第7話 へその緒
つつがない日常は、一通の紙片によって失われた。
しかし、ヴォルとてその事の重大さを理解するには、あまりにも経験が足りなかった。
駒を動かし、戦事の真似なら幾千幾万とこなしてきたが、自らが駒へとなり替わることはいまだかつてない。
戦争、その未知の出来事は、冷静な彼でさえ刺激するには十分だった。
ヴォルは、悪血に手を汚しながら、その二文字について考えを巡らせていた。
一人の人間の命を預かる施術中、彼の心は自らの手の動きよりも、ここにはまだない戦場、あるいは自らの未来へと向く。
集中しなければと、自らを戒めはするものの、施術は彼にとってすでにやり慣れたものであり、魚の身を切り分けるぐらい容易なことであった。
そして、彼は万に一つの問題なく、今日二人目の患者の腫瘍を摘出しきった。
すべての跡片付けを終え、清潔な水で手を洗い流しながら、彼の心は再び明日からの事へと思考を沈ませる。
そのため、ふと視界の端に影が入り込むまで、そばに人が来たことを彼は気づかなかった。
「お疲れ様です。勤めは終わったようでなによりです」
「病室の方まで来るなんて珍しいですね。今日は孤児院の方へ行っていると思っていました」
「そうですね、その予定でしたが今日は休みをいただくことにしました」
ヴォルが顔を向けると、母はいつもと変わらず、毅然とした顔つきで立っていた。
貴族の矜持が服を着て立っているかのようなその姿は、湖面に姿を見せる白鷺のように優雅であり厳格だった。
「昨日、孤児に魚を持たせましたがきちんと届きましたか?」
「向こうの食事の席でいただきましたよ。それはそれは立派な物でした。あの子は、自分の手柄のように言っていましたが、やはり、あなたが釣ったのですね」
「はい、切り口を見れば十分にお分かりでしょう」
「もちろんですとも。良くも悪くも、熟練の物が捌いたのは疑いようがありません。ですが、いまだに暇人の娯楽に耽るのは感心しません」
母は、ヴォルが釣りや軍駒といった貴族的でない娯楽へ時間を割くことを嫌っていた。それは、彼女が礼節という貴族の古い血を色濃く受けついでいるためだった。貴族として家名に尽くすことが母の人生の指針であり規律。家が定めた夫へと嫁いだ高潔な妻であり、自らの子さえ他者と区別しない厳格な母親であった。
「いかにもおっしゃる通りです。けれど、あなたが繰り返し口にする『勤勉』をないがしろにしているわけではありません。弓がよく動作するように、張り切った弦を弛緩させているにすぎないのです」
「そんなことは十分にわかっています。ただ、家名を背負う貴族であるあなたが、自ら靴を脱いで川に足を入れる必要はありません。下男か、それともあの孤児の子に任せればよいでしょう。それに、未婚の男女で連れ添って人目のない城外へ赴くのは、どんな理由があっても感心できません。それが当世のならわしだとしてもです」
ヴォルはそれを聞き流しながら視線を下に落とし、汚れが落ち切ったか手指や爪のすき間を確認する。
「返事はどうしたのですか?」
「はい、十分に承知しています。しかし、一つお聞きしたいのですが、その忠告のためにあなたは仕事を休んでここへ来たのでしょうか?」
「もちろん、違います。……私は、あなたの激励にきました」
問いかけに対し答えた母は、そこで初めてためらうように、一瞬だけ口を閉ざした。
「今度の戦争のことですか。昨晩、お伝えした時にもお言葉はいただいたと思いますが」
「ええ、昨日も言ったとおり、私は戦場へ出るあなたを誇りに思っています。父も母も、あなたが戦場で国のために働き、名を上げることを期待しています」
「それはどうも、ありがとうございます」
「これは本当に、心の底から思っていることなのですよ。この度の戦争で、我が家の者は誰一人として国のために働いていません。こういっては何ですが、あなたの父は臆病ですし、叔父は知っての通りごくつぶしです。自らの命のために根回しをしていましたが、私は正直に言って、失望していました。このままでは、周囲の者だけでなく、先祖にも示しがつきません。……私の言っていることが、あなたにはわかりますよね?」
「十分に、理解できています」
ヴォルがそう答えると、母は安堵するように胸をなでおろした。
「そうでしょうとも、あなたは誰よりも賢く気高いフリードリヒ家の人間なのですから。敵兵と剣を交えることになったら率先して戦いなさい。そして、もしもの時は家の名に恥じない死に様を示すのですよ。みだりに命乞いをしたり、涙を流して感情を表にだしてはいけません。恥晒しの最期が、延々と語られ続けるのだけは避けなければなりません」
母は嘆願するような声音で、自らの想いを口早に語った。
ヴォルは殊勝な顔つきをしていたものの、内心では冷水を浴びたかのように嘲笑と呆れの笑みを浮かべていた。感極まりながら、自らの子へ尊厳のある死を求める母の身勝手さに、彼はあくびを必死にかみ殺す思いであった。
なぜなら、感情という荒波がいかにその当人の心を揺り動かしていたとしても、理性を重んじる人間にとって狂人の発言と相違なかった。
「それともう一つだけ、あなたに仕えておかなくてはならない事があります」
母は目じりの涙を拭いながら言った。
「なんでしょうか?」
「あなたの結婚のことですが、私はもう、口出しすることをしないと決めました。あのお嬢さんと結ばれることを許します」
その言葉に、ヴォルは初めて正面から母の姿を見た。
「どういう心境の変化でしょうか?」
「そうですね……。正直に言えば、私はあなたの幼馴染のことを、まだ十分に認めているわけではありません。ですが、二人の前途ある若者が、互いに好いているならば、周囲が余計な口出しをするべきではないと考えなおしました」
顔だけでなく声に皺がよってきた母であったが、しかし、まるで叱られた幼子のようにしゅんとした声音で告げた。
「この戦争が終わったとしても、これから先、多くの問題が出てくるでしょう。ですが、思慮深く聡明なわが子が選び決めた道なのですから、母親としてそれを信じることにしました。たとえ、順風満帆な道でなくたとしても、あなたならきっと彼女と共に幸福をつかみとることができるでしょう。私は、今日ここに、それを伝えにきました」
ヴォルは母の顔を真正面から受け止めたまま、すっと目を細めた。
そして、立ち上がると背筋を伸ばし、自らの胸に手を当てた。
「ええ、もちろんですとも」
彼は短く、けれど確かな声で母の祝福に応えた。