8.誘拐事件
◎
――事件が発生したのは昨日のことだった。
日付を回った深夜頃、〈天帝国立美術館〉に二人組の男が侵入した。
〈天帝国立美術館〉は歴史的、文化的、魔法的価値のある物品を保存・展示している。数百年前の彫刻、著名な者が描いた絵画、製作者不明の奇妙な魔道具といった価値あるものを防衛する機能も兼ね備えている。どこぞの花火を作ったテンセーという者の作品も多数飾られている。
美術品を飾る仕切りには結界魔法とセンサーの魔法が仕掛けられており、触れようとしただけで警備員だけでなく騎士まで駆けつける。
さらに、〈天帝国立美術館〉の外周にも特注の結界があり、収蔵された所産が透過できないようになっている。
二重の結界と、騎士の防衛――〈天帝国立美術館〉は長きに渡り、絶対の盾に守られてきた。
だが、それでも盗みを企もうとする者がいるのは、捕まって罰を受けるだけの価値があるからだ。特に、魔法黎明期に作られた魔道具は無慈悲なほど強力なものがある。その分、結界も厳重に張られているため誰も盗み取ることができないのだが。
――抜け道があることを知っていたのはほんの数人だった。
〈天帝国立美術館〉が旧王城の宝物庫の名残だということを知るのは少ない。だからこそ防衛機構を流用できたのだが、継承したのはそれでけではなかった。
建物自体も、壁面も天井も全てが一新されている中、地面だけはそのままだった。いつかの王族が作った逃亡用の抜け道が怪盗に使われることとなる。
結界が破られ、警備員が訪れた頃には全てが終わっていた。外周の結界もものともせずに悠々と盗み出されたのだった。
監視魔道具の《映像通信》からわかったのは二人の男が犯人ということだけである。
◎
今日は朝から騒がしかった。
神官達が忙しなく神殿を駆けまわっている。聖女祭の頃でさえこんなに焦っていなかった。只事じゃない何かが起きていることは容易に察せた。
間もなく、スティアがやって来た広間への移動中に話してくれた。
「今日の深夜、〈天帝国立美術館〉から魔道具が盗まれたんだって」
「魔道具?」
「名前は〈解錠の宝鍵〉……どんな鍵も開けることができるらしいわ」
「魔法的に開ける、ってことよね」
「そうね、多分鍵という概念に作用するタイプだと思う」
なるほど、この慌てようも納得だ。
鍵のない建物などどこにもない。
一般的な家庭も、貴族の館も――当然、王城や聖女殿でさえも。
その怪盗がここに来る可能性も捨てきれない、故にこうして警備を固めているのだ。
「今日は聖女のお仕事はなしよ。聖女殿は封鎖。王城も同じように一時的に封鎖するみたい」
「私にできることはある?」
「ゆっくり休むことかな。昨日、変な人もいたし」
「フィニスさんね……」
彼女の言う通り、スティアは敵意を抱いている。第一印象が助長される、と言っていたが何を感じればこうなるのか。
昨日、話していたなどとは話せまい。だとしても侵入してきたという事実を黙認することはできないだろう。と、自然に庇っているあたり相当魅了されているのかもしれない。
――スティアが言っていた通り、聖女殿は全面的に封鎖された。
敷地を囲う警備は当然厚くなっており、何者の侵入を拒む結界魔法が張り巡らされている。〈解錠の宝鍵〉に対しては人間の警備と鍵という概念のない魔法の壁が有効であることは自明だった。
この分だと問題なさそうね。
私はベッドに寝転んだ。こんなゆっくりできる時間を過ごすのは久し振りだ。何だかんだ泉で発見された時以来かもしれない。
「…………」
目を瞑ると、昨日の夜、フィニスさんと話したことが過った。
彼女の話したハウシアの記憶は身体に染み込んでいくようだった。実感している。確かに、もう一人の私がいたと。
今なら、思い出すことができるかもしれない。閉じていた記憶を引き出せるかもしれない。
「――《思い出せ》」
思い出せ。過去の、ハウシアの記憶を。
何も起きなかった。幾ら待っても私は私のことしか知れない。
まだ、ダメなのね――。
「寝よ」
自分に嫌気がさした。
不貞寝でもして忘れよう。瞳を閉じる、今回は記憶に沈むことはなかった。
――景色は真っ暗だった。僅かに入ってくる月光が私の部屋を仄かに照らす。
重い瞼を開きながら、脳内時計を測る。自覚は夜の七時前といったところ、九時間以上眠っていたようだ。
昼も過ぎてるということは一度スティアが来たはずだが、気を遣ってくれたらしい。
カチッ――。
不意に金属の触れ合う音がした。
何か外したような、と思考したところで部屋にあるベランダを開く際に鳴る音だと気づく。心臓が跳ね、一瞬で眠気が吹き飛んだ。
警戒心が全身を駆け巡る。五感が冴え渡って状況を自分でも驚くくらいに観察している。月による影が映し出され、何者かが立っていることがわかった。
鍵は内側にある、開けるには魔法以外の方法はない。〈解錠の宝鍵〉の可能性が高い。
――《鉄の鎖に絡まれ》。
思考を確定した瞬間、どこからともなく現れた鉄の鎖が侵入者を捕らえる。
「《物理循環》」
が、しかし――鎖は強引に振り払われた。
若い女性の声。聞いたことのない魔法、相当な腕の魔法使いであることは間違いない。
そうしてる間に、加えて二人の男が部屋に入ってきた。
予想以上にまずい展開かもしれない。〈言霊〉を使えば負けることはないと思うが、手加減ができるかは未知数。最悪、聖女殿すら巻き込んでしまう。
女性が部屋に入ってくる。月光に照らされた顔が艶やかに見えた。こんな真夜中でもその煌めきの主張は強過ぎた。
底冷えするような艶やかな横顔に息を忘れてしまう――。
「――フィニスさん……?」
見間違うことはない、眩しいくらいの黄金の長髪が揺らめいていた。彼女が教会の結界を抜けられることは既に判明していたことでもある。
彼女の後ろに立つ二人の男の内、片方の手には銀細工の魔道具が握られていた。禍々しい形をしているが先端は鍵のようにも見える。これが〈解錠の宝鍵〉か?
だけどどうしてフィニスさんが、怪盗と一緒にいるのか。考え得る可能性はある、あるけど信じたくないという思いが強い。
「どうして、あなたが……ここに?」
声が震える。
フィニスさんの表情は動かない。儚げに視線を提げている。
「ごめんね」
「……!」
謝っているということはつまり――。
彼女と話したこと。全ての真偽が不明になる。
スティアの敵意。意味があったように思う。
〈解錠の宝鍵〉。この時のためかと錯覚する。
「悪いけど来て今すぐ来て欲しいんだ」
フィニスさんが一歩刻んでくる。
私は自分の足では動けない。逃げるにしろ戦うにしろ魔法を使わなくてはならない。それは敵意を見せるということだ。
止めなくては――いけないのに、迷ってしまう。
顔を上げた時には既に彼女は私の手を取っていた。造作もなく引き寄せられる。
「驚かせちゃったね。でも、ハウシアの力を借りたいの」
「――何か事情が?」
「話せば長くなるけど」
嘘は吐いていない。憚ることがないから、私は迷った。
「わかりました。行きましょう――」
私が決めた。連れていかれるのではない、自分の意思で行くのだ。
姫のように抱かれてベランダから飛び出た。