22.ツィアーナ・プテリス
◎3
――光の奔流が途切れた先には何も残っていなかった。
塔は文明を破壊する攻撃を受けても傷一つ付かない頑強な構造をしているため、一切傷ついていない。あの威力なら確実に街に影響が出ていたので好都合だった。
そこにツィアーナの姿はなく、残ったのは赤熱した数々の武具のみ。
「……何とか、やったわね……」
ネーネリアは何もしていなかったが、同じ場所にいたというだけで激しく精神力を消耗していた。心臓の高鳴りは未だ止まず、強烈な焦燥感に打ちひしがれる。
覚悟していたとは言え、弟子同士の殺し合いは見ていて気分が良いものはなかった。自ら破門にした相手で自分を殺そうとしていても――思い出も色褪せずに残っている。
「ツィアーナ……――いえ、詮ないことね。被害がこれだけで済んだだけマシね」
世界〈七〉番目と戦ってこれなら善戦したとも言える。
ネーネリアはもっと苦戦する、と考えていた。そのためこの結果に肩透かしという感想も抱く。
否――不自然さを感じ取った。
「こんなにも弱いの……?」
この幼女は弟子達の戦いの前に世界最高峰の激突を目にしたではないか、〈調停者〉とガイザーの邂逅を。わかったのは何もわからなかった、ということだけだった。舞台がそもそも違う、という漠然とした感覚は今も残っている。
二つの争いの齟齬がネーネリアの背をなぞるようで緊張の糸が切れてくれない。
「あの二人は差もわからないくらいの強さだった」
ネーネリアにとって目に見える、というのは測れるかどうかだった。
予感を心に留めつつ、満身創痍の賢者達を見渡す。目に見える怪我は全くないが、彼らの魔法的エネルギーは底を尽いた。
〈飛翔神煌〉ほどではないが世界上位の実力者達のため、そもそも強者と出会う機会がゼロだった。ここまで追い詰められたのは初めてかもしれない。
――その時、世界に亀裂が入った。
空間の罅が伝播して瞬く間に全天が砕け散る。空間の裏側と思しき灰色の欠片が視界の中で瞬いた。
広がっていたのは最初に最上階に来た時と変わらない研究所。戦闘の跡は見受けられない。どころかいっそ何事もなかったかのように不変だった。
違うところと言えば、中央の机に優雅に足を組んで座っている前衛的なドレスを纏う女性がいるかどうかくらいだ。
死んだはずの、生きているはずのない人物にネーネリアは呆然と訊く。
「ツィアーナ……どうして……」
「そんなの決まってるでしょ? 茶番だったのよ、さっきの全部」
「茶番……?」
「昔から嫌いだったわ、その理解できない振り。心底ムカついて仕方ない――ま、滑稽に踊ってくれたから許してあげるけど」
ツィアーナは腹を抱えて嘲笑った。
「茶番……あれが……?」
賢者が力尽きながら滅ぼしたツィアーナは存在していない。あの死闘が全てなかったことになっていた。まるで狐に化かされたような――。
「幻覚を見せる結界?」
「才能は失っても勘は冴えてるわね。《幻想結界》よ」
「最初から使っていた? だとしたら彼らが気づかないはずがない……」
「――業腹だわ」
嘲る軽い声がワントーン低まり、音に怒りが混じる、
「あんなのと一緒にしないでくれる? 立ってるステージがそもそも違うのよ。最上階には元々《幻想結界》が張られてた。あなた達から入って来たのよ、気づけなかった時点でもう以下なのよ」
「…………」
そこまで強かったか――?
ツィアーナは幼い頃から才気に溢れた逸材だった。いつかは自分をも超える、とまでは微塵も思っていなかったが歴史に名を残すほどの実力を有していた。
だが、ここまでだったか――?
魔法への執着には恐るべきものがあったがここまで法外ではなかった。
魔法の才能ならば片鱗は〈円卓賢者〉にも感じたというのに。
賢者を片手間でいなすことできるくらいの成長性があったのか――?
困惑に苛まれ、身動きが取れなかったネーネリアにツィアーナは邪悪な微笑みを向ける。
「意味がわからない、って顔ね。でも当然よね、あなたは〈魔法律〉の上を知らないものね」
「魔法律の上……? そんなもの魔女の領域じゃない……――まさか……」
「えぇ、そうよ。私は至ったの、魔女の扱う究極の自然律〈幻想律〉に――」
世界に法則として存在する自然律の上に神秘と奇跡の魔法律が存在する。
更にその上に未知の法則があるということは、可能性として推測として提唱されていた。まさに魔女の領域であり、人類には到達し得ないはずだった。
魔女という前例がある以上は絶対に到達できない、とは言えない。ツィアーナが〈幻想律〉を使ってもおかしいことはない。
そう頭は理解していても、信じられない。魔女と同じ領域というのはこの世界の人間にとって信じ難い偉業だ。
「あなたに見せてあげるわ、ネーネリア。あなたが気づくことすらできなかった魔法を! 掛かって来なさいよ死に損ないの魔法使い」
満身創痍だった賢者達だが、失った魔法的エネルギーの大部分は既に補完していた。
エネルギーを貯蔵する魔道具と、心臓に刻まれた魔法的エネルギー生成を加速する魔法で急速に回復している。
そんなことがわからないツィアーナではないが、それでも死に損ないと評した。その意味は――。
七人の賢者は一斉に武器を構えた。武器に込められた立体魔法陣が七つ頭上に、更に各々が使える大罪魔法が重なる。
七つの大罪を浴びれば行動に著しく制限される。
ツィアーナは賢者を嘗めている。先程、出し抜いたばかりで軽んじているその心理的隙を突ければ状況を優位に進めることができる。
呼吸が重なる――魔法的エネルギーが魔法陣を駆け抜け、法則に従って現実世界に現象を起こす。
「――頭が高い」
フィンガースナップの軽音が意識に差し込まれる。
指先を基点として展開された結界魔法は瞬時に拡張され、塔の最上階を覆い尽くした。
呼応するようにゴオオオオオオオオ――という天変地異を思わせる内臓に響く轟音が鳴る。
気づけばツィアーナに立ち向かっていた賢者が纏めて地面に圧し潰されていた。《幻想結界》で使われたものとは文字通りに格が違う重みである。それはいとも簡単に人を絶息させることができた。
「《超重結界》――あなたと私には効果はないわ」
幼女に向かって性悪な微笑みを見せるとふわり、と机から降りた。
反射的にネーネリアは後退る。
「ビビってんの?」
邪悪に頬を歪ませると、ドレスのスリットから伸びた細い足で更に一歩刻む。
成人女性の一歩の方が大きいの自明だ。いつしかネーネリアとツィアーナの距離は一メートルを切った。
「簡単には殺さないわよ。この恨みが晴れるまで嬲って痛めつけてあげる。あの日から今までの全てを理不尽にぶつける」
「――ッ、あの時の判断は間違ってなかった。私は後悔していない」
「その発言を撤回する時が楽しみね。ねぇ、ネーネリア?」
どうしてこんなことになってしまったのか、何を間違えてしまったのか。
ネーネリアは遠い過去を回想する。
――ネーネリアとツィアーナの関係の始まりは今からおよそ四百年前に遡る。
舞台は、中央大陸の西側全土を支配していた〈天覇帝国ゼイレリア〉の首都に打建てられた魔法使いの本拠地〈魔術全塔ラウンド・インデックス〉――通称魔塔である。
魔塔とは全ての魔法使いが目指す終着地点であり、英知と才気の集まる最高峰の魔術研究所だ。
その中で、九人しかいない最高幹部〈至高賢者〉の座に位置していたのがネーネリア・トゥーンである。彼女は稀代の結界術使いであり、同時に凄腕の魔道具製作者でもあった。
若くして名を知られる結果を残してきたネーネリアに師事したい、と思う者は数多くいた。
その中の一人がツィアーナ・プテリスという少女であった。才能を見初められたツィアーナはネーネリアの研究所に所属することなった。彼女は当時一〇歳だったという、最年少での魔塔入りだった。
〈先生、どうして理論上成立する空間転移の魔法は使えないんですか?〉
〈魔女が魔法律に干渉して使用不能にした、というのが俗説ね。何故そうしたのかはわからないけど〉
〈不思議ですね〉
〈えぇ、不思議だわ〉
師は弟子に教え、弟子は師を慕った。実力主義の魔塔では珍しくも、まとも師弟関係を築いていた。
魔術を調べ、極めるための魔塔だがこうも堂々と国家を転覆し得る魔法さえ扱うことができているのは帝国への協力という名分があるため。例えば、〈天覇帝国〉が戦時中なら魔塔は戦力を提供しなくてはならない。
戦力と言っても、人的資源ではなく魔道具や殲滅魔法の知識などの提供が主なものだった。
当時の中央大陸の情勢は極めて乱れやすく、絶え間ない被害報告が耳に届いた。
とは言え、中央大陸を半分支配していた帝国は戦いを優勢に進めていた。
帝国が魔法使いに求めたのはもっと多くの人間を殺す魔法だったが。
但し、魔法を極めるという至上目的の下に組織された〈魔術全塔ラウンド・インデックス〉はあくまでも協力という姿勢を崩さなかった。魔塔内では戦の空気感とは隔絶され、日夜、魔法使いは真理の解明に勤しんでいた。
魔塔幹部であるネーネリアもその意見に従い、のうのうと研究を続ける。
だが、ツィアーナは違った。直接的な協力をすべきだと直談判してきた。どうやら彼女の故郷が戦地となっているらしい。
総意には従う、という模範的解答をしたネーネリアに軽蔑の言葉を口にしたツィアーナは自ら戦線に乗り込むことを画策したが止められてしまう。
〈あなたは戦争をするには強過ぎる。一度足を踏み入れたら逃れられなくなる〉
ネーネリアはそう諭し、無理矢理にでも出て行こうとするツィアーナを拘束した。
結局――戦争は帝国が優位に進め、ツィアーナの故郷が滅ぶことはなかった。結果的にはただの杞憂だった、と胸を撫で下ろすことになるが二人の関係に致命的な傷ができたことは間違いない。例え、それが逆恨みでも遺恨は遺恨だ。
それから五年程が経ち、ツィアーナは一五歳になった。
魔法の才もぐんぐん、と伸びネーネリアの助手を任されるほどだった。心の奥底にわだかまりを抱えながら二人は師弟として正しく時を過ごした。
そのまま何も起きなければこの二人が離別することもなかっただろう――。
落ち着いていた情勢が乱れ始めた。
切っ掛けは〈嵐型災害〉の中央大陸の到来だった。
災害は東側全土に被害を与え、周辺国の国力は著しく弱まった。この隙を逃す手はない、と〈天覇帝国〉は進軍を開始したのだ。
次々と国を落とす中、東側では連合軍が結成され、帝国との全面戦争が勃発する。
火事場の馬鹿力ではないが、追い込まれた連合軍側は帝国に迫るとも劣らない戦力を見せてきた。次第に劣勢に追い込まれ、徐々に疲弊していく。
戦争の煽りを受けるのはどんな時でも国民だ。
そして、魔塔も同じ。但し、煽りの種類は国民とは異なる。帝国からの要求である人を殺す魔法の開発を迫られた。
〈そう簡単にできる訳がないでしょ〉というのがネーネリアの本音。魔法的エネルギー量は無尽蔵ではない。戦争と言うなら効率が求められる。兵士が使えるレベルにまでランクを落とせばそれだけ威力が低くなってしまう。
――そして、効率の良い魔法を開発となるとどこかで人体実験が必要になる。
時代観も関連するが、倫理性から鑑みて死刑囚を実験に使うことは国から認められていた。
ネーネリアも囚人を使った実験は幾度かやって来ており、一切の躊躇もしなかった。相応の罪を犯したのなら相応の終わりを迎えて当然、と思っていたためだ。
無辜の民を使って人体実験をすることは絶対にしなかった。それだけの倫理観は持っていた。
故に――ネーネリアは許せなかった。
この戦争という常識がぶち壊されてまともでいられない時代であっても譲ってはいけないものがある。
ツィアーナの実験室に飛び込んだネーネリアは半狂乱に叫ぶ。
〈ツィアーナ、あなたは自分が何をしているかわかってるの!?〉
〈……人体を使った魔法の実験ですが? 今はいち早く魔法を作り出して帝国軍の支援をしなくちゃならない時です〉
〈そういうことを言ってるんじゃない! ――彼らは罪人ではないでしょう!?〉
ツィアーナは認められていなかった一般人を使っても実験を行っていた。
鎖に繋がれ男性は魔法陣から放出された青い霧を吸うと、血を拭き出して息絶えた。
〈ですが、帝国の未来のためです。役に立てて死ねるなら本望なのでは? その命で家族や友人を守ることができるんですから〉
〈ツィアーナ……!〉
〈あなただって散々人の命を奪って来たでしょう? 今更善人振ってもなかったことはなりませんよ〉
〈彼らは死刑囚よ、帝国政府が認めた〉
〈――命を奪っている、という事実は変わらない〉
〈……っ!〉
〈それが誰であろうと、やってることは同じ……私、何か間違ったこと言いましたか?〉
例え、相手が誰であろうと人の人を殺す、というのは死刑囚を理由にしても足りない程度には罪深い。
言葉を失したネーネリアは同時にツィアーナとはわかり合えないことを悟った。
だれであろうと同じなんて――許せるはずもない。
〈ここで私があなたを見逃せば、きっともっと多くの罪のない者が命を落とす――だから、終わらせましょう〉
魔塔における破門は師自ら弟子を殺すこと。世界を一変させる得る知識を持った魔術師をむざむざ逃がす訳にはいかない。
〈いつまでも私が下だと思っていませんか? あなたを見て育った私がのうのうと研究していたとでも思っていませんか?〉
〈関係ない、それでも私が超越するだけのこと〉
〈っ、そういう自分の正しさを疑わないところが嫌いだったのよッ!〉
これがネーネリアとツィアーナの離別の瞬間――現代に至るまでの因果。
結局、突如魔塔で起こった闘争に勝利を収めたのはネーネリアだった。ツィアーナに完全なる留めをさせたかまでは確認できなかった。ギリギリの辛勝だったのだ。
教訓を得たネーネリアは自分が師に向いていない、と判断して弟子を取ることを辞めた。
その数日後、〈天覇帝国ゼイレリア〉は連合軍に破れて敗走を余儀される。連合軍の勢いは止まらず、ついには王都を占領され、魔塔の権威は崩れ去った。
ネーネリアは滅びゆく故郷を眺めながら気ままに旅を始めた――そして、彼女は魔女と出会う。その後どのように生きてきたかはまた別の話。
――邪悪に育ったのは少なからず私のせいではあるんでしょうね。これはその罰なのかしら。
驚異的な記憶力の持ち主のネーネリアは回想して、そんな結論に至った。少なからずツィアーナの情操教育に影響を与えているのは確かだろう。
自分ではどうにもできなかった部分があるのも確かだ、だからと言って気づかなかった言い訳にはならない。
受け入れることにした。
紫光が瞬き、顔を上げると円が重なって構成された魔法陣が展開されていた。
「――この魔法は神経に直接刺激を与えることができるの。但し、実際には傷はつかない……拷問のために作った魔法だけどストレス解消にも使える便利な魔法なの、ショック死することもなし後遺症も残らないのよ」
ツィアーナはまるで子供のような笑みを浮かべた。
今から幼女に苦痛を与えよう、などと誰も思わないだろう。
「徹底的に痛めつけたい訳ね……」
「子供の姿になっていたのは残念だけど、その分良い声が聞けそうね」
魔法の標的がネーネリアを示し、魔法的エネルギーが注ぎ込まれる。
「《幻妖神痛》」
「うっ――があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ――!」
全身に走る激痛に喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げる。それは幼女が出して良いような声ではなく、例え物理的な傷がなくても、残酷で凄惨で目を塞ぎたくなる邪悪光景だった。
白目を剥き痙攣する幼い子供を見下ろし――否、見下して嗜虐的に笑う。
それから――絶叫と邪悪な哄笑が塔の最上階に交互に木霊した。
二種の不協和音は〈迷宮塔アルアム〉の底にまで届く。
黒い外套を纏った老躯が静かに頭上を見遣った。腰に提げた剣を握り、膝を軽く曲げる。
そして――消えた。
まるで瞬間移動したかのように、音にさえ存在を気づかせずに直上に飛び跳ねた。
近づいてくる嗤い声が途切れる。
鋭利な剣身が外界に露わになると同時に――ツィアーナの全身から濃密なエネルギーが放出された。彼女の首目掛けて横薙ぎに振られた斬撃は衛星による《結界》によって阻まれる。
先程までツィアーナが感じていた愉悦は雲散霧消していた。数百年を経た復讐の愉しみを忘れる程の出来事だったからだ。
わなわな、と震え、これでもかと眼を見開く。
「どうして……どうしてあんたが今! ここにいるのよ!? ――ガイザー・ラルフォルド!」
両者の身体にマゼンタの文字が駆け抜ける。
順位と称号が証明書となって相手が偽物ではないことを確信させられた。
ツィアーナは跳ねる心臓を抑えながら、自分の領域を確固たるものにしようと衛星を展開する。数百や数千では利かない、目には見えないレベルの衛星結界を含めればその数は数億超えた。それでも生成を止めずに垂れ流し続ける。
理由は簡単――。
「世界〈三〉位……〈最上剣〉――! 世界最強の剣客――!」
ツィアーナでさえ見上げるあまりにも大きな存在が立ち塞がれば否が応でも全身全霊を尽くさざる負えない。
「彼女の指示にて推参しましたが、なるほど懸念通りという訳ですか」
誰に語り掛けるつもりもなかっただろうガイザーの呟きが虚しく響いた。
ここまで来ればここに来た理由が何でもあっても関係なかった。これから何が起きるか状況が物語っている。
帝国上空に続き、〈迷宮塔アルアム〉でも世界最高峰の戦いが勃発する。
空に毒づいたツィアーナは指先を正面の敵に向けた。
「マジで最悪なんだけどッ!」
「――……」
〈飛翔神煌〉VS〈最上剣〉――火蓋が斬って落とされる。