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第17話 遠吠え

 報復という名の戦争は荒天時の吹雪と同じく、瞬く間に激しくなっていった。

 北方民族の戦い方は、まさに獲物を狙う狩人のように狡猾で容赦がない。

 姿を見せず、痕跡を残さず、襲い来る直前まで気配一つ見せない。兵士たちは昼夜を問わず降りかかる敵襲に戦々恐々とし、疲弊していった。


 ヴォルは負傷者の救護に尽力する一方で、取り巻く現状を把握するため戦場を駆け巡った。

 医療衛士を部隊ごとに同行するよう命令し、迅速な手当と状況の伝達が機能するよう新たに取り決め、さらにはすべての兵士の素性を把握しカルテを作り直した。

 そして、診断と銘打っては症状を偽り、負傷者を本国へ送り返した。


 しかし、ダンバースを含めた隊長陣の士気は高く、彼らは酒を片手に地図の色塗りに熱中していた。会議の場は非合理な意見が飛び交い、小さな戦果には過大な尾ひれがついていた。現場との乖離が強まるほどに盛り上がる会議は、夜更け前には宴へと変わっていく。

 彼らはどこまでいっても貴族であり、身分の低い者の処遇など少しも気にしない。制圧地の色相と未来の褒賞への願望は広がっていくばかりであった。

 もっとも、野心に火がついた彼らを止めることは、もはや彼ら自身にも不可能であった……。


 静寂の夜、ヴォルは自らの天幕で一人思考を巡らせる。


「あなたみたいな医者の夜はいつくるの。それとも、座ったまま凍っているのかしら?」


 蝋燭の火が揺れ、彼は顔を上げる。

 傍らには、シーツを羽織ったルプスが立って見下ろしていた。

 その少女の姿に、亡霊のようだと頭によぎった。けれど、彼女の顔の血色は出会った頃よりもずいぶんとよくなっている。


「なにか私に要求でもあるのか?」

「ないわよ、貴族のお医者さま。それとも陰気な病人様と呼ぶ方が、あなたのお国らしいかしら?」

「ずいぶんと遠回しだな。前置きなどせず率直に胸の内を語るがいい。ご機嫌とりが欲しいなら私には不向きだ」

「ふん、抱え込んでいるのはあなたの方じゃない。そんな小さな火なんか見つめて面白い?」

「思索に耽っていただけだ。静かな夜だからな」


 対処療法ではもうすでに限界を迎えている。これ以上人員を削れば兵の負担が増え、緊急時に立ち行かなくなる領域に踏み込む。しかし、医療衛士にも限界が来れば……。


「そうね、こんなに静かな夜は久しぶりよね。今夜は誰のうめき声も悲鳴も届いてこないもの。きっと、死んだように眠っているのでしょう。幸せな夢を見ることができるのは、生者だけの特権よ」


 ヴォルはハッと醒めたように目を見開く。顔を上げるとルプスの探るような瞳とぶつかった。

 普段からある彼に対する猜疑心と敵意は残っていた、だがそれは形ばかりの見せかけで、その陰には何かに対する恐れと不安が見え隠れしていた。


 彼は聞かなければならない事、言わなければならない事を思い出した。

 恐らくそれは、彼女にとって残酷な事実を宣告するに等しい。


「唐突だが、いくつか尋ねなければならないことがある。断っておくがこれは捕虜への尋問ではない。答えたくなければ沈黙で構わない。私にとって君は患者だからだ」

「変ね、急に改まったりして。あなたはどうしてそうも形式張った言い方になるのかしらね。つまらない気遣いなんて必要ないわよ」


 憎まれ口を叩くルプスに対し、ヴォルは無言で立ちあがり、座っていた椅子を譲る。そして、保温用の容器に入れておいたお茶を取り出し、カップに注ぐ。

 彼女は眉をひそめて身構えたが、彼の言葉に従い、白い湯気の立つお茶を受け取った。

 ヴォルは検査用の丸椅子に腰を下ろし、真正面から彼女の瞳に視線を合わせる。


「単刀直入に言おう。現在、わが軍は緊張状態にある。敵対勢力と交戦に入ったためだ。帝国軍ではない、つまり――」

「待って、やっぱり聞きたくないわ。あなたの国の兵士が苦しもうと、私には関係ないもの」


 ルプスは現実から目を背けるように顔を伏せた。

 しかし、ヴォルは構わずに続ける。


「それもまたいいだろう。しかし、一つ断っておくが、今の状況で次があるとは期待しない方がいい。君と私、どちらにとっても今日のような夜が二度訪れるとは限らない」

「それでも、嫌なものは嫌なのよ……」

「残念だが、私は患者が耳を塞ぎ喚いたとしても興味はない。言うべき事を言う。それが、治療以外に医者がすべき事だ」


 どんなに言葉を選び、落ち着きはらった所で、彼らへの宣告は吉報とはなりえない。それが戦場で起こることならば、なおさら奇跡はない。


「数日前、五人の兵が運び込まれたのは覚えているな。私ではなくカルロに監視をされていたときだ。彼らは敵に襲撃を受けた。生死の境をさまよった者もいる。幸い、死者はまだ出ていない。だが、団長のダンバースは開戦に踏み切った。つまり、わが軍は交戦状態だ」

「ここにいれば嫌でも気づくわ」

「察しのいい君ならそうだろう。ならば、兵士という獲物がどのように追い詰められ、傷を負わされるのか、狩人である者ならそのやり口を熟知しているはずだ」

「ええ、最初に大怪我を負わせるのは一人だけ、寄ってきた仲間を負傷させ、深追いはせずすぐにその場を離れる。決して憎しみに染まらず、淡々と狩りを続ける。その場で獲物が倒れなくても、恐怖を与え動けなくするだけで充分」

「そうだ。獲物の動向を知り、山を知り尽くした者たちの戦い方だろう。少し引っかかる部分はあるが効果的なやり方だ。医療衛士としては頭を抱えさせられるがな。しかし、今はこんな話に意味はない。ただ、知っておくべきことは、我が部隊が交戦している相手だ」

「私の家族なんでしょ」


 彼女はぽつりと答えをつぶやいた。


「あなたが言うところの北方民族よね。原始的で、閉鎖的な、聖王国の人間ではない下等民族」

「傷を負った兵士たちの言葉はあまり聞くな」

「ええ、戦争なのだから、仕方のないことよね。でもっ、私は、そんな家族に捨てられたってことでしょ? だって、私が囚われているのに、どうして殺し合いなんかになっているのよ!」


 夜の帳を破ることを気にせず、ルプスは思いのままに悲痛の声を上げた。


「あの日、妹と狩りになんて行かなければ、山の嶺を越えなければ、あんな奴らに見つからなければよかったのに。なんで、どうして女神さまはこんな罰を与えるの。どうして誰も、助けに来てくれないのよ。父さんも、あの人も!」

「君の夫は、薄黄色の瞳を持ち、左頬に二本の傷があったりしないか?」

「え……まさか、戦場にいたのねっ。そうよ、彼がみんなに指示をだしているはずだわ!」


 彼女は希望を見つけたかのように声を明るくした。しかし、お茶を飲むために口へカップを運んだその腕は、絶えず小さく振るえている。


「北方民族の者たちは、最初から誰も家族を見捨てたりなどしていない。君を救うために動いていた。そもそも、我らの敵は帝国なのだ。それ以外の他国や少数民族と争う理由はどこにもない。だから、本来からすれば捕虜として囚われているのも不当なものだ」

「言われなくてもわかっているわよ」

「君がここに来てすぐに、君の家族は捕虜の解放を求めに来た。当然の要求だ。しかし、愚かで傲慢な聖王国の貴族たちは、自らの部隊の非を認めることができず、使者たちの首を切った。そして、その命を冒涜した。この戦争は君が理由ではない。愚か者どもが始めた報復だ」

「あなたもその一員でしょう?」

「否定はしない。だから、だからこそ、ルプスよ。私は話さなければならない事がある」


 ヴォルはまっすぐにルプスの瞳を見た、名前を呼ばれた彼女は不意を突かれ、困惑した顔をしていた。


「最初の使者の中に、君の夫はいた。自らの妻を解放するようにと要求していたのを、見張りの兵が聞いていた。その兵士は、ダンバースたちが使者を殺したあと、川の下流へ死体を捨ててくるよう命令されたという。私は、その者の案内でその場所へ行ったが、何もできることはなかった。唯一の弔いとして、川辺に墓を作っておいた。彼らが一時でもその場に眠ることは不本意だろう。だから、君が生きて戻れたら、正しいやり方で弔ってもらいたい」


 彼女の返事はなかった。

 ただ、奥歯を強くかみしめ、こぼれそうになる胸の濁流を抑える、浅い呼吸を続けていた。

 けれど、持っていた手からコップが滑り落ち、土の上で乾いた音を立てた瞬間。

 彼女の慟哭は天幕の内に激しく響いた。


「彼らが怒り、我らに対し報復するのは当然の権利だ。私は医者として、貴族として、いや、一人の人間として、君を含めたあらゆる命を守らなければならない。だからこそ、私に従ってほしい。君が家族の元へ帰れるよう努める。いま、この場で私は約束する」


 ヴォルはまっすぐと頭を下げた。

 取り返しのつかない事実が、こんなにも虚しい気持ちになるものだと、彼は初めて知った。


「いいえ、その必要はないわよ。私はあなたたちなんか信用しないわ」


 ルプスはとっさに机の上へ手を伸ばすと、鋭利なナイフを握りしめ、自らに向けた。


「戦争は終わらないわよ。家族を奪われた憎しみの火は、あなたたちが死ぬまで消えないから。そして、私も死ねば、その火はさらに燃え上がるわ。きっと、あなたの国を焼くほどまでにね」

「前にも一度言ったはずだ。そのナイフは命を救うためのものだと」

「残念ね。これはもう使えない、あなたへの復讐にはもってこいじゃないかしら……それに、それにもう……彼がいない、この世界には、なんの未練がないわっ!」


 彼女はそう言って乾いた笑い声をあげ、首を引いて喉元をさらした。

 ヴォルはその瞬間、すぐさま彼女の腕を抑え、ナイフの刃に自らが持っていたカップを被せた。けれど、最悪の場合を想定していた彼の予想とは異なり、彼女はあっけなくナイフを手放した。


「あなたが私を殺しなさいよ。こんなことなら、助けてもらう必要なんてなかった。さっさと死んでしまいたかった。ほらっ、医者なら患者の苦しみを救ってみなさいよ」


 ルプスは机にもたれ掛かり、彼を嘲笑するような笑みを浮かべる。

 彼はナイフを握りしめたまま、静かに彼女を見下ろしていた。

 

 聖王国にいたとき、彼はこういった貴族の令嬢を多く見てきた。戦争に行った夫たちの訃報を知り、親や使用人たちに連れられて医者である彼の前へ何人もやってきた。彼女たちは皆、未来を失い、希望を失い、愛を失って生きることを拒絶していた。

 ヴォルはふと、そんな彼女たちの姿を思い出し、人が持つ心のありようは「他民族」などという言語で分けられないのだと理解した。


「患者が本当にそう望むなら、私は命を奪う治療を否定しない。だが、私はまだ、君に言わなければならないことがある。その話のあとで本当に望むなら、君に『治療』を施す」

「もういいのよ。これ以上の地獄はないわよ」


 それもまた一つの答えだとヴォルは思った。


「君がここに運ばれてきてから、私は診断を続け、君の身体の変化に気づいた。君の身体には新しい『命』が宿っている。これは医者(ドクター)として断言する。ここに来る以前から、君にはもう一人家族がいた」


 ヴォルは淡々と事実をつげた。

 踏みとどまらせるための方便ではなく、同情心からくるための嘘でもない。何がルプスの生きるための理由になるのか、彼はそこまで彼女の心を理解はしていなかった。

 ただ、両手で顔を覆い、子どものような声で泣く彼女の背中を見て、ナイフを元の机の上へ戻した。

 



 そして、夜が再び静寂を取り戻したと思われたとき。

 天幕の外から騒々しい足音と共に、衛士の一人が姿を現した。


「衛士長、緊急です。斥侯が野獣に襲われ、兵士たちに大変な被害がでました。あなたのご友人も被害に巻き込まれましたと報告がありました」


 暗い夜は再び、松明の灯りと助けを求める声で破られた。


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