第6話 父と子と
家に帰ると、父のいる書斎の中から叔父の声が聞こえてきた。
父親と叔父は、真剣な声音で何かを語り合っていた。それは下手すれば言い争いに発展しかねないほど熱を帯びているように感じられた。
ヴォルがノックして書斎の扉を開くと、二人は無言で彼の姿をみとめる。
「戻りました。叔父さんも来ていたのですね」
「よお、おかえり。少し邪魔させてもらっているよ」
「ずいぶんと熱心に話されていたみたいで。扉の外まで声が漏れていましたが、なにか重要なことですか?」
叔父は父の顔を見てからふと目を逸らす。
しばらくの沈黙の後、父は咳払いをしてから口を開いた。
「私がいま持っている診療所についての相談だ。お前が結婚したのちに、事業の拡大をすべきだと叔父さんが言っている。つまり、新しい夫婦のために、診療所を一つ用意するのはどうか話していた」
父のその言葉が予想外のことで、ヴォルはにわかに驚いた。
「それはまた唐突な話ですね」
「私もそう思っている。この診療所だけで今は問題ない。それに、いまの時勢で無暗に新しいことを始めて、うまくいくかどうか……」
「いやいや、今だからこそチャンスなんだろうよ。かわいい甥のためだ、しっかりと儲けられるような仕事場を作って、全部うまくいくようにしてやるさ」
「とはいえ、そんな手間をかける暇が私たちにあるものか」
「問題ない、この件は俺が責任をもって進めてやるし、向こうの家ともしっかりと話をつける。悪いようにはしないさ、なっ?」
叔父はまくしたてながらそう言うと、ヴォルに賛同を求めた。
けれど、ヴォルが意見をしようと口を開く前に、父が低い声で遮った。
「だが、少なくとも焦って今日決めるようなこともない。そもそも、私は今回の婚約ですらまだ早いのではと思ったほどなのだから」
「俺だって成人してすぐに所帯を持たされるのは酷だとは思っているが、いまは戦時中なんだ。人生の幸福を味わわずに戦場へ送り出す気なのか?」
「わかった、わかった。両者が同意して決めたのだから、父親の私が異議を唱えるのは筋違いだ。だが、自分の人生をじっくりと考えて決めてほしいと思うのもわかってくれ」
「戦争でなければ、それも悪くはないけどよ」
叔父はどこか釈然としない面持ちのまま口を開きかけたが、今日はこれ以上言っても仕方ないと考えたのか口を閉ざした。彼は立ち上がり「また話にくる」と言って父親に別れを告げた。
扉の前ですれ違うとき、叔父はヴォルの肩に手を置いた。
「結婚おめでとう。君の人生が善きものになるよう祈っている……」
叔父はそう芝居がかったことを言って去っていった。
彼の姿が扉の影に見えなくなると、父親は長椅子に背中を預け深いため息をついた。ヴォルの目に、父は酷く疲れているように見えた。叔父との診療所の件は、疲労を伴うほどの話だったのかもしれない。
ヴォルは父に仕事の話を尋ねようと思っていたが、気をつかって部屋を後にしようとした。
「ところで今日、お前の婚約者たちに会うことはできたか?」
「ええ、釣り場に彼らがやってきましたよ。伝えてくれたのですね」
「昼頃に彼らが訪ねてきたので、釣りに行っていると答えたのだ。場所はわからなかったが、合流できたならいい……。何か釣れたのか?」
「まあ、一匹だけです。母の孤児院の子へ渡しましたが、今日はそれっきりでしたね」
「そうか、私も釣りはずっと前にしたきりだが、そんな日もあるだろう」
父は昔を思い返すかのように黙ると、重いため息をついた。
ヴォルは、感傷的な父親の姿が珍しく感じた。普段ならばここまで無用な雑談をする性格ではない。むしろどちらも自分の考えに浸ることを好むタイプであった。
しばらくして父は椅子に座りなおすと、背筋を正してヴォルの方へ身体を向けた。
「明日、患者の手術をとり行う事になった。二名ほど予定を組んだが、頼めるか?」
父は仕事の話を始めるとすっと目を細め、ヴォルが知るいつもの父の姿を見せた。
「わかりました」
「先週話したとおり、一人は前々から伝えていた貴族の令嬢だ。もう一人は飛び入りの患者だが、どちらも同じ腫瘍だ。いつもどおり治療を任せる」
「なら、すでに二階の個室へお越しになっているというわけですね。投薬はすでに終わっていますか?」
「問題ない。術前の準備もすでに整えておいた。あとはお前が施術するだけだ」
父の言葉に、ヴォルは不意に昼間裁いたウグイのことが頭をよぎった。
彼は自らのこめかみに指をあて、軽くたたきながら明日の工程を思い描くと、すぐに首を縦に振って了承した。
それに対し父は無言で返した。
会話が途切れ、話すべきことがもうないと感じたヴォルは、父へ背を向ける。そのとき「あっ」と、今まで聞いたことのない父の声が部屋へ響いた。
無意識のままに振り返ったヴォルは、次の瞬間、驚きに目を見開いた。
彼の父は自らの顔を手で隠し、突然、ひどく苦しそうな呼吸をしながら口元を震わせて涙を流した。その姿はまるで痛苦にさいなまれた病人のようであり、なんらかの発作を起こして感情が溢れ出たかに思えた。ヴォルは、そう言った患者の豹変をよく知っていた。
彼は、このとき初めて弱りはてうなだれた父の姿を見た。
そして直感的に、父の身に降りかかった災難の原因が、自分であると理解した。
この日、ヴォルのもとへ徴集命令が通達された。