9.迷宮塔アルアム
◎1
その夜――〈天帝国ゼイレリア〉にある大都市の一つ、〈立法都市〉に地響きが起こった。五分ほど続いた縦揺れと共に筍のように地面からせり上がってきたのは紫色の塔だった。
一夜にして、アメジストのような透明感のある硬い物質で作られた六角形を底面とした角柱が当たり前のように聳え立つ市内に国民は大いに動揺した。それはそうだろう、グラウンドほどの広さを突然占有されれば誰だって驚嘆慄く。
日照権を著しく侵害するその塔だが、入口が存在する。化物でも出てきそうな高さ三メートルはある大扉には奇妙な意匠が彫られていた。〈円卓賢者〉のエンブレムに似ているが、余計な要素が多く足されて雑多な印象を受ける。
早朝、塔の周りは多くの人々で溢れかえっていた。
近づけないように周りを固めているのは帝国騎士団ではなく、賢者魔法師団である。
本来、街中で起きる事件は帝国騎士団が管理、処理するのだがこの一件は賢者の領分だった。この事件は人同士で起きる事件とは画するものだからだ。
紫色の塔――〈迷宮塔アルアム〉は魔法によって建てられたものである。
だとしても、ここまで厳重警戒されるというのは珍しい事態だった。
――それは塔が姿を表した直後のことである。
魔法による被害は賢者が取り締まる、というのがこの国のルール。
周辺を三〇人近くで警備するというのはいささか厳重が過ぎる。それは――昨夜、塔が出現直後に起きた事件に起因する。
地震を切っ掛けに現れた塔にいち早く気づいた国民が大扉の向こうに行ったそうだ。
そのまま誰も帰って来なかったらしい。そして、行方不明者の捜索に向かった騎士も帰って来ることがなかった。
予想よりも大きな被害に〈帝国国家〉も〈円卓賢者〉も対応を決め兼ねているのが現在の状況だった。下手な戦力を送っても被害者が増えるだけだからだ。
――そんなざわめく市街から少し離れた貴族街、その一角にあるネーネリア邸の居間には二人の客が来訪していた。
青色の長髪を携えた双子の少女である。
二人が並んで座る姿は鏡面表裏としか言いようがない。
役職は女帝の側付きであり、女帝の纏う黒軍服に似たデザインの衣服を纏い、厳格とした礼節でもって館に足を踏み入れた。
迎えるのはこの邸宅ではお馴染み、主であるネーネリア、小間使いエリ、居候フィニスの三人である。エリはお茶の準備をして四人に振る舞った。
「お気遣い感謝します」
「それでは頂きますね」
青髪の少女達はティーカップに口を付ける。
一呼吸置いてから、口火を切った。
「実に美味です」
「これはあなたが淹れたものですか?」
「はい、そうです」と、エリは軽く会釈して答える。
「素晴らしい腕です」
「脱帽しますね」
ネーネリアも紅茶の風味を楽しんで舌鼓を打つ中、フィニスはやはり理解できていなかった。田舎暮らしだった彼女に紅茶というものは縁がなく、最近はこういう機会も増えて来たが一度鈍感になった舌を矯正するほどではない。
――苦くない葉っぱ味。
素直に感想を言わない方が良いことだけは何となく理解していた。
一段落ついたところで本題に戻る。
「それで、あなた達は?」
ネーネリアが子供らしからぬ試すような目を巡らす。
答えたのは正面右側に座る方だった。見た目も顔も同じなのに、ユウラとシエスのように色で見分けがつかないのでこういう呼び方しかできない。
「〈天帝国ゼイレリア〉が女帝、ゴッドナイト様の側付き――アリエンテ・オルニトスです」
「同じく、側付き――アリエール・オルニトスです」
「側付きがねぇ……一体何をやらかしたのかしら?」
ネーネリアはジト目でフィニスを見上げた。
「いやいや! 今回は変なことしてないから、刺客が送り込まれるはずはないよ!?」
「確かにこんな懇切丁寧な刺客見たことないけど……」
すっかり疑り深くなってきたネーネリアにアリエンテとアリエールは首を振る。
「ご安心ください」
「今回、私達がここに来たのフィニスエアル様、あなたの護衛としてです」
「へ?」
フィニスは美しい顔のまま目を丸くして見せた。
まさか、自分が護衛されるなんて――何かの冗談にしか思えない。フィニスの実力を知らぬ者ならまだしも、ゴッドナイトの側近がそのことを知らされていないのはおかしい話だ。というか、女帝との戦いの現場にいたので言うまでもないだろう。
「護衛は……いらないと思うけど?」
「あなたの実力のほどは理解しています。なので女帝陛下との窓口として利用して頂ければ結構です」
「窓口、ってことは言いたいことがあったら伝えてくれる、ってこと?」
「そのような認識で間違いありません」
ネーネリアはフィニスを監視するため、と迷わず断定できたが、かの黄金の姫は額面通りにしか受け取らない。大方、美少女とお近づきになれて嬉しい、としか思っていないだろう。もし、本来の目的に気づいていても彼女らに接する態度は変わらなそうだが。
お目付け役の一人や二人はいた方が良い、と考えていたのでネーネリアは沈黙を貫いた。そして、心の中でご愁傷様と呟く。
「そういうことなら全然良いよ。じゃあ、よろしくね――アリエンテ、アリエール」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「では、本日から外出の際は護衛させてもらいます」
双子の側近は揃って一礼した。
フィニスは颯爽と立ち上がると、入口を親指で指し示す。
「早速、お出掛けしたいと思ってるんだけど?」
「ご一緒します」
「どこへ行かれるのでしょうか?」
問われると、金髪を揺らし、窓辺に寄って空を見上げた。そこに聳え立つ紫色の鋭い塔に興味の双眸を向ける。
「一回くらい見ておきたいと思ってさ、いつなくなるかわからないし」
ここで何故か護衛達に流し目を送った。
いきなりそんなことをされれば、怪しまれても仕方ないだろう。アリエンテとアリエールはアイコンタクトを取った。〈何をされたんだ?〉そんな疑問を共有していた。
貴族街を脱し、〈立法都市〉へ向かうフィニス達一行を待っていたのは人混みだった。帝国でも類を見ない事態ということもあり、まるでランドマークかのように紫の塔に人波が向かっている。
綺麗な角錐という見栄えにしても悪くない巨大建築物に魅了される者は少なくなかった。
今のところ、帝国の敵になるとは誰も思っていないようだ。
人の隙間を縫って、三人は塔の手前までやって来る。塔の周りではローブを纏った男達が周囲を警戒していた。
「何このエネルギー……」
塔から漏れ出る奇妙なエネルギーをフィニスは知覚する。
「これ造ったの、只物じゃないね」
「自然に生まれるものではないとは思っていましたが、こんなことができる魔術師が?」
「いるでしょ」
アリエールの困惑に肯定で返しながら、フィニスは背伸びして入口の扉を眺める。彼女は上背があるので人混みの中でも頭一つ抜けた。
「こんなもの作って何しようとしてるのかな……」
「――それを今から調べに行くんですよ、我々は」
一目も憚らずに思ったことを口にするのはいつのことだが、背後から返答があれば流石のフィニスも驚いた。
「うわっ――久し振りに見た三人組だ。こんなとこで会うなんて思わなかった」
振り向いた先には黒い法衣のようなローブを纏った壮年が立っていた。その後ろには更に同じ格好をした老人と青年がいる。
元聖女教神官――ファントス・ディオハミルとその部下、トーエン・ディーエゴ、ステンマルク・ベルテンだ。
ユニスを亡き者にしようとしていたので以前、撃破したのだが身柄に関しては放置していた。無事に和解できた以上は積極的に関わる理由もなかったからだが、まさか街中でばったり会うとは思ってもみなかった。
呑気さの滲み出る笑みにファントスは苦笑いを浮かべる。
「こちらの台詞ですよ。それに偶然ではありません」
「調べるとか言ってたよね」
「えぇ、我々は現在〈円卓賢者〉に所属しています。この紫の塔〈迷宮塔アルアム〉の内部調査を任されました」
「おー、凄そう。そっか……聖女教に行くと思ってたんだけど」
聞きにくいことを堂々と訊く少女に、男は少し目線を泳がせた。ファントスは彼なりに思うことがある。ユニスの言葉とリリルという少女の言葉が脳裏に過った。
「今の聖女教、今の聖女に期待することにしたんです。今更私の力も必要ないでしょうしね……彼女を守りたいと思う人もいる、彼女なら大丈夫だ」
「そうだね」
いつも聖女ユニスの車椅子を押している眉が吊り上がったあの少女。ユニスのことになれば自分の身も顧みない覚悟がある。あの娘がいることでユニスも安心できているはずだ。
ユニスの魔法的強度を見ても、今更新しい護衛も必要ない。
「特に行く場所もなかったので、ネーネリアさんに誘われるまま〈円卓賢者〉に入った訳です」
「へぇ、ネーネリアが。また何か企んでるのかな」
「……意外ですね、あなたは彼女のことを純粋に信用していると思っていましたが」
「信用はしてるよ。でも、私の魔眼が効かない人だから何かあると思ってるだけ」
ネーネリアのことを疑っている訳ではない。ただ、直感的に何かを隠して、何かを為そうとしていることを窺えただけ。そして、気楽さが相まってかそういう風にネーネリアを見ていることを本人には気づかれていない。
「詳しいことはわかりませんが〈円卓賢者〉の頂点――〈七つの大罪〉をも動かす権力を有しています。くれぐれもお気を付けて」
「なるほど、わかった。気を付けておくよ」
ファントスは忠告を軽く受け止められたことは気にせずに〈迷宮塔アルアム〉に向かった。
「では、御機嫌よう」
「うん」
彼らは周辺警備をしていた者に一言告げて大扉の前に立った。力を込め、扉を押し開く。先は真っ暗で見通せないが、反響から奥行を感じられる。
躊躇なく足を踏み入れた姿を最後に扉は閉まった。後ろ姿を見送ってフィニスはこの場を後にした。
自由気ままに歩くフィニスを追うアリエンテとアリエール。
「次はどこへ向かうんですか?」
「公衆浴場かな」
「?」
塔はまだしも浴場に赴く理由はなかなかない。ネーネリア邸には当然、風呂場もある。それも泳げるほどの広さの湯船である。
上司であるゴッドナイトからの命である以上、フィニスの監視には必ず意味がある。
もしかすれば、公衆浴場に行くことで何らかの情報を得ることができるかもしれない。
アリエンテとアリエールは目を合わせ、静かに頷く。
そして――三人揃って肩までお湯に浸かる。
公衆浴場には他に客はいないようで、実質貸し切りの状態だった。アリエンテとアリエールに挟まれるように、中央にフィニスは鎮座して心地よさそうに溶ける。
アリエンテは堪らず、頬を赤く上気させているフィニスに尋ねた。
「フィニスさん、どうしてここに?」
「二人と仲良くなろうと思って」
「……意味がわかりませんが」
「そうかなぁ」
とろけた返事をして湯船に沈んでいく。
「マナーがなってませんよ」と、アリエールが浮いた金髪を睨みながら指摘した。
「だって、気持ち良いんだもん。それにしても、久し振りにこういうところに来たなぁ」
そのままアリエンテの肩に頭を乗せる。
「何ですか?」
「ちょっと甘えたくなっただけ……みたいな」
「はぁ……?」
「人肌に飢えてるだけかも。いや――違うか。〈黄金血統〉を使い過ぎたからかも」
「浴場と血統に因果関係が?」
「――二人を誘惑しようとしてた」
「「え」」
期せずして双子の驚嘆は重なった。
同性に誘惑されるなど可能性でも考えないことだ。
平均的なスタイルの二人からすれば、年不相応な煽情的な身体に何も思わない訳ではないが、まさか誘われているとは。
「血統を使い過ぎると精神が変になるみたい。まぁ、今回は〈羨望神〉の方で良かったよ。そうじゃなかったら爆発だったよ」
「爆発? 不穏ですね」
「街中で暴れるつもりですか」
「もっと大変なことになってたと思うよ」
最悪がどんなものかはフィニス本人もよくわかっていないが、今まで巻き込まれた事件に匹敵し得る大事になることは目に見えている。そうなった場合、本当にゴッドナイトと殺し合うかもしれない。
「……思ったよりも残された時間は少ないか」
独り言のように呟き、前髪を掻き揚げるフィニス。右手の甲で躍る龍を見詰めた。
もしも、帝国で〈起源神〉の手掛かりを得ることができなかったら――それ以上に、寿命を延ばす手立てがないことが確定しまったら。探し求めていた答えの目前にして、不安が募る。
生き抜く覚悟はできても、死に絶える覚悟はできない。
でも、どこかで諦めている自分もいる。
足音は近づき、振り向かなくとも背中に張り付いていることがよくわかった。
――魅了を使ってまで一人になりたくなかったんだ。
偽らざる本音は孤独への恐怖だった。彼女はもう既に沢山のものを失った、だから――。
「――二人には私のことを覚えてて欲しかったの」
「忘れられるような人間ではないと思いますよ」
「良くも悪くも……いえ、悪くも目立つ人ですからね」
「それなら悪いことをした甲斐もあった、って誰が悪い子供だってぇ?」
唐突なノリ突っ込みをしつつ、雰囲気が重くならないように笑った。
――できるだけ沢山の人に記憶してもらいたい。そうすれば、死が怖くなくなるかもしれないから。そうすれば、幸せだった、と自信を持って言えるから。
明確な言葉にして初めて実感した。
人として当たり前のことだ。フィニスはただ幸せになりたいだけ、何気ない日々に幸福を感じる穏やかな世界を夢見てる。
きっと、どうせ、助からないから――。
「アリエンテとアリエールは可愛いから好き。幸せだよ、こうして一緒にお風呂に入ることも」
「随分安い幸せですね」
「安いも高いもないよ。誰かと一緒にいたいだけだから」
寂しいけど、悲しいけど、幸せだからフィニスは変わることなく生き続ける。これがフィニスの血を流してまで欲しいもの。
「まさか、ゴッドナイト様にもこのような態度で接したんですか?」
「そうだけど?」
「命知らずですね」
アリエンテに呆れられた。
でも、少しでも笑ってくれたのでフィニスは馬鹿にされても構わなかった。終わりの日までずっと笑っていたかったから。