第15話 宣告(上)
固く握られた手がほどけるまで、ヴォルは目的地なく陣内を歩き続けた。
やがて人気の少ない所まで来て、自分の行動が病人のようだと自覚した瞬間、彼の拳は仮設倉庫の柱を強かに打った。
張り付いた仮面の笑みはすでに消え去り、焼き焦がすような熱が全身から放出され、眼球の奥で雷が爆ぜたかのように鋭く痛んだ。
しかし、彼はハッとして目をつぶると、深く息を吸い込み、自らの肺を冷たい空気で満たす。そして、何度も深い呼吸を繰り返していると、血液は吸い込んだ空気によって冷たくなり、痛みは凪いでいった。
眠りから覚めるように、ゆっくりと瞼をひらく。
目に映った景色は、まるで真夏の清流みたいに澄み渡っており、眼球が新品の物へ取り替わったかのように鮮明に映っていた。しかし、それでも眼前の景色がどこか色あせて見え、彼は不思議な感慨に襲われた。
「そんなところでどうしたんだ?」
視界の端、少し離れた場所に兵士が立っていた。彼はまるで猛獣に遭遇してしまった子どものように、怯えた表情でこちらへ話しかけてきた。
ヴォルが視線を向けると、兵士は短い悲鳴をあげる。
その声を聞いてようやくラップだと気づいた。
「君か……」
彼は淡々とした声で呟く。
「どうしたヴォル、具合でも悪いのかよ。絵本に出てくる不死人ぐらいにひどい顔だぜ?」
「医者失格だな。自分の身一つ管理できないほどに疲労をためるとは」
「そんなことはないだろ。聞いたぜ、斥侯に出ていたやつがズタボロの状態でそっちに運ばれたって、そいつらはもう大丈夫なのかよ?」
危険な動物に噛まれることを心配するかのよう、ラップは恐る恐るヴォルに近づく。
自ら叩きつけた拳をおろすと、普段通り背筋を伸ばし、乱れた衣服を正す。
「問題ない」
「死にかけの状態で助からないって聞いたのに、平気だったのか?」
「全員生きて国土に戻れるだろうさ」
「そっか……って、兵を帰国させるのかよ!?」
ラップはよほど驚いたのか、叫ぶように言った。
「それはこれから決める。だが、団長からの言質はとった……あの能無しどもが」
天幕内でのことを思い出し、ヴォルの口から悪態がこぼれる。
貴族として愚劣な者たちに対し、道化のようなご機嫌取りをしたことに、ヴォルは初めて燃えるような激情を覚えた。兵士の命が掛かった戦場で、凡夫でも打たないような悪手をとった無知で無能な者どものあの口上。どんな時でも知性的な振る舞いができると自負していたヴォルであっても、内に沸いた感情を押し殺すのに苦労した。
自らの忍耐強さを称賛せずにはいられなかった。
「あ、あんまりイライラするのはよくないぜ」
ラップは居心地の悪そうな顔を見せる。
「キャロルが今のお前を見たら、顔を真っ青にして倒れちまうだろうさ。その、何に怒っているかわからないが、俺でよければ相談にのろうか?」
「いい、自分のミスに苛立っただけだ。それより仕事をしなければならない。君に頼みたいことがある。馬車を一台と六人分の食料、防寒具に馬の扱いができる若い兵士を一人、中央広場に用意するよう伝達してもらえないか」
「いいけどよ、勝手にそんなことしていいのかよ。誰かの命令なのか?」
「もちろん、医療衛士長の命令で物資を動かす。団長には話を通してある。こちらの準備が整えば私も広場に向かう」
「……わ、わかった」
数拍遅れて、ラップは困惑しながらも首を縦にふった。
それが返事とみて、ヴォルは自らの向かうべき場所へ向け一歩を踏み出す。
「おい、ちょっと待ってくれ、一つ確認しておきたいんだが」
「なんだ?」
「馬を扱える兵士って、俺には務まらないか?」
振り返ったヴォルは一瞬、質問の真意が分からず眉をひそめたが、すぐさま首を横にふった。
「駄目だ。乗馬の腕は申し分ないが、君ではない。荷馬車を操れる者が必要だ」
そう言ってヴォルは会話を打ち切り、その場を後にした。
彼の脳裏には、これからやるべき事の算段と、起こりうるべき事態への対策が、目まぐるしく駆け巡っていた。