子狸の川流れ
「どうしたの、これ」
「川で遊んでたら流れてきたから、拾っといた」
尋ねた従者に、子供たちはそう答えました。
一番年長さんであろう子供が差し出しているのは、自慢の毛皮が濡れてちょっと残念な姿になったうちの子狸。ネリです。
力なく揺れている尻尾の先からは、まだ水がしたたり落ちておりますし、項垂れて、耳もへにょりとしている姿は憐れとしか言いようがなく……。
大人も怖がる領主様のお屋敷に、子供たちが届けようと決意するくらいには可哀相さに溢れていました。
さて、ではどうしてこんなことになったのか。
子狸の言い分を聞いていくことにいたしましょう。
****
領主様が風邪をひきました。
数日前の出来事です。
子狸は領主様が寒がった時には湯たんぽ代わりの抱き枕になり、暑がれば、使用人が準備した水の入った盥で絞った布を額に当て、(絞るくらいはネリにだってできるのです。洗濯仕事の過程ですからね!)食事が届けば、ちょっと零しながらも、領主様に食べさせて……、遠くの方で、「ちょっとじゃないね、半分だね」と従者が言っているのは聞かなかったことにしてあげましょう。と、まあ、少ないながらも出来ることを頑張って看病をしたのです。
その甲斐もあってか、二日もすれば領主様は回復しました。
しかし、病気は治ったばかりの時が肝心と申します。
子狸は自分に出来ることは何かを考えて、考えて、ころりと前転。
良い案を思いつきました。
お医者様の言っていた滋養の付くものを探しに行くというのはどうでしょう?
ええ、素晴らしい案のような気がします!
子狸は意気揚々、屋敷の外へと向かいました。
ほんの少しだけ、あんまり役に立てなかったのを気にしていたのは狸だけの秘密です。
まず、向かったのは女神様の森の中、湖のほとりでした。
子狸にとっては、生まれ育った生活圏です。
いつものように花を摘み、女神さまの湖に捧げてから、さあ、探索の開始です。
女神さまの森は大層深く広いですけれど、子狸の活動できる範囲は限られています。
なぜならば動物たちにも各々テリトリーがあるからです。間違って足を踏み入れでもすれば、恐ろしい勢いで追いかけ回されることになる……というのは、子狸もすでに体験済みの出来事です。
あのとき領主様が居なければ、一体、どうなっていたことか。
『辞めよう、木登り。落ちるもと』
今日もそんな標語を掲げて、木を見上げた子狸は、領主様への恩返しの気持ちを改めて思い出し、やる気をさらに漲らせました。
狩りを教わる前に親狸を亡くしたネリは、狩りが上手くありません。狸自体が狩下手だとは知らない子狸です。
ですから、領主様の所に行くまで主食としていたのは果実や草でした。
しかし、本来、狸は雑食。野菜も食べるけれど、お魚もお肉も食べるのです。
追いかけられてばかりの子狸ですが、多少は成長したはず。
そうですとも、狸だって狩人になることもあるのです!
と言う訳で、共有スペースである水飲み場兼狩場である川にやって参りました。
暑さはまだ真っ盛りですが、季節はそろそろ秋を迎えようとしています。
川の中は、産卵のためにやってきたお魚たちの宝庫。
滋養のあるもの、……ふっくふくのお魚なんてよいのではないでしょうか。
子狸はこれに決めました。
川面でびちびちしている活きの良いお魚に標準を定めます。
きらんと目を光らせ、尻尾をぴんと立て、とうっ。
勢いよく川に飛び込みました。
うねる様に目の前を魚が通り過ぎます。
今です!
捕まえようと腕を振りあげて、おろす!
ふにょり。
ゆっくりとした狸の前脚は、掠りもせず。
魚たちは子狸の顔を尾びれでびたんびたんしながら、その横を悠々と泳ぎ去っていきました。
なんてことでしょう。
……水の抵抗を忘れていました。
ならば、この爪でザクっと……!
うん。とってもきれいに爪切りしてもらってました。
お風呂係のアンリちゃん、ありがとう。
ここがどこかも忘れて狸姿でぺこりとお辞儀をすると、水の中で身体がくるりと回りました。
その間にも前脚の先、整えられた爪に撫でられた魚たちは遠くへと離れていきます。
泳いで追いかけたら、別のに尻尾を嚙まれました。
痛いです。
飛び上がった拍子に魚は離れ、後に残ったのは噛み痕だけ。
子狸の周りからは、魚の影は消えてしまいました。
しかし、狸は諦めが悪いのです。
獲物を求めて、川面に顔を突っ込み、探索を継続します。
けれども、水面に顔を突っ込んだまま、ぷかーっと浮かぶ姿は、まさに狸の川流れ。
子狸としてはちゃんと息継ぎもしているし、水の中のお魚を真剣に探索していただけなのです。いつの間にか、女神さまの森を抜け、領都に近い所まで流されていたのは予想外でしたが、決して溺れてなんていないのです。
なのに。
生きてるかー?と聞かれて、川の中から拾われて。
領主様の所まで持っていかれるのはあんまりだと思うのです。
****
はいと、差し出されたそのびしょびしょの濡れネズミ……違った、濡れ狸を受け取るために手を伸ばした従者は、途中でその手を引っ込めました。
後ろから、タオルを持った領主様がやってきたからです。
従者が場所を譲るとすぐに、領主様はその場に辿り着き、真っすぐに子狸へと手を伸ばしました。
心配したのでしょう。
その表情はとても険しく、仏頂面を通り越して不機嫌にしか見えません。整った顔立ちが余計に険を際立たせてしまうものだから、子供たちには領主様が怒っているように思えて、怯えのあまり後退りしてしまいました。
そんな行動をされて、初めて彼らの顔色に気が付いたのでしょう。領主様は無表情のまま固まり、子供たちはバツの悪い顔でやはり固まりました。
しかし、子供に差し出されていた子狸だけはじたばたしています。
まるで領主様を嫌がっているようなその行動に、子供たちは更に後ろに下がりました。
そんな子狸や子供たちに怒ることなく、領主様はタオルを広げて言いました。
「ネリ、これがあるから、俺は濡れない。風邪もひかないから大丈夫だ。……おいで」
その言葉に子狸は静かになりました。本当?と尋ねるように首を傾げるから、領主様は、「本当だ」と念押しして頷きを返します。
子狸は領主様を見て、ふっかふかの分厚いタオルを見て、もう一度領主様を見て、それから。
「きゅぅ」
彼に向かって両手を差し出しました。
そう、子狸が嫌がったのは、水浸しの自分が領主様を濡らすことだったのです。
それにしても子狸に掛けられた領主様の声の優しさといったら!
子供たちにでもわかるくらい明け透けな愛情に、彼らは逃げるのをやめて、領主様に近づきました。
一歩二歩前に出て、おずおずと子狸を差し出します。タオル越しに子狸を受け止めて、領主様はほっとしたように微笑みました。
「ありがとう」
領主様の感謝に、子供たちも照れたように笑います。
そうして思いました。
案外、領主様は怖くないのかもしれないと。
それが、やっぱり怖くないに変わるまで、そう時間は掛かりませんでした。
タオルに包み丁寧に子狸を拭いていた領主様は、いつものように何があったか尋ねます。
それに対し、子狸は表情と鳴き声と仕草のみで領主様へと伝えたのです。
「人になろうよ、しゃべろうよ」
と突っ込んでしまった従者は悪くありません。
これはちょっと落ち込み過ぎて、人になれることをすっかり忘れていたネリの落ち度です。それ以上に、そのままでも大丈夫なほど甘やかしている領主様のせいかもしれません。
恐ろしいことに、領主様は、ほぼほぼ正確にネリの伝えたことを理解しておりました。
これには子供たちも少しばかりドン引きです。
狸のままなのに、表情と仕草でそれを伝えられるようになった子狸に敬意を表すべきなのか。それとも、それを読み取る領主様に慄けばいいのか。
悩んでいた従者は、しかし。
自分も8割近くは理解が出来てしまっていたことに気が付いて。領主様を笑えない……と、静かに顔を引き攣らせました。
さて、子狸の「滋養の付くもの」捕獲計画は失敗に終わりました。
しかし、失敗のままでは終われません。
食のことは、食の専門家に聞くのが一番でしょう!
そうして厨房で情報収集していたネリに、
「滋養の付くもの?ああ、蛇とかはよくそう言うよな」
なんて、余計なことを言った料理人は。
「いやぁぁ!ネリちゃん、それだけはやめてぇぇ!ぺっして、お願いぃぃ!ひいぃぃぃ」
悲鳴のような奇声を上げた女性陣を見て、「すまんかった」と謝ることになりました。
更に、捕獲はお友達の熊に手伝ってもらったなんて話を聞いてしまえば、
「熊鍋なんて無茶振りしなくてよかったなぁ……」
と独り言ちるしかありません。
さて、とぐろを巻く爬虫類は駄目だしされてしまいました。
またまた失敗です。
次の作戦を練ろうとしているネリに、
「無難なところで釣りでもすれば?素潜りよりはいいでしょ?」
そう言って、従者は釣竿を持たせました。
不思議そうな顔で釣竿の先を見上げるネリの肩を領主様が軽く叩きます。
彼の手には釣竿以外の釣り具一式が入ったバケツと昼食を入れた籠が一つずつ。
疑問符を浮かべたネリの手を引いて、領主様は川へと出かけていきました。
ネリに釣り経験がないのは知っています。きっと実際に釣るのは領主様でしょう。
領主様への贈り物を領主様が釣るというのは、少しばかり笑うしかありませんが、シーズンで豊作の川ですから、釣果は期待できるでしょう。
捕獲作戦が成功すれば、ネリが喜ぶし、皆で美味しい魚が食べられるし、領主様を休ませることが出来る。良いことしかありません。
それに、釣りをしている二人の姿を見たら、きっと。
領民たちの領主様を見る目も変わるのではないでしょうか。
先代まではとても仲の良かった領主様と領民たち。
ですが残念ながら、今では、戸惑いや遠慮が両者の間に横たわり、見えない壁となってそこに在ります。
代々の領主様は、子供の頃から互いに見守ったり見守られたり、共に時間を積み重ねていくことで領民達との隔たりをなくすことが出来ましたけれど、両親を早くに亡くし王宮で育った領主様には、そんなふうに絆を育む時間は与えられませんでした。希薄な関係のまま、彼は領主となるしかなく、生来の不愛想さと真面目な性格が、さらに誤解とぎこちなさを生んでいったのです。
そうして培われてしまった距離間はそう簡単に縮まることはなく、今も歴然としてそこに居座っています。嫌われてはいませんし、領民達も親しみを感じていない訳ではないのですが、あと一歩が近づけないのです。
けれど、従者は思います。
領主様だって今までの領主に負けないくらい優しく、領民思いの良い男なのです。
領民たちはそれを知らないだけ。
言葉で伝えても、この溝は埋まらないでしょう。
でも、ネリが傍にいれば、それだけで彼の優しさや懐深さに気づいてくれると思うのです。
なに、特別なことなんて必要ありません。
ただ、いつものように二人でいれば、それでいいのです。
互いを大切にするその姿は、言葉なんかよりもずっと伝わる何かを持っている。
きっと、それは眩しくも微笑ましく、真っ直ぐ領民の心に届くでしょう。
傍で見てても、彼らはとっても仲の良いおしどり婚約者、なのですから。
……狸と人ですけれど。
「あー、でも狸だって番うと伴侶を替えないらしいし、おしどり夫婦ならぬ狸夫婦でもよいんじゃない?」
自分で言って悦に浸る従者はにんまり顔で笑いました。
「狸夫婦』を流行らせよう。
それが彼の野望となるのは、それからすぐ後のこと。
賛同してくれる仲間ならば、たくさんいますからね。
読んで下さりありがとうございました。
川で流されても、魚に尾びれキックをくらっても、とぐろを巻いた長いものに逃げられても、頑張る子狸と、それを見守る懐深い領主様の愛情はほこほこに温たいのです。