名前
アリスとの問答。彼の名前は出せた。
受付嬢、名前はシオンというらしい、と分かれて二人でエレベーターに乗る。スピードは調整できるらしいが普通で、と頼んだ。
二人が横に並ぶと親と子供、という雰囲気が出る。見た目的には黒髪と黒髪、瞳が違うくらいで背の高さ以外に違いが見当たらない。胸もあって女性としては完璧な容姿であるが彼自身にとってはそんなに羨ましいものではなかった。元が男であるゆえに羨ましいより魅力的だと思う方が勝る。心に決めた者がいるため、心は靡かないが彼女には関係のない話だろう。
「言葉を崩してもいいだろうか」
「いいですよ。その方が関わりやすい」
「ありがたい。じゃあ、アリスと呼ばせてもらおう」
ゆっくりとも速くともいえない速度でビルを上がっていくエレベーターに揺られて二人はガラスで隔てられた外が見える壁。それをぼうっと眺めている。
「貴方の名前は、記載されていませんね」
「ああ、少し君に相談したくてね」
この身体の名前と自分としての名前。それを気にしていなかったが役所での書類のことで考えなければならないと感じた。そこではアリスに相談するなら記載しなくてもいい、と言われたので記載はしなかった。
「相談?私にできることではないと思いますが」
「君が?ここまで信頼を勝ち取っていてそれはないだろう」
この都市の人々にとって今話しているアリス様にの存在は大きいものなのだろう。あのおっさんやサキ、シオンの言動を見れば分かることであった。
何をどうすればそこまでの信頼を獲得できるのか分からないがそこまで信頼されているならと彼も信用はしているのだ。
「名前は、私自身のものとこの身体のものがあるんだ。どちらを名乗るべきか、とね」
「それは迷うまでもなくあなた自身の名前では?」
「そうだよな、そうなるよな」
しかし、話はそう単純ではない。彼にとって母、アリスの存在は大きすぎるものだった。自分みたいな矮小な者が母の身体を借りていること自体が彼にとっては不本意なのだ。とはいえ母になりきろうと思ってもそれもまた思考が邪魔をする。完全な真っ白ではじめるならば新しい名前もアリだがそのことを相談しようと思ったのだ。
「そうなのですか、人間とは複雑なのですね」
「君達も同じようなものだろう?」
「いえ、感情というものは存在しますし思考もできます。ですが求めるものはすべてが即物的なもの、あなたのような悩みも持ち合わせておりません」
労働環境の改善や給料の増減を求めることはある。しかし、そんな深層心理まで再現はされていないのだという。長い期間であればそんなものも形成されていくのでは?という疑問もそれは私たちには当てはまらないようです、と返される。
「新しい自分として始めたいならば名前をつけ直す手伝いは致します」
「ありがとうな」
これは自分だけの悩みであるのか、と思うと少し優越感が生まれる。元人間、アンドロイドではなくサイボーグであるから当然なのだが人というものは度し難いものである。
「一旦保留だな。いつか変えるかもしれんが【須藤 サクラ】とでも呼んでくれ」
「【須藤 サクラ】様、ですね。記録しておきます」
「ああ、着いたな。背筋が寒い」
ゾクリ、と窓の下を見ると背筋が凍るような感覚を覚える。もう見ないし来たくないが来なきゃいけないんだろうな、と無性に股間を押さえたくなる衝動を抑え、憂鬱とした気分のままアリスについていく。
エレベーターから降りるとあったのはアリスのオフィスに続くであろう扉と休憩室のような一つの椅子と机が隅に置かれ、そのうえ飲み物の自販機がある。あと、寝袋が露出した鉄骨にぶら下がっているのがみえる。
「ここで寝泊まりしてるのか」
「下降りるのが面倒なので、私に高所を恐怖に思う感情も存在しませんし」
「羨ましいな」
ここが最上階ということを想像するだけで寒気がする。アドレナリンが分泌されている時はなんてことないのだが日常生活では高いところは御免だ。
扉を開けると中に広がっていたのはいかにも社長室、といったかんじの部屋。奥に存在する窓の存在は意識しないようにして紙媒体の書類を保存する棚や見慣れない電子機器が並んでいる。アリス用のデスクや来客用のソファと机も確認できた。
「さて、ソファに座って待っていてくださいね」
「分かった」
アリスは棚を探る前に紅茶をいれてくれる。どうぞ、と出された茶をありがたく頂く。その後に棚から書類を取り出してサクラの前に出す。ペンも当然だがある。
「随分とアナクロなんだな」
「ARは対人では不便なので。この後ちゃんとデータに変えますよ。では説明を開始しますね」
軽口を言い合うとサクラにデータが送られる。それを見ながらアリスの説明を聞いていく。この都市の簡単な成り立ちとこの都市が存在する大陸、そしてこの大陸の他の土地のことであった。とはいっても千年以上前のデータのため信憑性はないのだというが地図がそうそう変わるはずもないのでそれは頭に叩き込むことにする。
「退屈です?」
「いや、興味深いよ。少し眠くはなるけどね」
千年以上前のことを聞かされ続けるとさすがに眠くなってくる。窓の外の風景は雲の上であるせいか太陽が落ちるのが見える。
「まあ、そうですよね。じゃあここら辺で一旦切り上げましょう」
「ん、了解した。次は何をすればいいんだ?」
「仕事の話ですよ。働かざる者食うべからず、それがどこの世界でも鉄則ですから」
アリスは微笑みを絶やさない。サクラもアリスと話していると自然と笑みが出てくる。今のアリスは自慢げ、得意げ、といった感じだ。大きな胸がさらに強調される。
「その話か。どんなものがあるんだ?」
「ここは社会主義と資本主義を混ぜてまして」
アリスを基盤として色々な産業が設けられている。電力、食、服等、それらによって人を分けているようだ。それでサクラが何処に就けばいいのかを聞くとそのどこにも就かなくていい、というのがアリスの返答だった。
「どういうことだ?」
「希望があるならそこでもいいんですがオススメがあるんですよ」
アリスは新しい書類をサクラの前に出す。そこに書かれているのは実地調査という欄だった。
「都市を出て外を調査するのか?」
「ええ、どうです?私達も外のことは気になってますが兵力は我々にはないので」
「ふむ、私も会社勤めは性にあわない、朗報というべきだな」
サクラからも提案するつもりではあったので僥倖というものだ。そう思ってサクラの中の選択肢は実地調査員のみとなる。
「すぐに出るのか?」
「いえ、少しここに滞在してもらってからになります。こちらの準備もあるので早くて一週間でしょうか」
「いいねぇ、そりゃあいい。受ける!」
一週間の猶予期間が与えられる。その間に義体の動作確認やこの都市の探訪にも時間を割けるだろう。常に外にいる訳ではないことは書類の文でも確認している。アリスがそんな人柄ではないことはわかるが小さく一文だけ、とかそんなもので不利にならないようにすべて読んでいる。
「では、契約成立ですね」
「ああ、一週間の間は何をすればいいんだ?」
金やらポイントやらは現在のサクラは持っていない。これでこの都市で生活できるのかと思い出したようにアリスに聞く。
「一週間の生活費と娯楽費は私が出しますよ。部屋は、決まるまでは私の部屋でいいでしょう」
「ありがとうな。部屋の希望は聞いてくれるんだよな?」
「ええ、もちろん。この一週間は私も遊びますね」
「それがいいな。夜はしっかりベッドで寝てくれよ」
「分かってます。あと、私は布団派なんですけど」
感情豊かなアリスの表情を見ていると滅多に表情が動かない自分に苛立ってくる。それもアリスの表情で緩和されるのだが。
「奇遇だな、私もだよ。って和室なのか?」
「そうですね。ワガママ聞いてもらって和室にしてもらいました」
「‥‥‥いいなぁ」
サクラは和室が好きである。あの雰囲気に畳の匂い、愛着が湧くのは必然といえるあの空間。好きにならないわけがない。アリスとは気が合う気がしてきた。
「和室の部屋がご所望です?」
「ああ、なかったら残念だが」
「ありますよ、かなーり」
「本当かっ!?」
「本当です」
よしっ、とガッツポーズをする。住居とは自分の癒しの空間でなくてはならない、新居となれば自分の色に染めるのに時間がかかるものだが最初から自分の望みが達成されているのは手間が省けていい。声が高鳴るのが分かる。
「アリスっ!ありがとう!」
「いえいえ、要望に添えなくてなにが長ですか。他にも希望はありますか?」
「ああ、それはだな‥‥‥」
住居のことや実地調査の際に必要なもの、それらを打ち合わせしていく。終わったあとも雑談をしていて時間はすっかり夜更けになる。アリスは既に仕事は終わっているらしく久しぶりに部屋に戻るらしい、それにサクラはついていく。
アリスの部屋はワンルームである。旅館の一室のように見えるが炬燵完備であった。みかんや菓子、も揃えられており夜更かしには良いロケーションである。
「さて、布団敷きますか」
「たしかに今日は疲れた。早く寝たいな、布団は押し入れか?」
「ええ、予備に何組かはあるはずですよ」
二人とも、手慣れた様子で布団を敷いていく。夜更かしはまた今度だと二人で話し合った後、部屋を真っ暗にして意識を落とした。枕投げもしなかったのは疲れていたからである。
新しい自分になるのは一旦やめる。今はそんな度胸など持ち合わせていなかったから。