2.鏡面表裏のユウラとシエス
◎
〈神獣〉――。
神話の時代、神々が人類を滅亡させるためだけに生み出した生命。一般に存在する生命の基準を逸脱する超常的存在。
寿命はなく、食事も必要としない完全な生物。
一種の芸術のような造形とは裏腹に性格は野蛮で獰猛、特にある一点の部分では顕著に見られる。
神獣の行動理念は人類の殺戮のみ。鳥、豚、牛を始めとする動物には目も暮れず人類にだけに牙を剥く。
遥か過去、〈対神魔法〉により悉く葬られた〈神獣〉だが、封印という形で現在まで生き残った個体の数は少なくない。人里離れた荒野に、空気の薄い山岳に、深層の海底に――人里離れたところに眠っている。
インぺリア王国北端に位置する大草原〈カエレウム草原〉。
人の手の入っていない自然の景色が残る緑の世界が無限に思えるほど広がっている。
草原を駆けているのは二人の少女――。
身に余る大きさの荷物を背負う同じ顔をした双子の姉妹は、それぞれ右に左に結った髪を揺らして息を荒げていた。頬に汗を垂らして走る彼女達を覆う大きな影がある。
高さにして七メートルはありそうな巨大狼が双子を食わんとけたたましい咆哮をあげた。
黒く半透明な体に黄色の幾何学模様をした〈狼型〉の〈神獣〉。芝生を裂く鋭利な爪が太陽光を反射して煌めいた。
鬼ごっこは終わりとばかりに狼は長大な両足を地面に叩きつければ、大地を揺るがす轟音が打ち鳴らされた。子供の小さな身体は風船を括りつけたように宙に浮き、余波である旋風に晒される。
「「きゃあああああぁぁぁ!」」
異口同音に発された悲鳴は地鳴りにかき消される。
さらなる獣の咆哮は舞った砂煙を即座に吹き飛ばした。値踏みするように深紅の瞳を倒れてうずくまる少女に向ける。
家ほど大きい生物に見下ろされるというのは恐怖以外の何物でもない。食い殺さる未来が分かっていたとしたら抱くのは絶望のみ。
双子は涙は流すが、気圧され声を出すことができず震えて詰まった息を漏らすばかりだ。
「ユウっ」「シエっ」
迫りくるガラス細工の刃から目を逸らしお互いの名前を呼んで抱き合った。片方がもう片方を守るように背中に手を回す。
直後、キイイイィィィン――という超高音が鳴り響く。
同時に凄惨な光景が広がった。
少女達の暗い、暗い視界に光が差し込んだ。
ふっ、と見開くとそこには真っ白な後ろ姿がある。
よく見るとそれは白い軍服であり、スカートであった。ところどころに黄金の刺繍が縫われており、突風に翻った金髪の奥、背中の部分には複雑に模様が重なった魔法陣が記されている。
その人物の手には十字架を象った造形の長剣が握られていた。
だが、目が向くのは何者かではなく、何者かの左右に倒れる真っ二つになった神獣の死体。
頭から尻尾にかけて、丁度二等分、縦に一刀両断されているのだ。神狼は確実性を伴って息絶えていた。
巨体は光の粒子と化し、空に消えていく。
腰に提げている鞘に剣を収納しつつ、振り返った少女は笑みを湛えながら尋ねた。
「……大丈夫?」
目を見合わした双子はこくりと頷くと、我慢していた感情の波が押し寄せたのか大粒の涙を流して泣き叫んだ。
黄金の長髪を振り乱し、膝を折って双子らの目線の高さを合わせると二人の頭を優しく撫でた。
「二人とも頑張ったね。今は泣いていいよ」
そして、その胸に抱いた。ユウラとシエスは軍服越しでも抑えきれない胸部にしがみつく。傍から見れば三人は親子のように見えたかもしれないがあいにく観測者はいない。広い草原にはたった三人のものだった。
緑の世界は彼女らを包み込むさざ波のような優しい風を吹いた。
フィニスは双子姉妹の目元をハンカチで拭いながら問い掛けた。
「もう落ち着いた?」
「……うん……」
右側に髪を赤いリボンで結った方が答えた。もう一人の左側は青いリボンで髪を括っている。
真っ赤に晴らした両目は弧を描き安心とばかり微笑んでいた。
改めて頭を撫でると同じ仕草でくすぐったそうにする。
「おお、すごい」
『可愛いわね、すごく。やっぱり子供は世界の宝だわ』
フィニスの耳元で喋ったのは件の双子ではなく守護霊のようなスケスケの美女である。美と戦を司る女神の成れの果て。幽霊の神となってフィニスの血統の者に取り憑いている者。
双子を愛でたそうに手を伸ばすのも束の間、顎に手をあて思案した。
『でもこんなところに神獣が現れるなんてね……人の踏み入らない森林ならともかくこんな開けた場所に……』
「私に引き寄せられたんじゃないの?」
『多分ね』
女神は呟きつつ、双子姉妹を見詰める。気がかりそうな表情を浮かべるがフィニスは気づかずに話を始める。子ども二人が旅に出るには不適切な軽装に疑問を感じていた。
「えっと、名前……聞いてなかった」といきなり中断。
咳払い一つ、後に名乗る。
「私はフィニスエアル・パルセノス。二人は?」
「ユウラ」と赤い方がびっしと右手を、
「シエス」と青い方は控えめに左手を挙げた。
息の合った連携に瞳を瞬かせるフィニスだが、頷き改めて挨拶を交わす。
「よろしくね、ユウラ、シエス。どうしてこんなところにいたの? 子ども二人じゃ危ないよ」
「お父さんに会いに行くの」
ユウラは答えた。先程まで背負っていた荷物を抱きながら。届け物が入っているのだろう。
「お母さんが届けて欲しいって言ったから」
「その中に入ってるものね。〈王国都市〉まで行こうとしてるんだよね」
「は、はい、そうです。お父さんがそこにいるってお母さんも言ってました……絶対届けてって……」
今度はシエスが答える。唇を噛んで涙を堪える様子を見せた。フィニスは何かを察したように目を伏せる。
「そっか、お母さんが……でもここからだと歩いて二か月くらいかかるよ」
同じく王国の中心に位置する都市を目指すフィニスは道程を思い浮かべるがしかし、子ども力だけで踏破できるとは思えなかった。
「でもいかないとっ……!」
強い意思で持ってユウラは答えた。シエスも大きく頷く。
天啓のように空から声が降ってきた。女神の囁きが耳に届く。
『連れてけばいいんじゃない? あなたならそれくらい余裕でしょ』
「そうね…………ま、いっか。ユウラ、シエス……私も〈王国都市〉が目的地だから一緒に行こうよ」
「いいの?」「いいんですか?」
「勿論、じゃあ早速――」
フィニスは二つの小さな手を取ると空を目掛けて地面を蹴った。
そして、とある言葉を呟く。
「――〈ベクトル・マジック〉」
その刹那、背中を突風が突き上げ重力の楔を振り払って三人の身体を空へ押し上げる。瞬く間に地面を遥か下方にまで追いやる。
快晴の空、太陽を全身に浴びながら長い金髪がはためいた。青空が手に届くんじゃないかと錯覚してしまいそうなる浮遊感だった。
「うわあああああ!」
「そ、空を飛んでますっ!」
双子はフィニスにしがみつきながら一面続くに草原を眺望する。
俯瞰すれば疎らにだが草原にも木々が生えているらしい。大空を行く白い鳥、人が近づけばすぐに逃げてしまううさぎも何者かと彼女ら見上げる。
後方には山脈が連なっており天辺が白く彩られるのがよくわかる。
吹き込むそよ風が肌に触れるとひんやりして思わず笑みが綻ぶ。
「じゃあ、途中にある街まで行こうか」
「お姉ちゃんすごい!」
「お姉さんは魔法使いのお姉さんなんですか?」
「お、お姉……」と思わずにやけそうになるが我慢して質問に答える。「そうよ。私は魔法使いのお姉さんよ」
『あらあらまぁまぁ……』
尊いものでも見るような温かい瞳を浮かべる女神ウェヌスであった。
そして、そして、そして――街が見えてきた。