第11話 月夜の手負い狼(上)
月灯りが眩しい静かな夜。
夜番の時間を利用し、持参していた書物を一人、天幕の内で読み耽っていた時のこと、ふと、金属の冷たい音がヴォルの耳に届いた。
顔を上げると、獣のように地を這う背の低い影が、手術用のナイフを持って暗闇に立っていた。幽霊のような現実感の薄いその姿に、彼は目を奪われる。しかし、不意にその影はヴォルへととびかかり、彼の体を椅子に押さえつけると、鋭利な刃を首へ押し当てた。
ヴォルはされるがまま、指先ひとつ動かすことはなかった。だが、目はまっすぐと前へ、包帯姿の少年の眼を見据える。
深い橙色の瞳は血走り、眼は大きく見開かれていた。呼吸は浅く激しく繰り返され、こめかみを粒の汗が流れ落ちる。一言で言い表すならば、まさに「狂犬」というのがふさわしいと。けれど、その焦燥の裏側に、恐怖の色が隠れているのがヴォルには見てとれた。
「ずいぶんと遅い目覚めだ。獣はすでに巣穴へ戻っているだろうに。狩人失格だな」
少年は掠れた声で短い単語をつぶやくと、ナイフを強く握りなおす。じわりとした痛みと熱が喉元に広
がる。
「騒いだら喉を掻き切る。黙っていろ」
「なるほど、聖王国の言語を理解しているのか。言葉が通じるなら好都合だ」
「黙れと言っている。本当に殺してやるぞっ」
『その脅しに意味はあるのか。ここは敵陣のど真ん中だ』
蛇のような滑らかな音の単語を口から羅列すると、少年は大きく目を見開いた。
その動揺はすぐに握られたナイフへ伝わり、ヴォルは臆せず言葉をつづける。
『私は医者としてお前を助けた。私を殺せばお前は助からない。生か死か、機会は一度だけだ』
ヴォルはゆっくりとした動きで人差し指を立ててみせた。
その指先を少年はじっと見つめる。右に振れるか左に振れるか、提示された選択を吟味するみたいに押し黙る。
沈黙だけが、眠れない夜ように永遠に続く。
やがて、少年は一歩後ろへ下がると、ヴォルの首から刃を離す。身体の震えを落ち着けようと空いた手を胸にあてていた。
「あの言葉は空耳じゃなかった。まさか私、こちらの言葉を話せる王国人がいるなんて」
「北方民族がこちらの言語を理解しているのだから、お互いさまだろう。信仰心を盾にして排他的な気質だと聞いていたのだが、勤勉な者もいるらしい」
「その言葉、そっくりそのまま帰す。少数民族だからと見下し、白痴だと迫害してきたのはいつだって聖王国の人間だ。しかし……なぜ、助けた?」
「言っただろう、私は医者だ。怪我人を治療することに理由などない」
「やすい出まかせなど信じるものか。王国民が、そんな慈悲深いわけがない。目的はなんだ、何を欲しがっている。集落から略奪するつもりなんだろ?」
少年はナイフの切っ先をヴォルに向ける。
鈍い光が刃に反射する。けれど、彼は眼前の危険を無視した。
「もしそうだというならば、なんだというのだ」
「一人でも多くの兵士を殺して、道連れにしてやる。二度と山を越えて私たちに近づこうなんて思わないように。知っているんだ、あんたらはいま外国と戦争をしているんだろ?」
「帝国側につき、戦争を激化させるわけか」
「そうさ、争いが好きなお前たちの事だ、自分たちの国の兵士を殺すのは得意だろ。その手伝いをしてやる」
「くだらないな」
ヴォルがそう言って深いため息をつくと、少年は白い歯をむき出しにして怒りを露わにした。
しかし、身体が怪我の痛みを思い出したのか、少年はその場に膝をつく。興奮状態が収まったのだとヴォルは冷静に観察した。
押さえつけられていた椅子から立ち上がると、彼は薬品棚から、薬瓶と包帯を手に持ち、少年の元へと戻る。
「施しは受けない」
「これは私の仕事だ。医者に楯突く患者が死ぬのは構わない。だが、お前はそれでいいのか」
「バカにするな、狩人として生きてきたんだ。命を落とす覚悟はとうにできている。それに、害獣を殺すことへの抵抗はない」
「ふん、口だけは勇ましいな。だが、私を騙すことは叶わない。お前は兵士たちを恐れている。無理もない、自然な反応としてだ」
「私の背丈を見て、ガキだと思っているのか、こう見えても成人している大人だ!」
「いいや、それは関係ないな。私が言っているのは、お前が『女』だということだ」
少年は青い顔をして見上げた。傍らに立つヴォルは、その顔にありありとした恐怖心を見て、思わず失笑をもらす。
「くそっ。治療したのだから、バレていてもおかしくないわね……」
「お前を取り囲んでいた兵士たちと一緒にするな。あの場で、その短い髪を見てすぐに気づいた。髪には女神の寵愛が宿る、北方民族の人間が頭を丸めることは稀だ。だが唯一、婚姻の儀式のときだけ、女神に髪を捧げるそうじゃないか。嫁ぐことへの許しを得るために」
「よく知っているみたいね。だからって、なんだというの。知識をひけらかしたいだけかしら?」
ヴォルは膝をついてしゃがむと、彼女と目線を合わせる。
「お前には二つの道がある。医者である私の監視下で捕虜となるか、自己満足に兵士たちを殺して死体となるか、そのどちらかだ」
「どうせ捕虜になったとして、私は兵士の慰みものにされるだけでしょ。そうなるぐらいなら、死んだ方がましよ」
女は立ち上がろうと足に力を込める。けれど、地面から手を離した瞬間に顔を苦痛に歪め、再びその場へ座り込む。
「右足は骨折、左肩と上腕にはおそらくヒビが入っている。全身の打撲と切り傷に、動くことさえやっとだろう。薬で痛みを抑えていなければ、ここまで這い出てきたことを後悔していたに違いない」
「ご親切にどうも、このくそ医者」
「威勢のいいのは構わないが、二度と私を挑発するな。適切な治療をしなければ兵の手を借りずとも死ぬ。いまは手を貸してやるから、寝台へ戻れ」
「そういうことね……わかったわ、あんたの魂胆が」
ヴォルは彼女の手からナイフを取り上げた。抵抗されるかと身構えていたが、あっけなくそれを手放した。しかし彼女は、軽蔑した眼差しを彼へ向け、嫌みったらしく歪んだ声で嗤った。
「あなた、私のことを狙っているんでしょ。こんな傷だらけでも、戦場で女を独り占めにしたい。どんな風に私は、お医者さまを喜ばせればいいのかしら?」
彼女はそう言って地面につばを吐いて見せる。
「私は、一度警告したぞ」
「すごんで見せるなんて、やっぱりただの男ね。あら、怒ったのかしら。結局、暴力や脅しで女を従えさせればいい、そう思っているんでしょ?」
女はふたたび、歯をむき出しにして嗤った。
その顔つきは、たしかに少年のように無邪気に見えた。それでいて自棄をおこした人間のように、すべてを見下す侮蔑の色が感じ取れる。
ヴォルは、血がすっと冷たく凍るような感覚に襲われた。
彼は、手に持ったナイフを奇術師のように巧みに玩ぶと、刃を下にして握り、その刃を女の太ももに目掛けて思いっきり突き立てた。