16.ギリヌス・カルゼル
◎1
――ギリヌス・カルゼルとは何者か?
それを正確に知る者は例外を除き、この世界に存在しない。
ただ、どの時代にも表れて戦争を止める〈調停者〉としてその名は語られている。大きな戦争が引き起こされた時には必ず現れ、問答無用で終結させた。
その身体に宿った不死の術式と、一軍を一方的に殲滅することのできる戦闘力で彼は数百の戦争を終わらせた。
一体いつから〈調停者〉として生きてきたのかはわからない。
彼の願いは子供の頃から変わっていなかった。
純粋に平和を希う心は幾星霜を超えても僅かも褪せていない。
彼は、世界平和という――そんな御伽噺を本気で信じ、どこまでも現実的にシニカルに実現しようとしていた。
誤解しないように言うが、ギリヌスは決しては良い人ではない。あくまでも、恒久平和への活動であることを明記しなくてはならない。
彼には一〇を救うために一を切り捨てる覚悟がある。揺るぎない覚悟が彼をここまで生かしてきた。
故に――目的のためなら〈天帝国ゼイレリア〉の滅亡しても構わなかった。結果的により多くの人間が救われる、と信じていたから。
「――罪なき人が、悲劇の因果に飲み込まれることが許せませんでした。本来なら幸せではなくとも、平和に暮らせるはずだった無垢の民が傷つく姿を見る度に思い出します」
ギリヌスはふと、そんなこと呟いた。
見ている景色は暗雲立ち込める帝国首都ではなく、記憶の奥底にあって、それでも昨日のことのように覚えている傷である。
「あの時、黄金の輝煌を直視した者は武器を持ってあたかも狂戦士のように戦場に走っていた……あの悪夢がまだ続いているんですよ。あんなもの人の死に様ではない」
ギリヌスの幼少期、彼の住んでいた国〈陸制国家プランク〉は隣国と戦争を行っていた。数年単位で行われた大きな戦争である。〈プランク〉は比較的劣勢に追い込まれており、戦場の近くで生活していた人々は侵略に対して逃げることしかできなかった。
例に漏れず、ギリヌスは母親と共に村で戦々恐々と行く末を案ずる日々を送ることになる。
ただ平穏は短く、間もなく、彼の村に敵軍が攻め入って来た。村は制圧され、ギリヌス達は奴隷や捕虜となった。
その時――頭上から黄金の輝煌が射す。空に浮かぶ金髪の男が花弁の映る桃色の双眸で村人・敵軍を睥睨していた。
その魔眼により、瞬く間にそこは地獄と化す。
人々は正気を失い、無差別な殺し合いを始めたのだ。まるで戦意に惹かれるように、狂ったような笑い声をあげて嬉々として血を流した。
唯一、生来の魔法耐性の高さのおかげでギリヌスは権能をレジストしていたが、この地獄を正気を保って見せられる方がこの場合は不運だったかもしれない。そうでなかったら実の母親に殺されかけることもなかったのだから。
ギリヌスが殺されることはなかったがその代わりにナイフを振りかぶった母親が敵軍の兵士に煉瓦で頭をかち割られるシーンを目撃してしまった。
数時間後、その血の海に生きて存在していたのはギリヌスだけだった――。
あんな光景、忘れられられるはずがない。
この過去が、この記憶がギリヌスを数百年に渡って動かし続けた原動力になっていた。絶望を知った彼の精神力は、立ち塞がったあらゆる障害を打ち砕く。今のその道程である。
「あの黄金の光は数百年が経っても消えずに燻っている。私にはあの男は見つけることができなかった……しかし、ようやくその悲願が叶うのです。その邪魔はさせませんよ」
「――ッ」
「できない、と言うのが正確な表現でしょうけど」
そして、そして――瓦礫に腰を下ろしたギリヌスは足下に転がる二人の少女を冷たく見下ろす。
フィニスエアル・パルセノス――。
ユーラシア・カルキノス――。
二人の〈血統者〉は〈調停者〉を前に圧倒的な格の差を見せつけられている。
《撃力波》といった理論・正体不明の魔法で一方的に叩き伏せられた。
〈風神〉は魔法的エネルギーによって構成された鎖により中空に拘束されている。聖女の〈言霊〉によるものだ。無作為に暴れることはなくなってもなお《神威》と《風神砲》を乱射しているため街への被害は大きい。
ギリヌスは〈神〉が生きていれば何でも良いので関知せず、目の前で今にも剣を振りかぶりそうな敵を見遣る。
「時間に余裕があるとは言え、いい加減降参して欲しいのですが」
「……そういう訳にはいかない。あの〈神〉は私から出たもの、このまま放置するなんてできない。今はユニスが止めてるけどいつ動き出すかはわからないから」
「目的を達成できたのなら返しますよ、何て言っても無駄なんでしょうね。ご自由にどうぞ」
「――行くよ、ユーラシア」
「わかりました、お姉様」
二人は視線を交わし、各々の武器を首筋に構えた。
思い切りよく血管を斬り裂けば、世界は黄金と深緑に染められる。
「〈黄金血統〉」
「〈翡翠血統〉」
〈血統者〉の神髄――血統を解放したフィニスとユーラシアは剣に魔法を纏わせ、ギリヌスに斬り込んだ。
ギリヌスの周囲に張り巡らされた結界が斬撃を阻む。彼を中心とした半径一メートルは核爆弾を落とそうとも絶対不可侵の領域と化している。
「想定を超える強さ……素の斬撃じゃ流石に厳しいか。でも――」
「でも――、ですね」
諦める、という言葉はフィニスの中にない。
であれば、同時にユーラシアが諦める理由もなかった。
フィニスの握る白金の剣〈戦騎神剣アリスティ・エース〉から魔法陣が黄金に染まった幾何学模様が浮かび上がる。
「《戦線千閃宣誓》」
「《乖離廻裏界理》 」
その一歩後ろでユーラシアは同様に幾重もの返しが付いた凶悪な剣・〈乖離偽剣テル・アーロン〉に込められた魔法陣を紡ぐ。
神々に類する単体特化型殲滅魔法が重なる。どちらの魔法に繋がりを断ち斬る、という副次効果が付与された触れれば即死の絶剣。
「はああああああああああああああああ!」というフィニスの咆哮と共に繰り出されたのは突きだった。結界に突き込まれた二撃により、凄まじい反作用が生じた。
雷鳴のような空間を裂いた轟音、結界の表面が削れることで弾き出された虹色のエネルギー塵。
交錯する両者の魔法――。
「無駄です」
壁の内側からギリヌスが手をかざせば、フィニスは腹にバットでも食らったかのように吹っ飛んだ。
「うがあああああッ……!? ぐぅッ、さっきからどうしてこれは《物理循環》を無視するの!?」
肉体の耐性が低いフィニスにはギリヌスの片手間の《撃力波》でもクリティカル必至。
「このっ、あなたは絶対に許さないッ――!」
「さっきから怖いですよ」
愛しの姉が害され、血管がぶち切れた。
目にも止まらぬ速度で剣戟を見舞う。どの斬撃にも《乖離廻裏界理》が込められていた。
怒りでリミッターが外れても、ギリヌスの結界の前では児戯だった。ゴッドナイトがそうであったように〈神剣〉に込められた一魔法では手傷を負わせることもできない。
「〈神剣〉の奥義でも使わなければこの結界は壊れません」
「――なら、これはどうでしょう!」
「これは……?」
ユーラシアは剣を放り出し、一気に結界の目前まで距離を詰めた。
この切迫しながらも、濃厚な覇気を纏った独特の空気をギリヌスは十数分前に体感している。そして、一矢報いられたのではなかったか?
瞬間的にユーラシアの右手に翡翠の灯火が渦巻いた。
知っている。この技を知っている。ギリヌスは瓦礫から立ち上がって迎撃のポーズを取った。
それは神々の奥義――。
「《断絶の神撃》」
神撃は結界を打ち砕いた。思いの外あっさり、と砕けてユーラシアの方が多少驚く程に。
だが、ギリヌスは最初から心構えができていた。結界が砕かれる前提で動いていた。
その差が次の結果を齎すこととなる。
「一度目は油断したが、二度目はないですよ」
「ッ!?」
結界により中和された拳を受け止め、空いている右手に《撃力波》を流し込む。〈調停者〉は容赦なくユーラシアを滅多打ちにした。
一度の攻撃を多重複写したかのような現象を起こす魔法《因果重複》を掛けた拳撃によりミリ秒間に数千回まで増幅される。
抵抗の暇を与えない無限の連撃により、翡翠の血液がその顔面からとめどなく飛び散った。
《撃力波》の突き抜けるような衝撃によりユーラシアの意識は気絶と覚醒を右往左往する。内臓や頭に直接くる、そんな重みが断続した。生死の境が薄まる最悪の体験だ。
顔面も骨もぐちゃぐちゃになり、元来の美貌は見る影もない。死なない程度に手加減をしていたのが逆に痛苦に終わりを与えなかった。
現実時間にして数秒間、数億数十億の拳を受けたユーラシアは地に――真っ赤な血に落ちる。
「――これで二人。残るはあなただけ……?」
二人目の〈血統者〉を倒し、最後の仕事とばかりに気合いを入れたギリヌスはフィニスの姿が見えないことに気づく。
――まさか逃げた?
これだけの実力差を見せつければそんなこともあろう。口の割に大したことない奴と言うべきか、正しい判断のできる引き際の上手い奴と思うべきか。
いつものように大きなため息でも吐いて気を抜く――寸前、大きく息を吸った。
「……油断はしない。これ以上の好機はもう訪れないかもしれない、ならばここで躓くのだけは避けなければ」
魔眼を開いて全周を俯瞰する。目視できる範囲にフィニスはいない。
絡繰がある、と想定して再度魔眼に意識を寄せる。月華のように瞬く魔眼が歪を捉えた。
「――いた」
該当方向に《撃力波》を放てば、〈危なっ〉という可愛らしくも緊張感のある声が聞こえてくる。堪忍したように彼女は姿を現した。
ギリヌスの背後に回っていたフィニスは〈神剣〉を腰に提げ、リラックスした風に直立する。
「《物理偏光》――やっぱり、どうやって見破られたのかわからなかった」
自らにぶつかって来る光のエネルギーを操作することで疑似的に透明人間になっていた。その他、発生するエネルギーも隠蔽することであたかも存在していないかのように動いていたのだがギリヌスには看破されてしまった。
「でも、準備はできた!」
「それが後ろの魔法陣ですか?」
「そう、私も使うのは初めてだから手加減はできないよ――《物理崩壊》」
使い方によっては神々の奥義にも匹敵するその魔法の対価はこの世界のエネルギーバランスである。
この世に存在する物体・分子を極限まで強制分解し、その時に発生する反作用をそのまま破壊エネルギーに変換するというもの。強い力・弱い力・電磁気力・重力――全てのエネルギーを一点掃射する。
そして――フィニスはその場に屈み、瓦礫に触れた。刹那、瓦礫は光芒と化し、魔法陣に吸い込まれていく。
「触れたものの完全なるエネルギー変換!? とんでもない魔法を使いますね!」
〈調停者〉として幾度の戦場を渡り歩いたギリヌスですら驚愕に目を見開く。見たことも聞いたこともない自然法則を捻じ曲げる凶悪な魔法。
通常の魔法なら強靭な結界で防げるが、《物理崩壊》の威力は彼にも計り知れない。
無数の瓦礫が真円の魔法陣に吸い込まれていく。
「透明化している間に触っていたようですね……」
そう、この魔法が恐ろしいのは物体さえあれば威力を上げ続けることができること。この世にエネルギーを含まない物体はない。触れるだけでエネルギーがほぼ無限に手に入るとなれば、ギリヌスが用いる次元の違う魔法にもいつか匹敵し得る。
優に神々の奥義をも超えて――。
「――頂に挑戦するだけの実力を持っている、ということですか」
「《物理崩壊》」
フィニスのフィンガースナップが引き金になって魔法陣から純粋なエネルギーが一挙にギリヌスへと押し寄せた。音すらもエネルギーに変えた光輝に飲み込まれる。