第12話 月夜の手負い狼(下)
「ひっ」と彼女は短い悲鳴をあげた。
だが、彼女の身体に痛みは一向にこない。
目を開けると、脚に巻かれていた包帯の一部が切れ、薄皮が裂かれたのか血がぽつりと滲んでいたが、刃は肌ではなく地面に深く刺さっていた。
「このナイフは、人を治療するために特別に設えたものだ。その刃は繊細で、ダメにしたらもう二度と使うことはできない」
彼は握っていたナイフから手を離し、冷めた目で女を見る。
「医者とは、一つしかない人命を救うために技術を振るう。私はこの道に入るとき、そう習い、長年実践してきた。その積み重ねを侮辱することは、どんな立場の人間であっても許さない。貴族だろうと、異民族だろうと例外はない」
諭すように静かな声だと女は感じた。だが同時に、一言一句聞き漏らすことを許さないという重圧が、彼の眼から伝わってきた。
「しかし、たしかに私の配慮不足だ。言葉だけで信じさせるのは無理があるのは事実だ」
ヴォルはそう言って自らの懐へ手をいれると、彼は黒い手帳を取り出し、そこへ挟んでいた紙片を女へ見せる。
彼女はそれを受け取ると、頼りない蝋燭の灯りの下で顔を近づけ、まじまじと覗き込んだ。
「ひまわりと、子ども……?」
「そうだ。椅子に座っているのが私だ。周りに立っているのは幼馴染たち。その中の少女、キャロラインと私は、出兵前に婚姻してきたばかりだ」
その紙片に描かれた絵は、彼が成人したときに描きおこされた一枚。擦れた記憶のように、色合いの少ない抽象的な作品だったが、手帳に収まるその絵を、ヴォルは気に入っていた。
「これは、あなたが書いたの?」
「本来の物は、才ある画家が描いたものだ。私は、それを模写したにすぎない。だが、彼女の姿を思い出すには十分だからな」
「あなたは、私とその幼馴染の姿を重ねたというのかしら?」
「そう思ってもらっても構わない。もっとも、北方民族の文化に知的好奇心をくすぐられたのもある。本に記された内容がどこまで正しいのか、興味がある」
さっきまで読んでいた机の上の本をヴォルは指差してみせた。
女は、手に持った紙片をまじまじと眺めていた。だが、痛みを思い出したのか、脚を抑えて苦しそうなうめき声をあげた。
「……わかったわ。身体が治るまでの間、医者であるあなたに従ってもいい」
「ああ、それでいい。この天幕の内にいる限り、患者として扱うことを誓おう」
「あなたの婚約者の名に誓って?」
「無論だ」
「いいでしょう。でも、その言葉に嘘がないか、私はここを出られるまで疑いの目を止めるつもりはないわ」
そう言って彼女は手を差し出した。
ヴォルはその手を握りしめ、彼女の身体を支えると、立ち上がるのを手伝う。
薬が充分に機能しているからか、彼女は自らの足で立つと、支えられながらも自分の力で前へ進みだす。
「確認だが。カルテを作るうえで名前を記入しなければならない。答える気はあるか?」
「ないわ。どうせ捕虜とか患者とか、そういう風に呼ばれるわけでしょ。必要ないとおもわない。私も、あなたの名前を知りたいと思わないし」
「それもそうだ。私も患者の症状以外には興味がない。もしくは、少年でも構わないだろう」
彼女を寝台へ腰かけさせると、ヴォルは手早く汚れたシーツを取り換えた。そして、薬を飲ませてから包帯を取り換え、医者としての役割を終えた。
「私のことを呼ぶときはドクターとでも呼べばいい。もっとも、その単語以外は使わないことだ。聖王国の言葉を理解していることも、女であることも、伏せておいた方がいいだろう。無用な面倒を引き起こしたくないならばな」
「そうするつもりよ。あなたの患者を守る気があるのなら、兵士をそばに寄り付かせないでおいてくれるでしょうし。貴族さまは、約束を違えない高貴な身分なのでしょ?」
「傲慢な患者だ」
ヴォルは悪態を吐き捨てた。
「それと、この絵は預からせてもらうわ。これぐらいの人質は問題ないでしょ。あなたを信じるのですから」
「好きにするといい」
そう言って彼はたまらずに肩をすくめる。彼女の口煩さと図太さに辟易し始めていたが、気を張るだけの体力があるのだと判断することにした。
「一つだけ、確認してもいいかしら?」
「改まって、何が聞きたい」
「……ここに、兵士に捕まったのは私一人だけよね?」
ヴォルは首を縦に振る。
女はじっと彼の眼を覗き込む。心の内を見透かそうとするような眼差し。たとえ文化や国が異なっていても、それは、男の嘘を見抜く女の眼に違いなかった。
「ああ、捕虜は当然一人だけだ。死人もけが人も出ていないし、隊が人と接触した情報もない」
「そう……」
「今のは、何か意味のある質問だったか。こちらから聞いて答える気はあるか?」
「あなたの努力次第かしらね」
「ご機嫌取りはしない。患者の人格に興味はない」
ヴォルはそう言い捨てた。
「わかったふうに、割り切ったふりして、そうやって逃げるのね。でも、それなら逆に教えてあげるわ。私は、妹と一緒に狩りをしていたのよ。あの場所の近くでね」
「……」
「兵士に見つかって、妹は連れ去られそうになっていた。だから、私が囮になったのよ。きっと村に帰ったはず。今頃には……きっと」
彼女は消え入るような声で祈りの言葉をつぶやく。
ヴォルは、リズムをとるようにこめかみをたたく。
彼が呼ばれた時、兵士の口が重かったのは、捕らえておくべきはずの遭遇者を逃がしたためであった。妨害があったとはいえ、正規の軍人であるなら失態に他ならない。もし、これが帝国兵に情報を持ち帰られたならば、軍法会議も免れなかった。
しかし、細くはあるが交易する関係の北方民族であれば問題にならない。少なくとも、対話の席を用意することは可能であり、謝罪の意思と捕虜の返還に尽力すれば、これは解決できる問題であった。
「なるほど、そればかりは妹の無事を女神に祈ることだ」
けが人は出たけれど死者はいない。最悪の想像が彼の脳裏によぎったが、すぐに振り払う。
「あなた、異教の女神を畏れていないみたいね」
「私は神話の類には興味がない。神が存在するのかしないのか、他者が何を信じ、祈りを捧げようが個人の自由だ。私はどちらでも構わない」
「その言い方、まるで『罪人』の言葉ね。女神さまは、本当に実在するのよ?」
「会ったことがあるような物言いだな。だが、女神とやらが人を罰するというのは、狩人らしくない。いつだって、自然の法則こそが人を裁くのではないのか」
「そうね、そうかもしれないわ」
彼女は思うところがあったのか、それとも、薬が効いて睡魔に襲われたのか、適当な相づちを打ちながら、重たそうな瞼を閉じた。
ヴォルは、その目が完全に閉じられるのを見届けてから背中を向ける。簡易の寝台を占領する、唯一の患者の記録をつけるために歩を進める。
その背中に、寝息と聞き間違うようなか細い声が語りかける。
「ルプス。私はルプスよ。患者、患者と、恩着せがましく呼ばれるのは嫌よ、ヴォドレール」
彼はその言葉に応えず、振り返ることもなかった。
ルプスと名乗った少女が、心を開いたわけではないと彼はわかっていた。そしてまた、彼自身、その変化に興味はなかった。カルテの一番上の欄、そこが空白でなくなる。ただそれだけのことであった。
しかし、彼女との出会いは、冬の雪解けを告げるものではない。
夜明けに霜が降りるように、たしかな冬の訪れを告げる、重たく暗い福音であった。