18.誰に知られることのない聖戦
◎3
――風神、〈調停者〉、〈迷宮塔アルアム〉という三つの脅威の裏側で死闘を繰り広げるのはエリ、アリエンテ、アリエールの三人。
敵はかつてフィニスによって滅ぼされたはずの〈人型災害〉。
三人は狂気の咆哮をあげながら迫り来る黒い巨体を、剣技・魔法でもって受け流す。凄まじい膂力で襲い掛かって来る災害と街を逃げながら戦っていた。住民の避難は終了しているので人的被害はゼロ、という判断の下の移動だが状況は芳しくなかった。
〈人型災害〉は跳躍、着地様に両腕を地面に叩きつける。すると、地面から岩石が隆起し、エリの行く手を阻む。
「《虹彩断魔刃》――」
災害へと駆け抜けて来るエリ目掛けて剛腕を振るう。
インパクト寸前、目の前に氷壁が突き立った。氷壁の隆起に合わせて飛来したエリは剣身の先端にエネルギーを込めて〈人型災害〉の頭蓋に突き込む。
「ぐッ……!」
禍々しき角の一本を折ることには成功した。しかし、そこ止まり。
一撃与えたら逃げる――ヒットアンドアウェイこそが彼女達が〈人型災害〉に勝てる最も現実的な方法だった。一体幾ら試行すれば良いのか、果てしない数であることは間違いない。
エリは毎回嫌な汗を搔きながら黒い化物に相対していた。体力以上に精神的負荷が掛かっている。
「本当に少しずつしか削れません、果てしないですね……」
「仕方ありません、私達には決め手もありませんから」
「ならば、時間稼ぎに徹するのが最善・才知の選択でしょう」
アリエンテ、アリエールは魔法を駆使してエリを狙う〈人型災害〉の移動や攻撃を妨害している。先程は《氷塊錬成》で召喚された氷を足場として生み出した。直接攻撃をしないのは双子が攻撃もかの災害には通用しなかったからだ。
苛烈な攻撃に身を曝す度に精神力を消耗すると共に集中力は深まっていく。エリは〈人型災害〉の攻撃を半ば反射的に避けるまでになっていた。
戦闘への勘と、培われた経験により急激な適応を実現する。
「それも――〈人型災害〉に知性がないからでしょうけど」
本能に任せるままに剛腕を振るうだけ、となればエリが適応できない道理もなかった。
時間稼ぎをすることはできる。
こうやってアリエンテ、アリエールの援護があれば攻撃をいなしてカウンターを入れることもできた。
エリは急速に張っていた緊張の糸が緩んでいくのを自覚する。
死線の糸が解けていく感覚を覚えた。
――違う。これは違う。こんなものが戦場な訳ない。
張り詰めた外気と〈人型災害〉の殺意を前に、自分を俯瞰して思った。
「あの時みたいな――〈人斬り〉との果し合いの時のような……極限の戦いは……」
死線を交わしたあの時に振るった剣の重さはこんなものじゃなかった。
あの時に振るった剣の速さはこんなものじゃなかった。
〈訂正機関〉から解放された後、ネーネリアの庇護の下で平和に生きてきた。護衛という幼い頃からの使命を放棄した生活は陽だまりのような温かさだった。
だから、忘れてしまった。
己の剣の冷たさを――戦場の凄惨さを。
剣を振るう、とはどういうことなのか。
誰かを守る、とはどういうことなのか。
「私はもうレリミア様の騎士ではない。ですが、元だとしても不甲斐ないところを、情けないところを見せる訳にはいかない――!」
いつだって、エリが力を発揮できるのはレリミアのためだった。
零度以下まで下がっていた闘志に火が付き、徐々に霜が溶けていく――愛しの主を思い出すだけで心が熱くなった、力が湧いてきた。
「アリエンテさん、アリエールさん……作戦変更です。私達で倒しましょう、〈人型災害〉を」
先程までにはなかった力強い声音を自然と口にしていた。
「な、何を言ってるんですか?」
「相手は〈人型災害〉ですよ、私達に何ができると?」
唐突に吐かれた突拍子に思わず語気が荒くなる姉妹達。
その案はこの生きる災害に相対した瞬間に霧散した現実的ではないものだった。冗談でもこんなことは言えない。それくらいの差がある。
「そうですか」
エリは元より答えを期待していなかったようで、颯爽と地を蹴って吶喊した。
すれ違い様に虹の一閃を繰り出す、ノーダメージ。振り向いて平手してくる巨腕を跳躍で避けて、落下際に更にもう一閃、ノーダメージ。
「《閃剣》」
居合のモーションから数十の斬撃が一挙に放射されるが、ノーダメージ。
幾ら斬撃を繰り出しても強固な外皮を破ることは叶わない。回復スピードが尋常ではなく、更に速い、暇を与えない連続攻撃でなければ意味がなかった。
エリは乱れた呼吸を整えながら、目を閉じる。
「――〈訂正機関〉に囚われていた時の記憶は思い出したくないものしかありませんが、唯一感謝するべきことは新たな魔法を覚えさせられたことです」
トレードマークの白色の直剣を胸の前に構える。
その正面に魔法陣が生成されるのが、色は剣の印象とは真逆の黒だった。
「《形態:破邪失墜》」
エリの瞳が充血したように真っ赤に染まり、〈人型災害〉に負けず劣らずの黒いオーラが全身を包み込んだ。
彼女の心の内に沈み込んだ罪悪感と憎悪を力に変換する狂気の魔法。
聖騎士の失墜に相応しい闇の魔法、とフォルネオという神経質な女から嬉々として齎されたものである。
「ぐ、ぐッ……」
代償として襲って来る激情の波に飲まれないように気を強く持つ。憎悪に、絶望に飲まれてはならない。一度深呼吸をすれば衝動の波は穏やかになっていく。
そして、このモードになった時に発動した魔法は闇色に歪む。
「《七色虹道・裏》」
上方から飛び込んで来る〈人型災害〉の拳を黒ずんだ虹色が纏われた剣の腹で受け止める。勢いを殺しきれず煉瓦道を削りながら押し込まれるが、耐えた。
「はああああああああああ――ッ!」
身を屈め、〈人型災害〉の目下に潜り込み渾身の横薙ぎを放つ。《形態:破邪失墜》によって強化された腕力はかの災害を吹き飛ばすに至った。
受け身も取らずに転がり落ちる〈人型災害〉は腹部を抑えながら、耳を劈く絶叫を上げる。
「グアアアアアアアアァ――ラアアアアアァァアアアアアアア!」
一連の交錯を俯瞰視していたアリエンテとアリエールには、斬撃を痛がっているように見えた。まさかこの咆哮は痛みに喘いでいるのか?
先程まではどんな傷も瞬時に治していたが、今回の攻撃は一味違うようだ。
――《七色虹道・裏》。
本来の《七色虹道》は対象を卸すために刃にエネルギーが込められる。対して、裏の魔法は切断能力は下がっている。刃の表面は鋸のように幾重の歯が並んでおり、傷口をぐちゃぐちゃに裂くことができる。
傷が細かいだけに治癒のスピードが落ちているのだ。
「こんな切り札が……いえ、だとしたら――」
「――最初から使っている。なら、何らかのデメリットがあって、長くは使えない。ということは――」
「――彼女はこの技を使っても倒しきれないことを自覚している? つまり――」
「――先程の台詞の真意は――」
「――……」
「――……」
何も言わずに視線だけ交わし、双子は頷いた。
切り札ならこちらにもある。もしも、エリが〈人型災害〉を追い詰めることができるなら切り札は必殺と化す。
アイコンタクトはエリの賭けに乗るか否かの確認だ。
戦闘経験と剣術で〈人型災害〉を手玉に取る黒騎士は更にギアを上げていく。
「《虹彩断魔刃・裏》 」
虹を束ねて一撃を振り下ろす単体殲滅魔法は闇色に変質している。
剣から幾重ものどす黒い斬撃が重ねられることなく散らばり、扇型を為した。この乱雑かつ広範囲な斬撃こそが裏側の虹。
「行け――ッ!」
どこにも逃げ場を与えない一薙ぎが〈人型災害〉の四肢を無慈悲に斬り刻む。《七色虹道・裏》も依然として発動しているため、斬り口は非常に醜いものとなる。最後には釘でも打つように扇で巨体を叩き潰した。
エリは追撃をしようとして崩れ落ちそうになる。剣を地面に突き刺し、エリは肩で大きく息を吐く。エネルギー消費の大きい技の連発に肉体以上に精神力が削られていた。
「……もう限界が来ましたか」
朦朧とする意識を強く保ちつつ、エリは我ながら驚いていた。まさか自分が、弱体化されているとは言え、あの〈人型災害〉に差し迫るまでの強さを出せるとは思ってもみなかった。
自分の成長を感じて嬉しさを感じる。残念ながら呑気に喜んでいられないのだが。
叩きつけられた穴から這い出る災害の身体に刻まれた傷から黒煙が漏れ出ていた。治癒は終わりきっていない。
とどめを刺すなら今この瞬間――。
元・王女の護衛は一息吸って、剣を正面に構える。次の一撃に全てを掛けて魔法陣に魔剣を重ねた。
〈人型災害〉は猛獣のような牙が並ぶ大口を開けて、性懲りもなく飛び込んで来る。
「《虹彩断魔刃・逆》」
ばらけていた黒虹の斬撃が本来の美しさを取り戻すように一刀と化した。左手を〈人型災害〉に向け、魔剣を引き絞る。左足を横に重心を低める。
キィィィン――と、口内を撃ち抜く突きの一閃ならぬ一闇が〈人型災害〉の頭蓋を貫き、頭部を爆散させた。首を失い、巨体はバランスを失って崩れ落ちる。
コロン、と剣が転がった。
エリの右腕は痺れ、力も入らない。箸を持つことさえままならない、それだけあの一撃に専心したということだ。
全てを出し切って満身創痍のエリは膝を折って、天を仰ぐ。渦巻く黒雲は先程よりもなお恐ろしく、不吉に見えた。
「――……意思も思考もなくても身体だけは頑丈ということでしょうか」
〈人型災害〉は首をもがれても朽ちなかった。声を上げることもないのに。頭部から黒煙を噴き出し、今も治癒を行っている。
首を斬っても死なない――なら、本当に全てを消し去る以外に屠る方法はない。
「左手はまだ動く」
剣を拾い上げ、利き腕よりは少し不格好に構える。
次の瞬間には――何も見えないはずなのに黒腕がエリを吹き飛ばした。
反応し切れず、もろに食らった少女は血を噴き出し、地面を転がる。
「――視覚ではない……触覚……肌で戦意を気取られたか?」
〈――なら、知覚範囲外から攻撃すれば良いだけですね――〉
〈――そのまま伏せていてください〉
「《通信》の魔法……」
〈〈――《氷獄戦槍穿光 》〉〉
ほぼ同時に、頭上を無数の物体が高速で通過する。
〈人型災害〉へ視線を巡らせれば、飛来した氷柱に全身を貫かれて細切れになるところだった。頭部だけではなく、四肢までもげれば立つことさえできない。
それでも――〈人型災害〉だった黒い塊は命を諦めずに蠢いていた。今にも死滅しそうなのに、生き延びようと足掻く。
「今の内に留めを刺さなければ……」
エリは立ち上がろうとして、足に力が入らず前傾になったところで止まる。左右から肩を掴まれたのだ。
「無理するものじゃないですよ。まともに動けないのでしょう?」
「まさかこのような短絡的な行動をするとは思いませんでした。私達がいなかったらどうするつもりだったんですか?」
青髪の双子はエリを担ぎながら〈人型災害〉の成れの果ての下まで来た。着実に体積を取り戻していく黒塊にアリエンテが掌を向ける。クリアブルーの魔法陣が展開された。
「良いですね?」
エリは災害の欠片を最後に目に焼き付けてからうん、と頷く。
パン――と、軽い衝撃音で漆黒は跡形もなく消えた。それは〈人型災害〉の二度目の滅びだった。
アリエールは足下に落ちている剣を拾う。
「……どうして私達がこんなことしてるんですかね? 誰に知られることなく〈人型災害〉を倒しても得るものなんて何もないのに」
自虐的な問い掛けにエリは少し考える仕草をする。
戦闘の余波で街は破壊されても聖女の〈言霊〉ですぐさま再生される。もし、エリ達が〈人型災害〉に立ち向かわなくてもきっと滅ぼされていた。
「……私達がやらなくても誰か――英雄みたいな人が倒していたでしょうね」
黄金の長髪をたなびかせる後ろ姿が脳裏を駆ける。
あんな、苛烈なまでの自我は英雄に他ならない。その道を行くことはエリにはできなかった。
「多くの人は英雄の華々しい覇道を見たいと思うでしょう。ですが、世界にいるのは沢山の普通の人です。気づかれないだけで、普通の人もどこかで誰に知られることなく頑張っています。その中の一人になれただけでも私は良いと思っています。きっと誰かが見ていてくれますから、意義も、意味も、得もなくたって、いつか……」
人間は日々に忙殺されているからか、傲慢だからか、ただ生きているだけでも多くの人々によって支えられていることに気づかない。英雄の覇道のために木々を伐採する者が、道を整備する者が、その後ろ姿を写実する者がいる。
〈人型災害〉を三人で倒したことが帝国にどんな影響を与えるかはわからない。
それでも帝国に訪れた危機を脱する一助になれれば良い、と思う。
双子は顔を見合わせ、シンクロため息を吐いた。
「こう言っては何ですが似合わない台詞ですね。想像以上にロマンチストだったようです」
「本当に。そういうタイプに人間だったんですね。氷河よりも冷たい人間だと思っていました……少し幻滅しました」
「無茶をしたことは申し訳ないと思っています。後悔はしていません」
あまりにも気丈に言うので、何を行っても無駄だと察した二人は返事をしなかった。
三人の視線は自然と黒雲に浮かぶ薄緑色の巨人に向かう――〈風神〉である。鎖で空中に引っ掛けられた〈神〉は譫言のように何かを吐き捨てながら抵抗をしていた。聖女の〈言霊〉によって封じられているのだが、状況としてはほぼ互角の拮抗である。
「見ていることしかできませんね、これより先は――」
魔術師と〈人型災害〉の、最終決戦に裏で行われた激戦は誰にも知られることのなく幕を閉じた。
しかし、帝国の危機は未だ続いている。
英雄の道は英雄にしか進むことしかできない。
英雄は不特定多数の期待と責任を無理矢理に背負わされる。
英雄という覇道に逃げ道は存在しない。
英雄は無自覚に英雄としての道を行く。
英雄は世界の命運を託される。
そして――真の英雄が誕生する地は、世界の中心になる。
その時、黒雲の中に瞬く黄金の光が眩耀する――。
◎4
――〈調停者〉ギリヌス・カルゼルの目的が今達せられる。
彼がフィニスを〈試練鏡〉に映して〈風神〉を召喚した理由。
それは、〈風神〉を召喚することでやって来る〈血統者〉だった。しかし、それはフィニスではない。フィニスはあくまでも鍵。勿論、ゴッドナイトでもユーラシアでもない。
ギリヌスが見据えていたのは、四人目の〈血統者〉――四人目は〈神〉を殺すために中央大陸〈天帝国〉へ訪れる。その時こそがギリヌスが長年希った展開。
「――」
金縁の魔法陣が描かれた白色の外套を纏う金髪の男はクリアブルーの双眸を遠い大地へ向けていた。
――後二分、本当の頂上決戦が開幕する。