第1話 雪山の晩餐
その年の冬は地獄だった。
ぶ厚い黒雲の空の下、真っ白な雪埃が視界を覆い、死神の手のように冷たい風が木々の隙間を吹き抜けていた。
まだ陽が沈む刻限ではないにも関わらず辺りは漆黒に包まれ、あらゆる生命を拒むような寒気は、まるで山の怒りのようであった。
その自然の脅威は、山間の野営地に天幕を張った騎士団を容赦なく襲う。
彼らは聖王国の北方を狙う異民族と戦い、武勲をあげるために戦場にいた。だが、吹雪が視界を奪うように、屈強な兵士の身体は寒波との戦いに疲弊していた。
しかし、そんな自然との戦争とは裏腹に、他よりも一回り大きな天幕の下は愉快な声と煌々とした灯りで満ちている。
折り重なった天幕の隙間から、香ばしい肉の匂いを垂れ流しながら……。
円形の仮テーブルの最奥。主賓の席には第四師団の団長であり、栄誉騎士ダンバース伯爵がグラスを片手に鎮座していた。すでに頬は紅く、口元は上機嫌に緩んでいる。宴会はこれからだというのに、彼はもうすでに結構な量の酒を飲んでいた。
けれどそれは伯爵に限った話ではない。
団長であるダンバースを始め、その副官である貴族や兵士を統率する騎士長、さらには彼らと懇意にしている部隊長など、若い貴族の医療衛士を除いては、ずいぶんと酒に酔っていた。
テーブルには温かなスープとワイン、パンと豪勢な肉料理がならんでいた。軍事行動中とは思えない、貴族の好むにしても贅沢な料理だった。
ダンバースは頃合いを見計らうと挨拶なしにナイフを取った。彼はメインの肉を切り分けながら祖国である聖王国の歌を口ずさむ。それはやがて独唱から合唱になり、副官の貴族が故郷を想って一筋の涙を流した。
しかし、メインディッシュが皿に並びきる前に、天幕へ一人の兵士が転がりこむ。
「ご報告です、ダンバース栄誉騎士長」
「なんだいきなり騒々しい。つまらない報告は後にしろ。俺は食事に忙しい」
「いえ、それが……。緊急事態です!」
兵士がそう伝えると、ダンバースは億劫そうにため息をついた。
「どうせまた、北の野蛮人どもが現れたとでも言うんだろう。それぐらい現場にいる者で解決しろ。俺は興味がない」
「いえ、そうではありません」
「ならばなんだというのだ?」
「反乱です。一部の兵士が部隊長たちの天幕へ押し入りました。彼らは対話を求めています」
兵士がまくしたてるようにそう言うと、テーブルの各所からため息交じりの失笑が漏れた。
ダンバースは苛立ちを隠そうともせず、手に持ったナイフをテーブルに置く。
「ばからしい。戦場で上官に楯突くとは、国に帰ったらそいつらに地獄をみせてやる。おい、そこの兵士、お前はそいつらの仲間ではないよな?」
「はい、自分はこの事態をいち早く知らせようとはせ参じた次第です」
「ならばちょうどいい」
直立不動の若い兵士を横目に、ダンバースはテーブルについた者たちへ視線を向ける。
「せっかくの晩餐会の前にとんだつまらない仕事が入った。諸君、どうせ兵士どもの要求などたかがしれている。適当に酒を持って行ってなだめてきてくれたまえ。だが、これいじょう騒ぐようならば罰をくわえていい。食いぶちが減ってちょうどいい」
席に座っていた者たちは、各々悪態をつきながら重い腰を上げた。
「そうだ、そこの兵士。お前はここに残って俺の護衛をしろ。そうすれば、肉のひと欠片くらいは馳走してやる」
「はい、光栄であります」
兵士は上ずった声で声高に答えるのに対して、ダンバース以外の副団長たちは疲れたため息を吐きながら脱いでいた防寒具を着込んだ。
そして、腰の剣を一度抜き、その剣が役に立つことを確認してから、一人また一人と天幕を後にした。人気がなくなると急に天幕内の温度は下がり、吹雪いている風の音が余計に寒さを際立たせた。
ダンバースは苛立ちを紛らわせるようにグラスを煽った。
酒が回れば回るほど、面倒な事柄は頭の片隅に追いやられていった。けれど、影のようについて回る不安は消えることはなく、彼はその重責を吐き出すよう熱い溜息を垂れ流した。
ふと、ダンバースは部屋が静かすぎることに気づいた。
せっかくの晩餐に乱入した若い兵士、彼がその天幕のうちにいなかった。
いったいいつ消えたのか、不安と酒に満たされた彼の頭では、うまく思い返すことができなかった。
副団長たちの後に続いて天幕を後にしたのか、この場に残るように命令したのではなかったか。自分の言った言葉を思い返すように頭を抱える。
「あの兵士なら、真っ先に天幕をでましたよ。返事の後すぐに」
それは突如現れた蜃気楼のような声だった。
「だ、だれかいるのかっ」
「ええ、最初からここに」
「全員出て行ったはずではないのか、いったいいつから?」
「私はこの席を一度も立っていません。お酒の飲みすぎで視野が狭まっているようですね」
ダンバースは声のする方へ目を向けた。
彼が主催した晩餐会、そのもっとも遠い末席に残っていたのは、医療衛士の子爵。
この場に呼んだ者の中でもっとも若く、成人したばかりの医師の家系をつぐ青年。
騎士団長を任命されたダンバースと同じ栄誉騎士であり、その知識を見込まれて部隊での役割を与えられた者であった。
「寒さに耐えるため、人が酒に浸るのはわかります。ですが、飲みすぎれば毒でしかないでしょう。私はまだ酒を嗜みませんので、理解できていないだけかもしれませんが」
医療衛士の青年は世間話のようにそう述べ、柔和な笑みをダンバースに向けていた。
ダンバースはこの若い医療衛士のことをあまり知らなかった。
貴族を名乗ってはいるが衛士の家名に聞き覚えはなく、同じ栄誉騎士ではあったが、世間話をするほど会話もしてこなかった。ただ、その若さには不釣り合いなほどに鋭い鷹のような眼光、その奥底にある力強さは生意気を通り越してどこか高圧的に思えた。
「ふんっ。あの兵士が出て行ったことは、俺も最初から気づいていたさ、嘘じゃない。まったくどいつもこいつも、なぜまっとうに命令を聞かないのか?」
「それは彼もまた謀反者だからでしょうね」
「ど、どういうことだ?」
「言葉通りの意味です。各部隊長を誘導する灯り、作戦の合図。無能な王を孤立させるために必要な道化役…………最後の晩餐の中央に座する資格がない、そういう事ですよダンバース」
青年は初めてダンバースへ視線を向けた。それは明らかな侮蔑と嘲りを含んだものであった。
人ではなく、獣畜生に向けるみたいな冷めきった色の瞳。
「おまえっ、まさかお前もやつらの仲間だというのかっ!」
荒々しく玉座から立ち上がり、ダンバースは机に立てかけていた己の剣を抜いた。
「答えてみろ、俺に対して嘘をつくことは許さん。俺は騎士団長だぞ」
「存じてますよ」
「この部隊では俺が法律なんだ。どいつもこいつも楯突くやつは斬り捨ててやる。そうなりたくなかったら、俺の聞くことに答えろ!」
ダンバースは抜き身の剣を机に荒々しく振り下ろした。その結果、グラスが倒れ中のワインがこぼれたが、頭に血が昇った彼には些細なことだった。
だが、青年は動じずにくつくつとした失笑をもらす。
「失礼、つい嗤ってしまいました」
「何がおかしいっ!」
「一つ、はっきりと申し上げておきましょう。私がこの謀反を計画しました」
青年は背中を椅子にあずけると、大胆に足を組みなおした。
その姿はまるでこの場の主人のような振る舞いであり、彼の眼がいっそう険しく、鋭い光を放つ。
「ダンバース伯爵、私が『首謀者』です。あなたには、ここでその任を降りてもらう」
「この若造が、舐めたことを言う……決めたぞ。貴様らは全員処刑だ。故郷に帰ることは絶対に叶わないと思えよ」
「その言葉、そっくり返させてもらいましょう。なぜなら、あなたのその命令に従う者は誰一人いないのですから」
「何を言っている。食い扶持が減るのだから、喜んで兵隊どもは俺に従うぞ」
残忍な笑みをダンバースは浮かべる。
しかし、青年は静かに自らのこめかみに手を当てた。
「わかっていないようですね。この場に私と伯爵の二人しかいないということは、もうすでにあなたの命運は決しました。つまり、貴方を助ける者は誰もいないということです」
「副団長たちがいるではないか……まさかっ、天幕を出て行った奴らも!」
「ええ、最初から使えないと分かっている駒を、生かす意味はありませんから……さて、私も自分の役割を全うしなくてはなりません」
青年はそういうと、すっと立ち上がった。
その腰にはレイピアのような細剣が下げられており、彼はそれを手早く抜いた。
「バカな、バカなバカな。正気なのか? この俺に楯突いたこと、後悔させてやるぞっ!」
ダンバースは吠えた。その怒号は一時的な感情の爆発にすぎないが、並々ならない迫力があった。
栄誉騎士団長は剣を両手で握り直し、身体中に力を漲らせ、勢いのまま床を蹴って突進する。
剣を振るう対象は、しょせん医師崩れの若造。従軍経験があり体格で勝るダンバースが負ける道理はない。彼は獣のような雄叫びを上げ、剣を高く振り上げた。
「私は、すでに一度言いました」
青年は機械的にそう口にすると、ダンバースとすれ違うように剣を走らせた。
「……あなたの命運は決まっている、と」
天幕の外は、相変わらずの猛吹雪だった。
風の音は騒々しく、まるで布を引っ掻いているような細い音を立てている。
ダンバースは無情にも床に倒れ、そして、すぐに静かになった。
彼の胸に空いた穴から、最後の血液が噴き出ると、あとはただ、徐々に床を赤く侵食するだけであった。
それはまさに、人が死ぬにはあまりにも短い時間だった。
青年は細剣についた血を振り払うと、主人を失った主賓席へ腰を下ろし背中を預けた。
彼の耳には、ただ静寂のみがあった。
薪が弾ける音も、吹雪いている風も、自らの鼓動する心臓の音さえも届いていなかった。
彼は足を組んだまま自らのこめかみに手を添え、ただ時の過ぎるのも待っていた。
しばらくして、天幕の隙間から転がり出るように、男が入ってきた。
それは先ほどの若い兵士であり、その兵士は興奮した面持ちで青年の姿を見つけると、さらに満面の笑みを浮かべた。
「やった、やったぞ、ヴォル。ぜんぶ上手くいった、成功だ!」
「君が戻ってきたということは、そうだろうね」
「あいつら、まんまと罠にかかったぜ。とくにぼくを馬鹿にしていたあの部隊長なんか、情けなく尻もちをついてたんだ。ざ、ざまあみろってやつさ」
「天幕を出て行った十人、ちゃんと全て上手くいったのかい?」
「全員さ、ヴォルの言った通り、容赦なく殺したさ。他のみんなも、うまくいったって喜んでたよ」
「ならいい……君も無事そうでなによりだよ」
ヴォルと呼ばれた医療衛士の青年は、友人のはしゃぎっぷりを眺めながら、自らのこめかみを指で叩いた。
「まずは、祝勝会をひらかなくちゃな、あいつら、この期に及んで肉を食おうとしてたのか。これは俺たちで食べないとな。みんなを呼ぼうか?」
「そうしてくれ。まずは今生き残っている全員を、ここに集めてくれ」
「わかった、待っていてくれよ」
兵士は、甲冑の中から少年のようなあどけない笑みを見せ、天幕を後にした。
残った青年は、明るい顔をした友人が去ったのを見送りながら、長い溜息をついた。
そして、こめかみに添えたその指で、リズムを取るように拍を打つ。
「さてと、ここからが本題だぞ。ヴォドレール」
彼は自分の名を呼びながら、そう、ぽつりと本音をこぼした……。
これは始まりの物語。
やがて、聖王国にその名を知らぬ者がいない大貴族となる青年の序章。
ヴォドレール・サン・フリードリヒ侯爵。
合理性の怪物となり、王国を裏から操る天性の支配者。
あるいは、『翳りある絶対の太陽』。