26.ヴァリアル・ディザイラム
◎1
――ヴァリアル・ディザイラムの誕生に最も早く気づいたのは当然のことか、一番近くにいたギリヌスだった。
怪我の治癒を進めながら、ディスミナスとルーフェンの死闘にどう割り込むか思案している最中、異質な空気を感じ取った。何もなかったところに突然現れた異常に僅かに意識を傾ける。
小気味好い足音が聖女の力により再生する都市に響いた。
散歩気分で覇道を征く黒き少女は迷いなくギリヌスの視界内に入り込んだ。
「……――?」
幾重の星が重なっ漆黒の魔眼を浮かべ、意味有りげに微笑む少女に見覚えはない。このタイミングで現れた理由も検討がつかなかった。
それでも、強烈な権能を秘めた魔眼で睨まれていれば敵意があることは明確だ。先程の〈血統者〉達と同じように掛かってくるなら返り討ちにするだけのこと。
早々に警戒を解き、視線を空の絶戦へ向けた。
その間に少女が距離を詰めてることも〈幻想律〉を使えば簡単にわかる。攻撃されても先程の〈血統者〉同様、カウンターで仕留めれば良い。
「――《物理廻循環》」
聞き覚えのある魔法を纏った手刀が常時展開されている結界に振り下ろされた。
インパクトと同時に不自然までに真っ直ぐな魔法的エネルギーの燐光が散る。
少女に有るまじき膂力、自然律を乱し得る魔法――それでも、〈幻想律〉の結界を〈魔法律〉の魔法で打ち破ることはできない。
「――ふ」
少女から漏れる黒い笑い。
瞬間、パリン――と、結界に亀裂が走った。手刀に渦巻くエネルギーの量が数刹那前と比べて指数的の上昇している。
「馬鹿な……〈魔法律〉ではこの結界に傷を入れることすらできないはず――」
「――《物理廻循環》」
更に魔法陣を潜った一撃は結界を完全に砕くに至る。
驚きに眼を見張るギリヌスに間断なく拳が繰り出された。続くように放たれた左ストレートは彼の顔面を強かに捉え、力任せに撃ち抜く。
彼は視界が渦巻いたことで自分が錐揉み回転していることを理解した。瓦礫を幾度かバウンドしてようやく勢いが完全に死んだ。
強烈に吹き飛ばされたが大したダメージではなく、ギリヌスは一息に立ち上がった。
僅かに痛む頬に触れ、たった今起きたばかりの異常事態を咀嚼する。
「〈幻想律〉の結界が破られた……? そんな馬鹿な――〈魔法律〉でこの結界を破る程の威力の魔法を成立させられるはずがない」
「ようやく目を覚ましたみたいね、〈調停者〉さん。呑気に寝てるからそんなことになるのよ。嗚呼――私好みのとても良い顔してるわ、もっと歪ませたい」
「……あなたは一体何者ですか? このタイミングで現れる、ということは少なからず一件に絡んでるとは思いますが」
「問答なんて無駄でしょう? そんな質問しなくたって知る方法があるわ」
「そうですね、わかりました。僕は今からあなたを敵とみなしましょう」
「来なさい、その悉くを返り討ちしてあげるから」
敵意を交わすことをトリガーに二人の全身にマゼンタの文字が駆け巡る。
ウエディングドレスのような花の刺繍があしらわれたドレスに刻まれた名前・順位・称号――。
――ヴァリアル・ディザイラム。
――〈十〉。
――〈架空混沌血統〉〈合一存在〉〈門戸を叩く者〉〈力の支配者〉〈架空不在〉。
「ヴァリアル・ディザイラム……――〈血統者〉が他にも潜伏してた……?」
「初めまして、以後お見知りおきを、とでも言っておきましょう。あなたにとって忘れられない名前になるでしょうから」
「〈血統者〉というのは誰も彼も傲慢で勝手ですね。あなたの実力は目を見張るものがありますが、実力差は歴然ですよ」
〈幻想律〉の結界を撃ち破った力には驚かされたが、魔女のランク制度は絶対だ。タイマンでぶつかる限りギリヌスが負けることは絶対にない。伏兵がいるかと視線を巡らせたがそれらしき姿も見当たらなかった。
「放置する訳にもいかないので早々に蹴りを付けさせてもらいます。こんなところで時間を使ってられないんですよ」
「あなたの事情は知らないけど、簡単に倒れないでよ?」
挑発的に笑むとヴァリアルはその全身に魔法陣を潜らせる。先程多用した《物理廻循環》だ。膨大なエネルギーは凝縮され、鎧のように四肢を包み込む。
陽炎のような静かな波が不気味に揺らめいた。
ヴァリアルが美女に似合わぬ豪快さで拳を振るう。
「今回は本気でガードしました」
六角形が連なる結界全体に力が分散し、完全に防いだ。
ヴァリアルの張り付いた笑みは剥がれない。
「なら次は耐えられるかな?」
再度、振るわれた拳は結界に罅を入れた。
「まだ、もう少し足りないみたいね」
「……どうして〈幻想律〉を使わずこの結界を砕ける?」
「――さぁ、何ででしょうね!」
今度こそ、結界を貫きギリヌスの腹部に拳が突き刺さった。
宙を浮く身体を制御して着地すると同時に飛び出してきたヴァリアルの爪先を結界で遮断、放射状の罅が入るが受け止める。
「結界の強度がどんどん上がってるのね」
「あなたの攻撃も強くなってる。一体どんな絡繰りが……」
「暴いてみなさい」
そこからヴァリアルの連撃が始まった。結界は徐々にヴァリアルの攻撃力に対応しているものの、一撃毎に彼女が纏うエネルギーが増大し、次々と結界を破壊する。
空気を踏み締める魔法による定石外の挙動と癖の悪い足技がギリヌスの防御の隙を突く。
「――《物理廻循環》」
「ぐッううう……ッ!」
ヴァリアルは空気を握り締め、身体を振り回すことで更にエネルギーを叩き込む。爆発したかのような衝撃を受けたギリヌスは街中の建造物をぶち抜き、最終的に王城の拝める大通りに打ち捨てられた。
ディスミナス程ではないにしろ、無視できない痛苦。一旦、傷を治癒することが先決か。
「――な」
眼を開いて息が止まった。
空が真っ黒に染まっている。否――真っ黒な円が〈帝国都市〉一帯の上空に浮かんでいるのだ。
全てを飲み込むブラックホールの黒はヴァリアルの髪色を連想させた。
闇の最奥が僅かに灯っている。橙に、水色に矮小だがはっきりと瞬く光がある。
「……宇宙か? それも根源に近しい……」
存在するだけで発される膨大エネルギーがヴァリアルに注がれている。事の異常性にギリヌスは気づいた。
「どこかの宇宙とここを空間接続した……? 空間接続は魔女の魔術統制により〈魔法律〉での発動は不可能になってるはず……ということはこれはそれ以外の力――」
――〈幻想律〉。
曲がりなりにもヴァリアルは〈十〉の称号を所有している。無意識に〈幻想律〉を扱えるようになっているのかもしれない。そう考えれば〈門戸を叩く者〉という称号も意味あるものに見えて来る。
宇宙の深淵との空間接続による円。
真下から見たため、一枚に見えたが実際に縦に五つ並んでいる。徐々に攻撃の威力が増していたのは単純に接続数を増やしていたからだ。
「――《物理到達点》 」
家屋の屋根に舞い降りたヴァリアルが起き上がるギリヌスを見下ろし、饒舌に解説する。
「あなたの使う魔法技術〈幻想律〉とか言うらしいけど力を奪おうとしても奪えないから仕方なく違う方法で倒すしかなくなったんだよね。それが《物理到達点》 ――宇宙の創生、あらゆる世界の原点。そこから発生する無限のエネルギーを無尽蔵に引き出すことができる」
「……あの攻撃一発一発に宇宙創成レベルのエネルギーが込められてたとでも? もし避けていたら世界は――」
「消し炭だったね。受け止めたのは正解、危ないところだったわね」
手前勝手に世界の命運を賭けたというのに可笑しそうに微笑むとヴァリアルは屋根から降りて起き上がったギリヌスと正面から睨み合う。〈幻想律〉を纏ったギリヌスには〈悠久の芒星眼〉の権能は効いていない。
「世界を盾に取った、という訳ですか」
「どう受け取っても構わない、そっちの方がやる気が出るならそういうことでも良いわよ」
「とことん人類悪ですね、強者というのはどうして螺子が外れた者ばかりが……」
「当然のように自分を例外扱いする辺り、私にとっては同類だけど」
既に言葉の応酬で蹴りが着く次元を超えている。
互いの拳の射程に入る一歩が刻まれた。両者は同時に拳を繰り出し、ヴァリアルが一方的に殴られた。彼女の拳も届いたが結界により完全に防がれている。
「先程圧されたのは《物理到達点》を観測できてなかっただけです、あなたが根源宇宙から力を得ようともその力さえ〈幻想律〉の範疇です」
「じゃあ、観測できない位置に出したら――」
黒薔薇のスカートを翻して放たれた踵落としは無造作に掴み取られた。
「観測範囲は目視だけではありません。〈幻想律〉に捉えられないものはないです」
例え、世界の反対側にあってもエネルギーが存在する以上、走査から逃れることはできない。
その場にある全てのエネルギーを想うがままに操る、その場の定義に世界の壁も距離の制限もない。
例外があるとすれば――帝国各地で〈幻想律〉使い同士の戦闘が起きたり、と支配権が非常に複雑に絡まっている時。《物理到達点》に初見で気づけなかったのはそのためだ。
「私が使う力さえも手の内、ってことね。そんな絡繰だろうとは思ってたけど弱点とかないのかしら」
「ないですよ。単なるリソースの奪い合い、支配力が強い方がもぎ取れるだけのことです」
「そう。じゃあ、私はこうして続けるだけ――《物理到達点》」
都市からは見えない位置に生み出されるエネルギー孔が続々と出現する。対応される前に途方のない力で圧し潰す算段らしい。
突如として現れる力の波を捉えながらの戦闘は至難を極める――なんてことはない。ギリヌスは〈幻想律〉を完全に制し、ヴァリアルの猛攻を裁く。そこには一縷の隙もなかった。
「もうあなたに勝ち目はないですよ」
連撃を完全に見切ったギリヌスは一気に接近し、ヴァリアルの腹部に拳を押し当てた。
――《撃力波》。
腹部に叩き込まれたのは一瞬の重い一撃。その重みは世界の創生にも匹敵する。
身体が爆散しなかっただけマシだっただろう、少女の身体はホームランボールのように放物線を描き、地面に叩きつけられた。
「流石にこの程度で死ぬはずありませんね」
ギリヌスに先程までの油断はない。〈幻想律〉に入門したこと以上に、ヴァリアルの精神性を警戒していた。無垢で悪気のない邪悪な純心ほど質の悪いことはない。そういう者の終わりは巻き添え、という最悪の終わりになることが多い。
〈幻想律〉でどうとにもなるとは言え、世界と心中なんて冗談ではない。
「今ここで徹底的に叩き潰す、それが世界のためになる」
人同士の戦争を〈調停〉するのがギリヌスの目的だがこれは例外判定。戦争なんかよりずっと悍ましく、容易に悲劇を引き起こす存在を無視する訳にはいかなかった。
「《戦場凱旋》」
五体投地で倒れる少女目掛けて激走する。目の前の障害物を全て貫く最強の矛が容赦なくヴァリアルの命を狙う。
ヴァリアルは脇腹に治癒魔法を試みながら、ゆらり、と立ち上がる。
ギリヌスの進路上に《物理到達点》が発生し、無限遠点へ空間が接続された。しかし、ぶち破る。概念さえも踏み越えて進撃する。
激突の寸前、ヴァリアルは身を捩った。《物理廻循環》で重力を無効にし、ソニックブームに乗って上空へ飛んだ。
《戦場凱旋》の弱点――概念走破は当たらなければ発動しない。それは《戦場闊歩》による方向転換と組み合わせることで補うことができる。
そして――もう一つある。
「――《戦場独歩》」
「――!?」
ヴァリアルの視界から〈調停者〉の姿が消えた。
先程までいた座標には痕跡も残っていない。まるで違う空間同士を繋げて潜ったかのような消え方だった。
音もなく背後を取ったギリヌスは空を蹴る。後頭部を爆散させんと渾身の回し蹴りを放った。
衝突までの刹那――世界に幾つもの《物理到達点》が生成される。
優に億度兆度の宇宙が創世されるだけエネルギーがヴァリアルに宿った。
完全なる死角からの攻撃。防御されようとも〈幻想律〉なら貫通して脳髄を破壊し尽くすことができる。
「――ッ!」
しかし、蹴撃は空振った。ヴァリアルが直前で腰を折り曲げ、避けた。
「やっぱり背後にいた。周りにいないなら後ろを警戒するのは当然のことよ?」
「次は避けれませんよッ!」
尋常ではない空中制動で体勢を整え、勢いを殺さないまま回し蹴る。
その挙動はあまりにも早過ぎた、ヴァリアルの反射速度を超え、ワンアクションも許さず少女を
大地へ叩き落とした。
「――っ、遅かったみたいですね」
ギリヌスは舌打ちでもしそうな苦々しい表情に染まる。
《戦場凱旋》による蹴りならば叩き落とすどころか爆散させる、というのにヴァリアルは地面に落ちた。これを防ぐには同等の法則を纏った防御をする必要がある。
「今、まさに才能を開花させているとでも?」
実践経験ほど身になるものはない。特に、危機的状況に陥った時の人の力は目を見張るものがある。戦場を渡り歩いてきたギリヌスはそんなシーンを幾度も目の当たりした。
それでも――早過ぎる、というのが偽らざる本心だった。
「これ以上学習される前に殺さなければ――」
――何度ギリヌスに地面に叩きつけられただろう。
圧倒的な差を見せつけられた。届くビジョンが見えなかった。一矢報いる余地がなかった。
それはたった今までの話。
たった今、状況は変わった。
「ようやく触れることができた――〈幻想律〉、流石私」
ヴァリアルは天空から超高速で降ってくるギリヌスに敵ながら感謝する。
「ありがとう、とても良い見本になったわ。お陰で理解できた、最上位の法則を」
《物理到達点》を使っても〈魔法律〉ではどうしても勝てないことは初めからわかっていた。
ただ、そこまですれば〈幻想律〉の攻撃でも数回は防げるという公算はあった。その数回受ける間に〈幻想律〉を学習することがヴァリアルの本懐。
自覚して使うことができるようになって一段回目。完全に操ることができなければ達人級のギリヌスには勝てない。
「そこまで待ってくれる程のお人好しじゃないか。なら、こちらも荒業を使わないとね」
《物理廻循環》を発動し、逆再生するように上体を起こす。
数秒前に理解したばかりの〈幻想律〉を両手に纏い、魔法を描く。
魔法陣を描く必要はない。必要なのは世界を自分の延長線とする、という定義のみ。
右手に《物理到達点》――。
左手に《武器創造》――。
魔法同士を叩きつけ、音を鳴らす。掌の境界で宇宙創生のエネルギーで武装が創られる。
創造されたのは神々の力が込められた漆黒の直剣――その銘は〈終章神剣ロード・サクリファイス〉。
終わりを謳う破焉の魔剣――ヴァリアルはその刃を首筋にそっ、と添えた。
「〈混沌血統〉」
真っ黒な、ただただ真っ黒な血液が世界を塗り潰す。