10.眠りし才能が開花する時
◎
翌日、朝日に照らされて目覚めた。昨晩の夜は肌寒かったが、たっぷり森林浴した身体はいつも以上に暖かく、妙な微睡みを覚えた。
自然に囲まれた光景の中に可愛らしい息遣いが一つ。
フィニスさんがまだ寝ている。
昨日は気づかなかったが頬が少し赤い。腫れている。
「流石に無傷って訳にはいかなかったか」
頬を触れてみる。びっくりするほど柔らかな肌。どこを見ても可愛くないところが全くない。
優しく触ったつもりだったがフィニスさんは「ん」と片目を開いた。
「んあぁ……朝……か……」
「おはようございます」
「おはよう」
そう言って両手を僕に差し出してきた。彼女がやると誘っているように見えて自制心が揺らされる。朝から心拍が上がってしまった。
起こして欲しいだけなんですよね。
「……わかりました」
「ありが――……」
身体は華奢だが義肢の彼女は重かったが一息吸って腕を引き上げる。そのまま立ち上がらせようとしたところでフィニスさんが沈黙した。
未だ僕の腕はフィニスさんの全体重を支えている。
「あの、大丈夫ですか?」
「私まだ体力が戻らないみたい……」
そうは言うものの、深刻さは全くなく、全体的に状況を軽視しているように見えた。寝ていてば治るらしいので心配ないということだが。
――本当に大丈夫か?
あれでいて肩に何も乗っていないように見えるのが不思議でならなかった。金属の塊はどこにあるのだろ、と思う。
昨日の話のこともある。本来、僕が聞いて良い話ではなかった。それでも聞いてしまった以上は覚悟するしかない。
僕はフィニスさんに協力することにした。けれど、僕の覚悟ほどフィニスさんの覚悟が重くないことも理解している。
「…………食料探しに行きますね」
「お願いします」
食料探しは探索も兼ねている。
ここはどこだろう。昨日の逃避行の末、安全地帯に辿り着いたがそれは覚えのない森林の最中だった。とりあえず広い場所に出ないことにはわからない。
少し行くと〈人型災害〉の通り道とも呼べる朽ち果てた森林に出る。横倒しになった大木は腐食して黒ずんでいた。汚染は土にまで及んでいる。今後数十年は植物は育たない気がした。
その後、〈赤狼紋〉の五感強化を用いて森林を出た。
「結構遠くまで来たな……」
帰り道の目途がたったので途中見つけた木の実を拾ってフィニスさんの下に戻った。
指先サイズの赤い実。名前は憶えていないが、村でスピリッツで消費したエネルギーを回復すると言われていた。根拠のない噂である。
「とりあえず今はこれだけです」
「まぁ、あるだけマシだよね」
あーん、と口を開けた。片目を閉じて僕を急かす。
甘やかしたくなる状況だが、僕は耐える。
「寝たままで食べると詰まりますから」
「じゃあ起こして」
ここぞとばかり甘えてくる。まるで介護だった。
大層美味しそうに食べてくれるのがせめてもの癒しである。
「少し休憩したら移動を開始しますね」
「わかった、ありがとね」
「いえいえ……」
無垢で純真な笑みに僕は目を逸らすことしかできなかった。
身動きの取れないフィニスさんを背負う。
とても幸せな気分になれる。主に背中が。だが、僕は僕を律する。彼女と共に村に帰るんだ。
その一心で前を向く。
朝行ったばかりの道なのでスムーズに林道を超えることができた。
出たのは以前〈神獣〉討伐を行った高原の末端である。
天気は晴れ。散歩日和だ。縦に長い不定形の雲がでかでかと浮かんでいる。今のところ〈神獣〉のいる様子はない。聴力強化で透明な〈神獣〉にも気をつける。
「そうだ、訊き忘れてたことがあった」
背中からそんな言葉が降ってくる。
フィニスさんが僕に訊きたいことがあると?
期待してしまいたくなるが、きっと僕の想像するようなことではないことではない。
「〈白龍紋〉のお爺さん。えっと名前は……」
「コルダイテス……ですが、彼が?」
「彼の最期に立ち会ったのは私」
「……死んじゃったんですか。何か言ってましたか?」
あれでいて八、九〇くらいあったからいつ迎えが来てもおかしくはない。
しかし、一世一代の逃亡も数十時間持たなかったとなると少し思うところがある。未練もたっぷりあっただろう。
「あんまり話せなかったんだけど、〈とにかく逃げてくれ〉って言ったんだよ。私をあの村に来させるつもりはなかったんだろうね」
理由はともかくコル爺さんは〈白龍紋〉を遠くに追いやりたかった。
そうなれば村の存続は難しくなる。
だが、彼は村を見捨てるような男だとは思えない。命と天秤をかけてもギリギリ〈エクス・クレルト〉を選ぶくらいには。
「私が思うに――」
フィニスさんは何かを言おうとしたが、突然息を詰めた。
「どうしたんですか?」
「あれ……なんか既視感があるんですけど……」
ぎこちない動作で指差した先にいたのは――確かにフィニスさんの言った通りの感想を抱いてしまう。
残念ながら既視感ではない。実際にあったのだから。
「エリオプスさん……」
膝の高さほどの草の中に立っているのは青年長だ。
恐ろしい形相からは、静かな闘争心が見え透いた。あの時以上の憎悪と憤怒。
しかし、彼の周囲を漂うのは真冬のような冷気だ。
――〈青牛紋〉氷と牛のスピリッツ。
「クロム」
エリオプスさんは憎悪に満ちた瞳で僕を睨みつけた。
「お前の魂胆はわかっている……思う様にさせない。〈白龍紋〉の力は俺のものだ! 誰に渡してたまるか!」
「それは誤解です! 僕らが戦う理由はありません!」
「黙れ! 戦士長の座を狙っているんだろう!? だから村長にも取り入っている! させるか……俺が、俺がッ!」
激昂に呼応して草原が氷結した。僕の足元にまで迫って来る。余裕を持ってバックステップで回避する。
「フィニスさん、ここで休んでいてください」
背負っていたフィニスさんを木陰に休ませる。流石に背負ったまま戦う訳にはいかない。
「クロム君、どうして戦うの? このまま逃げても良いんじゃない?」
「まぁ、そうなんですが……多分、エリオプスさんはもう止まらないと思うので」
彼は昔から僕のことを嫌っていた。理由があれば嫌がらせをしたし、大人に僕の悪い噂も流していたらしい。
それでも僕は彼のことを嫌ってはいなかった。
そのどっちつかずの態度が彼の嫌悪を加速させていたことに気づいたのは最近だった。
「今ここで僕が彼を打ち砕いても彼が変わることはないと思います……」
それでも、エリオプスさんの前に立つのは雪辱を果たすためだ。
こんなことはフィニスさんには言えない。
僕は彼に負けた。だが、僕はエリオプスさんに負けるなんて微塵も思っていなかった。勝てる勝負に負けたのだ。
だからこれは勝手な自己満足。
「すみません。だけど、見届けていただけると嬉しいです」
「ま、そういうことなら。頑張って。応援してるから」
「はい」
凍った草葉を踏み締め、エリオプスさんに近づく。間合いの一歩手前で止まった。
彼から今にもスピリッツ化せんばかりのエネルギーが全身から吹き出ている。森を出るまでに搔いた汗がみるみるうちに乾いていく。
左手の甲に意識を傾ける。僕の身体を赤い風が駆け抜けた。
合図は不要。僕達は同時を声を上げた。
「〈赤狼紋〉!」
「〈青牛紋〉!」
人体がスピリッツ体への変化する。冷気と熱風がぶつかった。相殺されて波動が吹き散らされる最中を、狼の身体能力で駆けた。
右腕の三本爪を巨大な人牛の首元に突き立てる。
青牛の肘のブースターが火を噴いた。
一瞬の交錯の後、すれ違う。迫ってきた拳は半身になって避けた。
「ぐッ」と苦悶の息をエリオプスさんが漏れした。首筋にくっきりと爪痕が残っている。
流石の防御力だ。全身が硬質な装甲に覆われているので〈赤狼紋〉の一撃では落とすことはできないだろう。だが、この一撃も前回は叶わなかったものだ。確実に強くなっている。
「小癪なッ!」
青炎を噴射して巨大なる人型の牛が迫りくる。
近づけば近づくほどのその大きさに圧倒される。〈鷲型神獣〉を相手取っているような見上げるほどの気迫だ。
肩から爪先にまで意識を集中させると赤いオーラが纏われる。彼はそのまま凍った掌を突き出した。刃は容易くエリオプスさんの掌を貫いた。
「何故だ!? 俺のスピリッツの方が硬く、強いはずなのに!?」
オーラを纏うことで強化された腕力と、強靭になった刃。
コル爺さんはこの技術をスピリッツの神髄と言っていた。本来、全身に行きわたっているエネルギーを一点に集中すること。
コル爺さんが得意だと言っていた唯一絶対の技能。説明してこれを使えた者は僕以外いなかったという。故に、僕の唯一絶対の技能でもある。
今度は両足を強化して、がら空きになった胴体を蹴り飛ばした。巨体は意図も容易く後方へ吹き飛ぶ。
「……こんなことがッ、こんなことがッ! どうしてどうして……」
禍々しい曲線を描く角には亀裂が入っていた。水色の鎧の中心も凹んでいる。
本来のスペックを考えるならあり得ない結果だ。エリオプスさんも、他の人だって当然そう考える。そう考える者が相手であれば僕は負ける気がしない。
屈辱の言葉を狂ったように吐きながら彼は突っ込んで来る。
「お前は俺の下なんだよ! どうしてお前ばかり!」
激情に身を任せればそれだけ動きは単調になる。冷静さを失した以上、僕に負け筋はない。
凍える拳は何もしなくても掠るだけだった。
僕の姿もまともに捉えていないのか。
「僕のせいでこうなったのかな。だとしたら……」
子供の頃は僕は神童なんて呼ばれていた。一回り上のエリオプスさんは常に僕に対して劣等感を抱いていたのだと思う。そんなことにも気づいてなかった。その態度が彼を憎悪を掻き立てていたのだろう。
憎悪にまで昇華されるほど追い込んでいたのだ、僕が。
ここで僕が敗北して話が終わるのならそれでも良かった。でも遅過ぎた、この解決はもうあり得ない。
「――だから全て打ち砕く」
修復不可能な関係を完全に崩壊させて。
右手に眩いほどの赤光が集約する。スピードに費やされているリソースを右手だけに寄せた。どれだけの威力が秘められているかは自分でもわからない。
疲れ切って項垂れていた彼は咆哮して青い燐光を放つ。ブースターから火が噴いた。《重牛圧殺撃》だ。
「お前は良い加減、俺の前から消えてくれぇぇぇええええええええええええ!!!」
「消えますよ、そのうち」
赤い閃光と青い氷が激突する――。
振り被った右手の拳の太陽で大牛スピリッツの両腕を完膚なきまでに打ち砕いた。青き骨格は砂のように消滅する。「ぐああ」とエリオプスさんはうつ伏せで倒れるとスピリッツ化が解除された。
終わってみれば随分と呆気ない。力んだ身体は未だ熱く、行き所のない気持ちが身体を突き動かそうとしている。
エリオプスさんは気絶していた。
「……………………」
僕が彼に掛けるべき言葉は何もない。
スピリッツを解除してフィニスさんの下まで戻った。何を考えているかわからない妙に含んだ表情をしている。
「〈エクス・クレルト〉に向かいましょう」
「放っておいて良いの?」
「僕に助けられるのが一番嫌でしょうから……」
「善意で助けても逆恨まれるの? どうして?」
「さぁ、エリオプスさんにしかわかりませんよ、それは。どこまで行っても僕らはわかりあえませんでしたから」
全ての人に好かれるなんてことはできない。
お互いのため、関わらないのが最善の選択だった。ただそれだけのこと。
「あなたなら誰とでも仲良くできるかもしれませんが、普通はそんなもんですよ」
フィニスさんは僕の背中にしなだれている。
「殺されかけたことも結構あったよ?」
「そうなんですか。あなたでもそうなら皆そうってことになりますね」
救われる話だ。
それはつまり恵まれた人でも最高最善の道はない、ということだから。
一時間ほどの徒歩の後、草原地帯を抜けて、村を覆う森林へと入る。この場所は自分の手足のように知り尽くしているので迷うことはなく最短ルートを選択できた。
「途轍もない騒ぎになってると思うので覚悟しといてください。質問攻めに会うはずなのでそれも」
一言告げ、一日振りに村に帰還した。予想通り、村民は慌ただしく蠢いていた。突如として動きを止めた〈人型災害〉と、失踪した〈白龍紋〉の継承者。この二つの絶対の命題を放置する訳にはいかないのだ。
住民が僕らのことを見る慌てぶりは見てるこっちが恥ずかしいくらいだった。
村長の邸宅に向かっていると村民にでも呼び出された戦士団が続々とやって来た。村長宅に来い、と言ってきた。元よりそのつもりだったのでそのまま従った。
「その女は渡せ」
鉢巻をした戦士団のナンバースリーの男は言った。
そうしてフィニスさんの肩を無理矢理掴む。
現在彼女は身動きが取れない。そんなことをされれば僕の背中から落ちてしまう。
僕は慎重かつ大胆に、その手を叩き落とした。
「僕が運びます。触らないでください」
「な……」
茫然とする男を背に邸宅に向かった。
邸宅には村長と補佐と、もう一人。合計三人が中にいる。上座に村長、脇に二人が座っていた。
村長は近々の問題に頭を悩まされて十分な睡眠が取れないからか元々厳つい顔はより苛立たし気だった。もうやめてくれ、と言わんばかりだ。
フィニスさんと共に村長の前に腰を下ろす。
「お前ら……」
「すみません」
僕は反射的に謝った。何も言われていなかったが圧に負けて言ってしまった。
「クロム、納得できる理由があるんだろうな」
「……はい。整合性は取れてるはずです……」
「お嬢さん」村長は隣に座るフィニスさんに視線を向ける。「今回は。あんたのことも聞かせてもらうぞ」
「それはどうでしょう」
こんな時でも彼女は堂々と、負け知らずの瞳で応えた。