30.旅の終わり――旅路の行く末は
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〈神覇王国インぺリア〉、王城〈レ―ヴ・シャトー〉の来賓者用の寝室の窓は開け放たれていた。
王国最高の物品の揃う一室の真ん中。
少女がベッドで横になっていた。脇には椅子が並べられているが、今は誰も使っていない。
窓際で城下町の景色を眺めているのは幽霊にして女神のウェヌスだ。
――風神との戦争以来、王国では晴れが続いていた。世界が解放を祝福しているかのようだ。
ウェヌスは何とはなしに澄み渡る大空を仰ぐ。
城下町は王国の名前の通り、神を覇したことでお祭り騒ぎになっていた。
先の戦いで傷ついた街の復興もようやく始まったところだ。
また、異常現象のつけが回ったのか続々と季節外れの花々が咲き誇った。城内にも〈桜〉の花が植えられており、この部屋にも花弁が飛んで来ている。
見ていて飽きない光景ではあるが眺める理由はなかった。
彼女はただ待っているのだ。
唯一無二のパートナーを。
「……………………」
フィニスはあれから一か月、目覚めていなかった。
風神を倒し、血統が失せてこと切れたかと思われた。
しかし、王子の指示の下、国総出の治療の末、奇跡的に生還することができたのだ。
それでも、人間生物には余る力を扱った代償は大きかった。
何十日も目覚めない大怪我。
そうでなくとも傷が治りにくい体質。
戦での後遺症を考えれば、もはやこれからは生きていくことすら困難だろう。
駆り出された国の騎士のほとんどが死んだことを考えれば大変に恵まれている。
『生きて帰れた……それだけでも恵まれているけど、良かったとは言えないわね……』
ウェヌスは旅を始めさせたことに後悔を感じていた。
本人の意志、本人の選択だったとはいえ、止めるべきだったのではないか、と内省する。
――旅の始まりはただ生きて欲しい、それだけだったのに。
『はぁ……』
何千年も生きている女神でさえ、これからどうすれば良いのかわからなかった。
その時、ガサリ――とベッドの方から音がした。
景色から視線をずらして振り返ると。
うぅ、という寝言混じりの呻き声を発して金髪の少女が目覚めたところだった。
「……んっ」
一か月も動かしていない鈍った身体を軋ませつつ起き上がろうとするがバランスを崩して横倒しになってしまう。
『ちょっと大丈夫!?』
「ウェヌス…………あ、そっか。左腕なくなっちゃったんだよね……」
左腕は上腕の半ば辺りで消失していた。
どうにも不思議な感覚だった。妙に軽いことから意外と腕は重いものなのだな、とフィニスは変に感心する。
『無理して起き上がんなくても……』
「風が気持ちいと思って」
窓の方に首を傾ける。暖かな風が綺麗な金髪を揺らした。
「何にも見えない……」
右手を目元に伸ばすと包帯が横巻にされていることに気づく。
覆っていれば真っ暗な視界なのも当たり前だろう。
包帯が巻かれる意味は――。
『あなたの左眼は眼球が裂かれて失明、右眼の方は色彩がなくなっているわ』
ウェヌスは憚られるようなことをはっきりと言った。それとも、だからこそか。
隠していも意味はない。
しばらくの間、沈黙が走った。
「…………外はどんな感じ?」
意外と落ちた声音での問い掛けだった。
『大きなピンク色の花が咲いているわ。とても綺麗な花できっとあなたにぴったりよ』
「うん」
『街は嵐でぐちゃぐちゃになっただけど皆頑張って元に戻そうとしているわ。祭りみたいに騒いでるわね』
「それは……良かった」
『あ、あとっ……空がっ、とっても……っ』
いつの間にかウェヌスの瞳から涙が流れていた。幽霊なのに涙が頬を伝った。
ただ無性に泣きたくなったのだ。
フィニスは見えなくても手を伸ばした。触れることはできない。
「どうして泣いてるの?」
『っ、よく頑張ったねわ…………あなたはもう、ゆっくり休んでも良いのよっ』
「――……ありがとうね」
そよ風のように弱々しいお礼を述べるとゆっくりとベッドに体重を預ける。
まだ本調子ではなく、まるで、自分の身体が自分のものではなくなったような気分だった。全体的に感覚が鈍くなっている、と。
心安らぐような暖かな風が吹いた。ウェヌスはポツリと呟く。
『〈神〉ってね、悲しい生き物なんだよ』
「悲しい?」
『迷わないのよ』
「悪いことなの?」
『えぇ、それが人類と神々が分かたれた理由だから。一度出した答えが間違っているとも思わないからね、絶対に相容れないの』
説得など無意味だった。
そもそも誰も説得しようなどと思わなかった。
戦が苛烈と化したのはそういう背景もある。最後まで終わらせなければ止まらなかったのだ。
『私も…………同胞だったとしても彼らを手に掛けた…………だから、後悔もした。原因がわからないけど、幽霊になってからは人間みたいに考えに自信が持てなかった』
「悪いことなの?」
『いいえ。大切なこと』
そこに善悪は関係はない。
迷うこと、惑うことができるからこそ正しい判断ができる。その末に間違うことがあるかもしれないが、その時はその時だ。
『取り返しのない失敗もあるけど、決して意味のないことじゃないから』
――と思いたい。
自信なさげに内心で付け加えるのだが。
それも迷いから来るものだ。
故にそれでも良いと思っていた。間違えたのなら正す、それだけの話である。
「これからどうなるんだろう……」
左腕を失って、両目もまともな状態ではない。そうでなくとも寿命は縮んでいる。
行き先の見えない未来に不安を覚えても仕方ない。
『わからないわよ』
そんなことは女神にだって、人間にだってわからない。
『でも、今度こそ自分のために生きてみたら? 血に囚われることなんてなく、あなたのためだけに』
「自分のため……」
『短い人生だとしても、あなたの、あなただけの道だから』
差し込んでくる太陽がウェヌスを美しく染め上げる。
まるで神話の光景だ。
奇跡という名の燐光が彼女から舞う。
『美と戦の神ウェヌス・ベルルム・ウェールの名に於いて、あなたの旅の終着に幸福があらんことを』
子守歌のような優しい声で囁いた。
『あなたの本当に求めるものが見つかるまでずっと見守るから、ね?』
彼女の守った世界――雲一つない青空は、深く澄み渡っていた。
一通りが終わりました。
少女が明日を生きるためだけの最終決戦(完)