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第2話 池のほとり

 数か月前。


 刹那の夢から醒めたときのように、ヴォルは間髪いれずに駒を動かした。


「……あっ、そんなぁー」


 数拍の後、澄んだ秋空に少年の甲高い声がこだまする。


「ま、負けましたー。先生っ、なんで俺の考えが読めたんだよ。ぜったいに気づかれてないと思っていたのに」

「読んでいたわけじゃない。ただ、その手にはすでに解答があっただけだ」

「それってズルじゃん……って、これは言わない約束だったっけ?」

「私は一度した注意は二度しない。何度も答えてしまうと、考える力が身につかないからね」

「はーい、わかってますよ」


 駒盤を挟んで座っている少年は、ぐしゃりと自分の負けた盤面を崩すと、最初の形に駒を並べ直した。

 道具は丁寧に扱うべきだ、とヴォルは内心で思いながらも、片手にもった釣り竿を器用に扱っていた。

 それはのどかな秋の何気ない一日。

 ちょっとした休日に、ヴォルはよく一人で釣りをした。お手製の竿を持ち、家で飼っている老馬に乗って、街の外の湖まで出かける。糸を垂らしながら、将駒と薬学関係の本を片手に、古典的な漁に耽っていた。

 成人したとはいえ、まだ十と半ばの頃の青年からすれば、それはいささか落ち着きすぎた趣味ではあった。けれど、同年代の青年たちと街へ繰り出すことや、有名貴族の社交パーティに参加することに苦心する気分には、必要だとわかっていても、優先する気になれなかった。


「先生、ほらもう一戦おねがいしますよ」

「それは構わないが、さっきの試合の感想戦はいいのか?」

「いいじゃないですか。ぼくはもっと強くなりたいんです。強くなるために、忙しい先生の跡をつけていたんですから」

「そこまでしなくても、孤児院を手伝っている母に頼めば私の耳に届いただろうさ」

「届くだけじゃ、いつ返事してもらえるかわからないじゃないです。目の前に幸運があったらすぐに飛びつかなくちゃ、女神さまは逃げてしまうっていうじゃないですか」

「それが用意された好機でなければいいさ。さっきの試合のように、ね」

「あー、やっぱり先生の罠だったんですね。道理で手がよく浮かぶわけです」


 少年は大げさに見えるほど感心した声で言った。


「それだけじゃない。君は流れに乗って攻めるばかりで、前線の駒の逃げ道を自らふさいでしまった。本当の敵は自らの陣にいたのも敗因だ。だが、実際問題、身内の裏切りが一番怖いものだと私は思うのだけどね」

「うーん、そうだったんですね。あっ、けっきょく感想戦やる流れじゃないですか。ダメですよダメ。今日はあともう二回は対戦したいんですから」

「ずいぶんと性急じゃないか」

「だって、もうすぐきっとあの人たち……先生のご友人がくるじゃないですか。それに、先生も戦場へ行ってしまうかもしれないのでしょう?」


 少年の言葉に、ヴォルは湖面を見つめたまま何も返せなかった。

 帝国が聖王国へ宣戦布告をして半年が経っていた。前線では一進一退の攻防がいまも続けられている。ヴォルの暮らす聖王国は今、戦時下にあった。


「もしかして、もう呼ばれているの?」

「いいや。ただ、戦争の事は私にも分からない」

「でも、孤児院に住んでた人が戦場へ召集されたって院長が言ってたよ。先生の二つ上だって」


 駒を並べ終えた少年は、つまらなそうにそう言った。

 ヴォルは右手を竿から離すと、もっとも身分の低い駒を前へ動かした。


「革命により、新政権の発足した帝国は、他国へと力を示す必要がある。そのため、小国の聖王国と小競り合いを望んでいるというのが当初の通説だった。戦う余力があると周囲へみせるために。しかし、ここ数カ月で外交交渉が進んでいる兆しはない」

「帝国は本気で攻めてきているの?」

「どうだか、それは向こうに聞いてみないとわからない。けれど、状況は好転することなく泥沼だ。今回の戦争がどこまで長引くのかわからない」

「さっさと倒せばいいのに。聖王様はすごく頭がいいって聞いて期待してたんだけどなあ」


 少年は短絡的な言葉を吐きながら駒を動かした。


「案外、明日にでも終結するかもしれない。もっとも、何か考えがあって戦争をしているなら、本人に尋ねてみないといけないだろう。だが、私が戦場へ赴くことになるのも、そう遠くない未来に起こりうることではある。そのときは、孤児院は君が守らなくてはならないだろう」

「言われなくたって。先生のお母さんのことだって、俺に任せてくれよ」


 ヴォルは黙って首を縦に振った。

 彼は自分の話したことが楽観的なものだと理解していた。戦争は思ったよりも長期化し、食料品不足や生活水準の低下が国全体に広まっていた。聖王国は疲弊していた。そして、自分の元へ招集が掛かることは時間の問題だった。

 垂れた竿先が、たしかな重みをもってたわんだ。

 思考が盤面に沈みかけていた彼は現実に引き戻される。


「先生、ほら、速くひかなくちゃ」


 急き立てられつつも、ヴォルは落ち着いたまま竿を操る。

 やがて、浅瀬に淡黄色のからだを持つウグイが姿をみせた。鋭いかぎ状の針はしっかりと口の奥底にかかっているらしく、その魚体は長い格闘に弱り果てていた。

 釣り人は立ち上がり、水の中に片手をいれると、その幅広の魚体をしっかりと掴み上げた。


「美しい魚だ」


 どっぷりと肥えていながら、鱗は磨かれた銀食器のように輝いている。

 ヴォルは口奥から針を抜き取ると、自然が育て上げたその天然の宝石を満足した面持ちで眺めた。

 

 そして、充分に堪能したその時、遠くから馬の足音がヴォルたちのいる場所まで響いてきた。

 彼が目を向けると、見知った顔たちが遠目からも近づいているのがわかった。

 

 その中の一人、男の腰に手を回している女が、ヴォルに向かって片手で手を振っていた。

 それはヴォルの幼馴染たちであり、女は将来の妻であった。


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