4.サファイアの選択
◎5
〈試練鏡〉――。
かの〈魔女〉が作ったとされる現存する貴重な魔道具の一つであり、現在は帝都魔導学園に保管されている。
その魔法的権能は、鏡に映った者が思った宿敵・倒すべき強敵を魔法的エネルギー量を無視して召喚するというもの。
文字通り、試練染みた能力を持った不思議な魔道具。学園では専ら生徒達の訓練に用いられていた。ほぼ確実に自分の想像の延長線上にいる者が現れるので修行には持ってこいだった。
〈試練鏡〉が管理されているか確かめるのも聖女の学園視察の目的の一つである。
訓練場から移動したユニス一行は校舎の一階の奥に鎖で厳重に締め切られた門扉に案内された。〈遺産保管室〉と銘打たれたその部屋には物理だけでなく、結界魔法で守られている。
副校長は胸ポケットから取り出した灰色の鍵で鎖を解いた。
「こちらです。少し寒いかもしれないのでご留意ください」
開かれた扉から冷気が吹き込んできた。
中は幽玄な煙でも吹き込んできそうな怪しい雰囲気が漂う。壁の左右の棚には骨董品らしい魔道具の数々が並べられていた。中には魔道具としての役目を終えた物まで存在する、まさに遺産という訳だ。
そして、目の前にある白い布が掛けられた縦に長い台の前に立つ。
これこそが〈試練鏡〉だ。
「ご確認ください」
「はい――」とユニスは布越しに鏡台に触れた。他に類を見ない魔法的エネルギーの流れを間接的に感じ取った。「本物ですね。特に破損もないようですし」
「何で直接確認しないの?」
フィニスが静寂を裂いて平然と訊く。
「この鏡は映った人物が知る最も強い人物を無条件で召喚してしまうので、私やフィニスさんが映ると大変なことになってしまいます」
「あー、あんな敵やこんな敵かぁ……ヤバいね」
軽そうな〈ヤバい〉だが、もし鏡に映った場合を考えると恐ろしい。国を滅ぼす神か、それとも人類殺戮を至上目的とした化物か、はたまた古の魔術師が現れて全てを無に帰そうとする。
大いなる危険性を孕むため〈試練鏡〉は学園に通う子供にしか使用は認められていない。
視察を終えたユニス一行は最後に学園長室にやって来た。
校長と副校長の座る高級な長椅子の対面にユニス達も座る。間のテーブルに出されたお茶を口につけたのはフィニスだけだった。
ユニスは丁寧に頭を下げる。
「本日は視察の案内ありがとうございます。おかげ様で予定よりも早く終えることができました」
「いえ、そう言って頂けたなら幸いです」
校長も副校長もぞっと胸を撫で下ろしていた。聖女に粗相などしたらその立場も危うい。無事に視察が終わって安堵の息を吐く。
形式上の挨拶なのでこれ以上長居する必要性がないので、そのまま学園を出るのだがその前にフィニスがサファイアの肩を叩いた。
「どうする?」
「――どうする、って……何がよ」
フィニスの言いたいことはわかっていた。それでなお、サファイアは知らない振りをする。
大きな決断の前に身が竦んだ。
聖女ユニスの関係者ともなれば、頷くだけで入学が確定する。
〈命名士〉に言われたことを最早疑ってはいない。
それでも、最後の踏ん切りはつかなかった。期待よりも不安が優っている。
「サファイアが楽しめると思った方を選べば良いと思うよ」
「楽しめる? ……そんなのわからないわよ」
思い返してみても、何かに対して楽しい、なんていう積極的な感情を抱いた記憶はなかった。
だからこそ、フィニスのことを羨ましいと思ったこともある。あんな風に好きに生きることができたら、と眩しく見える。
きっと、フィニスなら迷わず頷くのだろう。
沈痛そうな面持ちのサファイアに何と声を掛けるべきかフィニスを思案していた。とりあえずは勧めてみたものの学園がどんなものか彼女はそんなに知らない。以前学院に通っていたのも数か月程度に過ぎない。それに、その後のトラブルで全てがおじゃんになっていた。
ただ、二度も学校に通ってわかったこともある。
「学校って退屈だったなぁ」
校長・副校長の前でも一切の忖度はない。
思い返される記憶は黒板に描かれたよくわからない魔法陣だった。隣には不思議なことに常に王女様がいる。
「でも、楽しかったよ」
純真から来る感想に、サファイアは息を吐く。
「私とあなたは違うのよ。そんな風に振る舞えたら楽しいだろうけど、私には……」
「――ローズは学校で運命の出会いをしたけどね」
「!」
今は亡き姉の名前には反応せざる負えなかった。〈セレンメルク〉の第一王女、ローズ・ラフォント。
「まだ覚えてるよ。色々なことが起こってさ……エリとも学校で仲良くなったし」
始まりは〈インぺリア〉の王女の護衛からだった。迫り来る刺客と戦った記憶ばかりだが、眼鏡を掛けた少女やお姉様と呼んでくれた年上の生徒のことも覚えている。
クロム・パルスエノンという親戚と共に王女と仲を深めた。結局、悲しい別れ方をしたが楽しかったことだけは間違いない。
「姉妹なのかなローズもずっと独りだったしね」
「そうなの?」
サファイアは姉はおしとやかで、社交的な印象を持っていた。王女としての品格を有したローズはきっと人気者だろう、と漠然と思っていたのでフィニスからの発言に目を見開く。
「草原で魔法ぶっ放してたよ。あ、でもそうでもないか。一人だったのは最初だけだったし」
「それが運命の出会い、ね……」
要は恋をした訳だが。
姉が恋したことには驚いたが、自分も同じように誰かを想う日が来るのは想像できない。
フィニスではないが、異性には眼中にない。同性にもないが。
――だからこそか。
予想もしてないから、ローズは変わった。変わってしまった。
本当に幸せそうだったし、微力ながら応援していた。
ローズを失ったのはサファイアだけではない。彼には一体どれほどの傷が残っているのか。
「学園に行っても私は何も変われない、と思う」
「変わりたいの?」
「あの時のお姉様は本当に幸せそうだった。どんな気分か知りたいと思うのは変じゃないでしょ。でも、私はお姉様のように誰かを思いやることはできない」
姉と立場が逆だったとしても、上手くやれなかった。社交性もなければ、愛想もない。世の中はフィニスのような変人ばかりじゃない。
運命の相手に出会ったとしても、きっと遠ざけてしまう。
「――別に気にしなくても良いと思うけどね」
いっそ適当にフィニスは呟く。
「ローズも全員に愛想振り撒いてた訳じゃないし。それに運命、って奴は勝手に近づいてくるものだから。逃げようとしても逃げられないし。だからまぁ……一旦頑張ってみれば?」
「……適当ね」
「サファイアは良い娘だから、きっと後悔しないよ」
フィニスが浮かべた薄い笑みはいつのような妖艶さは感じられず、慈愛の女神を思わせる暖かな気持ちが籠っていた。彼女も懐かしい記憶を思い出していたからだろう。
――嗚呼、結局はフィニスに背中を押して貰いたかっただのかもね。
サファイアはらしい強い瞳を浮かべて、聖女ユニスとフィニスに訊く。
「私の我儘聞いてくれる?」
「勿論」
「うん」
「――私、学園に通ってみたい」
サファイアの力強い宣言を聞いて、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
故郷を失い、因果から隔絶されて宙に浮いていた空色の髪の少女の途切れ途切れの物語が動き出す。
幼い少女の一歩を止めよう、というものはどこにもいなかった。




