの月型魔道具を作った人には心当たりがあったよ」
「そうですか……」
……〈朧美月〉が消滅した後、失血し過ぎて気を失った僕はすぐさま病院に担がれて治療を受けることになったらしい。輸血もあって何とか事なきを得たのだが、その間に少々事情は動いていたらしい。
あの後、すぐにセラスがフィニスさんを大樹に連れて行って調べさせたのだ。大樹の中に描かれていたのが古代文字で、〈人型災害〉の撃滅を目的に数百年前に作られたものであることは間違いないとのこと。
「作られた当時は多分、〈人型災害〉は今ほど強くなかったんだと思う。知能も年月をかけて発達したんだろうね」
フィニスさんは少し首を傾けて遠くの空を見上げていた。
「〈白龍紋〉の儀式なんてやってても勝てなかったってことですね、それは…………コル爺さんは正しかったのでしょうか」
「お爺さんはどこまでわかっていたのやら、こればっかりはね」
「あの人を理解するなんて誰にもできないと思いますよ」
「そうかもね」とフィニスさんは右手の甲の〈白龍紋〉を優しく見詰める。
どうしてフィニスさんはこんなに綺麗なのか。
騒ぎも一段落した、真剣に考えても良いかもしれない。ではなく――。
「それより、あの時の白龍の儀式のようなことを起こしましたよね? フィニスさんは大丈夫なんですよね……?」
龍の発光により村人全員に莫大な力が付与された。その規模は通常の白龍の儀式とは比べものにならない。命が幾つあっても足りない所業なのだ。
平然としているところを見ると心配するだけ無駄な気もするが、一応訊いた。
「元々それだけのポテンシャルはあったんだよ、これには。想像以上に奥深かった。私に使えるかはわからないけどあれより先もあるよ」
「それは……――」
これまでの継承者の誰もまとも使えなかったなど冗談も良いところ。だいぶ遅れたが、使える者に宿れて良かった、と言うべきなのだろう。
〈人型災害〉が討伐されたことによって〈白龍紋〉は誰にも必要とされなくなった。
連綿と続いてきた呪いは解かれた。眠っていた〈神獣〉もあらかた倒して、〈エクス・クレルト〉に真の平和が訪れた。
これを成し遂げたのは誰でもない彼女であり、まさに〈英雄〉だ。そんな風には見えないのが少し面白かった。
「ま、これで私の役目も終わりって訳ね」
フィニスさんはそう言ってパッ、と笑った。
「明日、出発するから、よろしく」
「……はい」
猫のように窓枠から飛び降りて、彼女は気ままに歩いて行った。しばらく後ろ姿を追ってから荷造りを再開する。
時は過ぎて双月なき暗夜――。
自宅にて晩御飯を食べていると、意外な人物が来訪してきた。隣の家に住むティラはこちらの事情おかまいなくやって来るが、今回来たのはティラではなかった。
故に、少し驚いたのだ。
戦友であり、幼馴染のセラスが居心地悪そうに扉の前に立っていた。心なしか顔が赤い。まるでこれから告白せんばかりではないか。
「上がってく?」
「はい……」
来たからには無視する訳にもいかず、招き入れるしかなかった。
そわそわ、と椅子に座るセラスに暖かいお茶を用意する。「ありがとうございます」と遠慮気味に受け取るとふぅ、と冷ました。
「それでこんな時間にどうしたの?」
「話があって……」
こんな時間に来るんだからそりゃそうなんだろうけど。
掛ける声が見つからず沈黙が下りた。そんな時、セラスは部屋の隅に置いてある荷物に気がついた。
「……やっぱりここを出るんですね」
「うん。もう耐えられないくらいに、出たくて仕方ないんだ」
不安以上に期待が大きい。ここの外にどんな世界が広がっているのかこの目で見て、知りたくて堪らない。
もしかしたら、ここに帰って来ることはないかもしれない。そうなったら友人と話すのも最後ということになるのか。
「私は……行って欲しくありません」
セラスはテーブルを見詰めたまま呟いた。
「君とずっと一緒にいたい……です……」
「セラス……」
「私の言った意味わかってますか?」
細まった瞳を寄越してくる。疑惑の視線? 理解できてないな、と言わんばかりだ。
「ずっと一緒にいたい、って意味じゃないのか?」
「三割くらいしか伝わってませんね。まぁ、そんな気はしてましたけど。ちゃんと言いますから聞いててください」
「あ、うん」
セラスは席から立ち上がって、息を吸うと、真っ直ぐと僕を見据えた。
「ずっと前からあなたのことが好きです。恋人になりたいし、その以上の関係にもなりたいです。だから私を選んでください」
凛として、堂々と言い放った彼女の頬は真っ赤だったけれど、これほど真っ直ぐで誠実な告白もないだろう。
――三割か、もっと低かったかもしれない。
セラスが僕を必要としてくれてる。こんな嬉しいことはない。実は怖いけど、優しく思慮深い彼女と過ごす時間はきっと心地良いのだろう。
だけど、僕の心は既に捧げてしまっている。だから誰も僕は選ぶことはできない。選ばれるを待つことしかできないのだ。
「そっか……そうだったのか」
「全く気づいてなかったんですね」
「ごめん」
「フィニスさんにすら見透かされたのに……まぁ、彼女も人のことは言えないでしょうけど」
ふふっ、と微笑んで、セラスは腰を下ろしてお茶を含んだ。
「答えてください」
そして、少しだけ悲し気な顔をした。
フィニスさんを引き合いに出すくらいだ、僕の答えも知っているだろう。それでも彼女は言ってくれた。
「眩しくなるくらい強いよ、セラスは」
どこまで行っても正しい。
この年になってわかる。正しさを貫くことがどれだけ難しいか。
わかった上で、セラスは正しさのために迷わずいばらの道を選ぶ。
その姿に僕はどれだけ救われたことか。今だって、どれだけ熱くさせてくれれば気が済む。
「私は……クロム君の方が綺麗だと思ってます。あなたみたいになりたい、って」
――その憧れはよく理解できた。
憧れなんて全く持ってこそばゆいけど、そう思ってくれるのは光栄な話だ。色々なことから逃げてきた僕も何か成し遂げていたと思って良いのかもしれない。
今までの道が無駄じゃないって、認めてくれたから。感謝を伝えなければならないのは僕だ。
「ありがとう……本当に、ありがとう。でも僕はっ――」
万感の思いを込めて感謝を伝えたようとしたが、少しだけ涙腺が緩んで言葉が詰まる。泣きはしないけど募っていた想いが留めなく溢れて震えてしまった。だけど、飲み込んで息を吐く。返事くらいは情けない姿でしたくない。
「クロム君?」
「僕には好きな人がいるから、セラスの想いに応えることはできない」
「――……そんな気はしてましたよ。でも、言えて良かったです。クロム君、答えてくれてありがとうございます」
「感謝される謂れはないよ……」
「今までの一七年の想いを込めてです」
「それなら僕も喉が枯れるくらい言わなくちゃならないな」
僕らが交わしたありがとう、は別れの挨拶だった。いつしか僕らは涙を流していた。
◎
その翌日、倉庫から出たフィニスは〈エクス・クレルト〉も見納め、ということで散歩することにした。早朝だったこともあり民家の立ち並ぶ通りに出ても人の姿はない。
朝日を浴びて、冷たい風に吹かれるままに練り歩くと訓練場に着いていた。一番馴染みのある場所で無意識にここに来てしまったらしい。
とりあえず寝っ転がろうとしたが、こんな朝っぱらから運動している人がいた。中国拳法を思わせる掌底を空に放っていたのは虎娘のティラである。
「おっす、ティラノちゃん」
「…………」
ティラはフィニスを煩わしそうに睨み、修練を再開する。以前のようなパワフルなものではなく、余裕のある落ち着いた動作である。
「――フィニス」ふと、ティラが名を呼んだ。
「どうしたの?」
「私と戦って」
「いいよ?」
答えた瞬間には、既に草原を駆けていたティラは地面を蹴って踵落としを繰り出した。
フィニスは頭上に迫る踵を左腕で受け止める。
「んっ……――!」
攻撃が通った感触がなかったので、ティラは反作用でばねのように跳ね返って着地し、深く沈み込むように襲い掛かる。地面を四足で駆けて滑るように内側に潜り込んだ。そこから、アッパーカットを狙う。
「悪くないけど、私には効かない」
下方から突き込まれる拳に、フィニスは頭の高さまで振り上げた足を叩きつけた。スカートの中身が露わになることも恐れず押し込んだ。
「そんなことはわかってるし!」
腕を引いて蹴りを逸らし、さらにフィニスに踏み込んだ。細い腰に両腕を回し、がっしり、と固定して少女の身体を浮かせる。
「おっとっと」
「ふッ!」
フィニスの腰を腰の高さまで持ち上げ、膝の力を抜く。頭から背面に倒れる形――バクドロップ。持ち上げられているフィニスの頭蓋が地面に激突する。
但し、抵抗しなければの話。フィニスが頭が割れるよりも早く両手を地面に伸ばしていた。
「うあああああ!?」
ティラの悲鳴が上がった。フィニスがその両腕だけで逆立ちしたからだ。
「せーのっ!」と両足を振り乱し、ティラを空中へ弾き飛ばして足で着地する。空を見上げて両手を広げた。落ちてくる美少女をお姫様抱っこで受け止める。
「はい、私の勝ち」
「…………」
はぁ、とティラは息を吐き、腕の中から降りる。挑んでから数か月、投げ飛ばされるのも慣れたものだった。しかし、最後の最後まで勝つことはできなかった。そのことに少し悔しさを感じつつ、彼女を見詰めた。
「これからどこに行くの?」
「〈臨岸公国セレンメルク〉の〈中央都市ヴェリーヌ〉」
「そう……」
「一緒に来ても良いんだよ?」
尋ねると、ティラの表情が心なしか曇った。
「…………」
「まぁ、自由にすれば良いと思うけど……言いたいことがあったら今日までだよ」
「あんたなんて嫌い」
ははっ、とフィニスは笑う。
「清々しいくらい正直だね。私はティラのこと好きだよ」
清々しい、はこちらの台詞だ――とティラは思って、盛大なため息を吐いた。
フィニスは最後まで楽し気に微笑んだ。