1.亡国の姫の憂鬱
◎1
サリア・ラフォントとは――西大陸の沿岸部に位置する国〈臨岸公国セレンメルク〉の王族の血を引く少女である。
鮮やかな空色の髪を携えた美しき娘。
年齢は一〇歳と幼いが、国王の次女として幼い頃から一流中の一流の教育を受けて来たサリアの精神年齢は実年齢を遥かに超えている。
サリアには魔法の才能があった。その才能を見込まれ、王宮にて様々な魔術師の指南を受けたが、一週間掛からず追い越してしまい、追い出してしまうことも多々。
王女という立場と、非凡なる才能を幼い頃から理解したサリアが増長したとしても何らおかしなことはない。
しかし、すぐに見ているのが狭い世界だったことを知る。
新たに家庭教師としてやって来た黄金なる姫が鼻っ柱を折ったのもその一因だが、サリアに最も衝撃を与えたのは国家崩滅だった。〈セレンメルク〉が国家転覆を目的とした組織――〈訂正機関〉により滅ぼされたのだ。
王都は火の海となり、王族や貴族が軒並み殺害された凶悪な事件――。
サリアは幸運にも黄金なる姫に助けられ、王家の血を引く唯一の生き残りとなった。しかし、国を立て直すことは最早不可能だったため海を越えた先の中央大陸へと亡命した。
サリアは一〇歳で才能以外の全てを失った。家族も、地位も、富も、未来も、居場所も――当たり前のように持っているあらゆるものが燃え尽きた。
また、公国が滅びたことでサリア・ラフォントの価値も消えた。
故に、代わりに新しい名前が付けられることとなる。
人は彼女はサファイアと呼ぶ。
サファイア・トゥーン――と。
黄金なる姫により当座の道は示されたが、その先は全くの白紙。サファイアはこれから手探りで未来を勝ち取らなくてはならない。
まだ、その一歩目は刻めていないでいる。
◎2
「ん、ふぁ~……」
顔に射した陽光に当てられてサリアは目を覚ました。
天蓋付きのベッドから起き上がり、カーテン越しに空を見上げる。眩しさに目を細めながら朧気な意識を引き上げた。布団を押し退け、立ち上がる。
乱れた水色の髪を弄りながら、扉を開いた。すると、一人の女性が立っている。女性はたおやかに腰を折って挨拶した。
「おはようございます、サファイアさん」
「おはよう、エリ」
エリ、と呼ばれた落ち着いた色のワンピースを纏った少女。
整った目鼻立ち、ワンピースからでも透ける引き締まった身体。そこで立っているだけで、硝子細工のような非人間的美しさを放っていた。
ただ、腰に提げている剣がおしとやかなイメージをぶち壊している。
エリは淡々と少女に尋ねた。
「お着換えお手伝いししょうか?」
「ん、お願い」
半ば寝ぼけ気味にサファイアは答えた。
返答を承知していた、とばかりに《物体収納》の魔法陣から衣服を取り出してサファイアの部屋に入る。熟練のメイドの如く瞬く間にサファイアの寝間着を脱がし、雪のような白さのブラウスと空色のスカートを着せた。
その手際に一切の無駄はなかった。慣れている者の手付きだ。使用済みの寝間着を魔法陣に入れれば立派な令嬢の朝が完成する。
サファイアは思い出すように言った。
「エリ、って昔王女のお世話してたんだっけ?」
「姫様が小さな時はお世話もしていましたが、基本的には護衛の任でした」
「護衛ね……ま、エリ、って相当強いものね」
「私などまだまだですよ」
謙遜――普通ならそう聞こえるだろう。一般人から見ればエリは十分完璧超人なのだから。
しかし、サファイアにはそれが謙遜でも何でもない本心だと理解できた。本当に強い者を知った上で、共有していたからだ。
世の中には想像もつかないものが沢山ある。
サファイアがそんな当たり前のことを知ったのも最近のことだった。
「朝食の準備ができています」
「わかったわ」
サファイアが滞在している館は〈ゼイレリア〉の重鎮である〈賢者〉の関係者に与えられたもので規模感は貴族の邸宅と同等。二階建ての館には数多くの部屋があり、サファイアは二階の一室を使っている。
朝食を摂るためにエリと共に一階の居間へ移動した。
「あら。おはよう、サファイアちゃん」
開口一番挨拶してきたのは桃髪の幼女としか言えない一〇歳のサファイアよりも小さな娘だ。ただ、滲み出る貫禄はサファイア以上に子供にして過剰なものだった。
紅茶を片手に幼女――ネーネリアが問う。
「今日は遅かったわね。夜更かしでもしたのかしら?」
「別に……昔のこと思い出しただけ」
「昔なんて、あなたまだ若いじゃない」
何が楽しかったのか、ネーネリアは口元に手をあてて肩を揺らした。
テーブルにはメイドによって調理された料理が並んでいる。少し寝坊したため、すっかり冷めていた。
取り替えて――と言うのは簡単だ。
数か月前なら実際に口にしていたと思う。だけどもう、サファイアは誰かに指図できるような立場にない。
「…………」
「サファイアさん?」
無言で立ち尽くすサファイアに声を掛けて来たエリを無視して、席に着いた。すっかり冷めてしまった料理に手をつける。美味しいと思う。だけど、温かかったらもっと美味しかったはずだ。
無言で食べ尽くすとサファイアは席を立つ。
まだ、王族だった頃の生活の癖が抜けていない。祖国が滅んだという事実に打ちひしがれていた。
「……何しようかな」
貴族としての勉強もする必要がない。王城から出ることができない監禁生活ともおさらばしている。
サファイアは自由になった。自由になったからこそ何をすれば良いのからわからない。
やりたいことなんてないのだから。言われたことをずっとしてきた。それが王女としての自分に課せられた唯一だと思っていたから。
手持無沙汰に、今日も今日とて暇潰しとして街へ繰り出す。
王城で暮らしていたので街がどんなものか巡るのは退屈凌ぎに丁度良かった。同年代の子供達と遊ぶのも案外楽しいもので、孤児院に行って遊戯に興じることもある。
それでも心の奥底の虚しい気分が霧散することはなかった。
「そう言えば、あの人は?」
「いつの間にいなくなってたわね、また聖女様のところに行ったんじゃないの」
ペラペラ、と頁を捲りながらネーネリアが適当に答える。彼女が手にする豪華な装丁をした古ぼけた書物はサファイアにはわからない文字で書かれていた。
会う度に構ってくる厄介者がいないこと安心しつつ、どこか寂しいものがある。
いつにも増してやる気が出ないこんな日は、思うがままに歩き回ることにしていた。公園にも、孤児院にも行かず目的ない遊歩に出掛ける。
「サファイアさん、私は業務があるので護衛することはできません」
エリが申し訳なさそうに頭を下げる。
サファイアからすればお門違いも甚だしい謝罪だ。
「別にあなたは私の護衛でも何でもないでしょ。それにどうせあの石像が来るんだから関係ないわよ」
「……それなら良いのですが」
エリが懸念しているのはサファイアが誘拐に遭ったり、事故に巻き込まれないかではない。傲岸不遜な態度で起こる人間関係のトラブルだ。
変に魔法の才能があるため、大の男相手でも敵愾心を剥き出しに立ち向かっていくこともあった。勿論、返り討ちにできるのだが無用なトラブルは避けるに越したことはない。
そんなお節介をしてしまうエリもエリで王女の護衛だった頃の癖が抜けていなかった。現在は、この館の主であるネーネリアの秘書のようなことをして日銭を稼いでいる。エリもまた、護衛として王宮で高水準の教育を受けて来たので職にも困ることはなかった。
サファイアは最低限のコインを携えて館を出た。
入口のすぐの真横にサファイアの言う石像は立っていた――否、石像のように微動だにしない老年の男だ。色素の抜けた白髪をオールバックした老いた男――ガイザー・ラザフォルドは儚げに聳え立つ。意識しなければ情報としても受け取れない……それほど卓越した隠密技能を有していた。
ネーネリアに中にいても良い、と言われたにも関わらず、彼は雨の日も茹だるような暑い日もそこに立ち尽くす変わった人物である。
サファイアはガイザーが生きているのか、死んでいるのかわからなくなることがあった。
出掛ける際は常にガイザーが護衛として着いて来るのだが、一度も気づけたことがない。守られる側としては気楽だが、不気味さを感じざる負えなかった。
庭園の美しく咲き誇る花々の香りを感じながら、サファイアは館の門を潜る。
ネーネリアの邸宅は〈帝国都市〉の中央にある貴族街の一角に建っていた。道中には絢爛豪華な馬車や、礼服やドレスを纏った者が行き交う。何のことはない、元王族からすれば日常の風景だ。
貴族街から南下すると、平民が多く暮らす商業地域に出る。そこにいる人々は貴族に比べれば質素だが、数多くの民がおり、活気に溢れていた。
サファイアは騒がしく、めまぐるしい日々を生きる人々を眺める。
どうしてそんなに楽しそうなのか――。
どうしてそんなに笑っているのか――。
「私、いつから笑ってないんだろう……」
西大陸からここに逃げて来た時から表情筋は固まったままだ。頬を引っ張って無理矢理笑ってみるものの気分が晴れるはずもなく。
足が勝手に辿り着いたのは見覚えのある公園だった。沈んだ面持ちでサファイアはベンチに腰を下ろす。
目に付いた騒がしく公園を走り回っている子供から視線を逸らした。今更、こんな風に呑気に生きることはできない。何も考えずにいるなんて、できない。
「――ふむ、どうやら深刻な悩みがあるようだね」
ふと、話し掛けられたサファイアは顔を上げると丁度吟遊詩人が隣に座って来た。この付近でたまに現れるそれなりの歌い手である。
嫌に馴れ馴れしく話し掛けられ、サファイアの機嫌はちょっと悪くなる。
吟遊詩人はそんな幼女の機微など無視して話し始めた。
「若い身空でそんな顔をするものではないよ。これから先、良いことが沢山起きるから安心して良い」
「……そもそも誰よあんた」
エリが憂慮していた展開通り、明らかに年上に対しての生意気な台詞が飛び出した。幼女にあんた、と言われて気が悪くならない人間はそうはいない。たまにはいるが、この吟遊詩人がこの例外かと言われれば――例外だった。
「誰かって? 困ったことに私には名乗るような名前はないんだ。こういう時はいつもしがない吟遊詩人と言うんだが今回は変えようか」
「は?」
「〈命名士〉でも読んでくれ」
「命名士ぃ?」
見たことも聞いたこともない称号に肩眉が上がってしまう。
というか、まともな大人にも見えない。吟遊詩人というのはともかく、透かしたようなことばかり言うのでサファイアはさらに険しい表情を向けた。
「名物学、って知らないかい? まぁ、ここらではあまり知られない学問だから仕方ないか」
「…………」
「そうだね、これも一つの出会いだ、君に称号を与えよう」
「いらないけど」
「そうだね――〈亡国哀姫〉というのはどうかな?」
「!?」
吟遊詩人はサファイアを見て、亡き国の姫と言った。
まるでサリア・ラフォントのことを知っているかのように。幼かったことと、素行が悪かったことから王族の公務にも出なかったため外に顔を出すことさえなかった。
そして、先の戦争によって彼女を詳しく知っている者はまとめて滅び去ったはずなのに。どうして、この吟遊詩人は知っている?
「あんた何者?」
「ただの〈命名士〉さ。あらゆる概念に名を付ける旅人、それ以上でもそれ以下でもそれ以外でもない」
飄々と、同時に堂々と吟遊詩人は嘯いた。
決して嘘は吐いていない、それだけが心のストン、と落ちる不思議な瞬間を味わうことになる。本当に、彼は名前を求めて旅をしているだけなのだ。
〈命名士〉は仄かな笑みを浮かべ、サファイアに言う。
「〈亡国哀姫〉――今の君を表す称号はこれの他にない。だけど、称号を失うこともあれば別の称号を獲得することもある。だから、そう悲観して生きる必要はない」
「要領を得ないわ、そんなの……できるならしてるし」
「では、予言しよう」
演技染みた声を出し、人差し指を立てる吟遊詩人。神妙な面持ちだ。
「近い内、君は今後の人生を左右するであろう出会いをする。現状のような遠く、儚い相手じゃない。隣に立って生きていく代わりの利かない人達だ。これ以上の説明は〈命名士〉のポリシーに反するから止めて置くけど」
「……どうとでも言えるわね」
ここが魔法の世界だとしても、未来の予言はそうそうできることじゃない。神話時代ならまだしも、現代の魔法技術では開発不可能。唯一現存する予言書は帝国の王城に安置されている。
故に、信じるに値しない妄言。
しかし、そうとわかっていても縋ってしまうのが人間だ。
例え、サファイアが天才でも人間という事実から逃れることはできない。もしも、今を変えてくれる何かがあるのなら手を伸ばさずにはいられない。
「疑っているね。それなら――この先に行くと良い、きっと君を待っているよ」
「この先は……帝都魔導学園?」
「行ってみればわかる。今と違うものを求めるなら行けば良いさ」
そう言うと、〈命名士〉と名乗った吟遊詩人は席を立った。奇抜な恰好だと言うのに、そのまま背景に溶け込んで消えてしまう。まるで誰にも見えない透明人間のようだった。
帝都魔導学園――学校に通うなど考えもしていなかった。いや、一五歳になったタイミングで姉も通っていた学園に行くことにはなっていたが。
「今更魔法の学園に通っても……」
吟遊詩人の予言に従ったとて、何かが手に入るとは思えない。サファイアはもう、何かに期待するつもりはなかった。
――失うくらいなら、もう何も欲しくない。
――地獄を見るくらいなら、一生立ち止まったままで良い。
それでも眩しさに目を細めるのは何故か、サファイアは自分自身でも理解できていなかった。