4、日常
「ん、んぅー……」
カーテンから漏れ出た朝の日差しに、緋荼里は精一杯の伸びをする。まだ朝ぼけの残る頭で深く息を吐き、緋荼里は朝の準備に入る。
パジャマを脱ぎ捨て、制服の袖に腕を通しながら、ぼやけた視界の中で昨日の出来事に思いをめぐらした。
サメを倒す団体シャークブラウジングセンター、そのエージェントなる実行部隊の一員になった。緋荼里なら夢でももう少しマシな設定をする。
だから、現実。
メガネをかけると視界が晴れる。
鏡を見れば、いつもの自分がいた。
「私の目が、サメねぇ」
言葉だけだとわけがわからない。だが、エージェントの契約を書面でも認めた後に緋荼里は嫌というほど受け入れさせられた。
急場に備えて、サメ化した目を隠す方法を考案されたのだ。その際に自分でもサメと化した、白に染まった不気味な瞳を見せられた。
ショッキングな姿ではあるが、それほど悲壮感はなかった。打ちのめされるのは、慣れている。気にしていたら、生きてはいけない。
「なるようになるさ」
鏡に向かってにっと笑って、部屋を出る。一階のリビングでは、美樹が朝食の準備を済ませていた。
父親の姿はない。確かしばらくは長距離運行が連続するから帰らないのだったか。トラック運転手というのも大変だ。
「おはよー」
「おはよう、おねえちゃん。体調は大丈夫? 病み上がりなんだから、休んでもいいのに」
センターから自宅までの移動中、愛護から緋荼里の表向きの状況を聞かされた。無差別殺人が発生した現場に居合わせ、心的外傷からか意識が目覚めない。警察管理の病院で検査入院をしているというものだ。
診断結果は部活や勉強で疲労が重なっていたところに、強いストレスがかかったので睡眠状態になった。命に別状はなく、経過観察でよいというとかなんとか。
「大丈夫、大丈夫」
本当に何事もない。あの光景は脳裏に焼き付いてるが、緋荼里は落ち着いていた。身内や顔見知りが巻き込まれなかったから、だろうか。
妹の言葉を聞きながら、自分の平然さに違和感すらあった。
「もう少し早かったら、お父さんいたのにね。入れ違いなんだもん」
「仕方ないよ。稼いでもらわないと、こないだの服おじゃんだから、お小遣い欲しいし」
「もー……はい、トースト焼けたから食べて」
ハムエッグにトースト、簡単なサラダ。いつもの朝食、いつもの成分無調整牛乳にホッとする。日常のありがたみは、こういう変わらない食べ物にこそあると、緋荼里は心の中で頷いた。
クセでテレビをつけると朝のニュースをやっていた。カツラ疑惑のキャスターが、油っこい口調でニュースを解説する。
今日の中心話題は、地方で起きた無差別殺人について……つまり緋荼里たちが遭遇した事件のことだ。愛護から表向きは無差別殺人として処理されていると聞かされていた。
凶器は電動工具の一種で、襲われた人は生きていたとしても身体の欠損が激しいという。犯行時刻のものとされる監視カメラの映像、護送される犯人の映像、その犯人について人となりのインタビューが続く。
映像に合わせて、キャスターやコメンテーターがとくにありがたみもない批評を述べていく。もう一度事件当時の映像が映ったところで、美樹がテレビのチャンネルを変えた。
「どこもかしこも同じことばっかり。朝から気が滅入るよ」
今までも同じ感想をいだいたことはある。けれど、半ば当事者になっていれば、その思いは強まる。
忘れたいのに、と思うのだ。
「さっさと食べて、学校行こう。私、先生と話もあるし」
緋荼里は言いながら、食パンを牛乳で流し込む。どこまでの人が真実を知っているのだろう。表向きに用意された話を皆、信じている。
今までも、そして、これからも。
塵も積もれば山となる。
慣れ親しんだ慣用句だ。誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。少しの物事でも積み重ねれば大きくなることの例えだ。
友達との何気ない会話から生まれる違和感も積み重ねれば、強い負荷となって頭にのしかかってくる。
「それで、緋荼里は犯人の姿は見てないの?」
「怖くて動けなかったし、美樹を守るので必死だったから」
悪気のない好奇心と口を開けば言葉が飛び出すのが、青柳神奈の人となりである。ヘアピンで見せるデコの下、神奈の目は燦々と輝いていた。
「いやしかし、災難だったね。私ならショックで一ヶ月は学校をサボ……いや、復帰できないでいるね」
「神奈のほうが、次の日には復活してそうだけど?」
違いない、と神奈は笑い声を上げる。こんなことをいう神奈を緋荼里は、軽く受け流す。
彼女がいかに心配してくれていたかは、目の下に出来たくまを見ればわかる。プラス、神奈は泣きはらしていた。
「それにしても、犯人は憎いね。無茶苦茶じゃん!」
「そうだね」
緋荼里は話を合わせるが、歯切れは悪い。幸い、神奈はやっぱり嫌なことを思い出すからだと思ったらしい。
この話題を打ち切ってくれた。けれど、そうじゃない。緋荼里は喉元まで出かかった声を引っ込める。
犯人なんていない。全ては、半透明のサメの仕業だ。そんな与太話を誰が信じるだろうか。昨日の今日で、サメだなんていうと確実に病院送りだ。
海が比較的近いとはいえ、サメが出たとは聞いたことがない。
「それでさー、勝己せんせーがー……って聞いてる?」
「あ、うん。勝己先生がどうしたの?」
「調子戻ってないなら、休んだほうが」
「大丈夫だって、ほら、さっさと行くよ!」
あるいは神奈にはカラ元気に見えたかもしれない。それでも、神奈は深く何かを聞いてくることはしなかった。凄惨な事件というストーリーが、都合よく機能していた。
緋荼里の通うJ県立百々道高等学校は、住宅街として切り開かれた山の上にある。もとはこの辺りを統べる武将の城が建っていたらしい。
郷土史を学ぶ授業で、緋荼里はそんな話を聞いた。宅地化が進んでも、鬱蒼と生い茂る木々が消えたわけではない。校舎の裏手には、いわゆる山らしい山がなみなみと続いている。
そういえば、あのとき真魚が持っていたサメも緑の液体に浸されていた。あのサメはどういったサメなのだろうか。
「おい、聞いてるのか早乙女?」
「え、はい、何でしょう」
緑に吸い込まれた意識が、男の声で戻ってきた。目の前では、緋荼里の担任である勝己が眉をひそめている。
「調子が……」
「大丈夫です。というか、先生も神奈と同じことを聞くんですね」
「担任だからもあるが……この学校で直接巻き込まれたのはお前ぐらいだからな」
「そうなんですか?」
緋荼里が覚えている中でも、被害者自体はそう多くない。目撃者には学生っぽい子もそれなりにいただろうが、中心からは離れていたのだろうか。
もしくは、センターがいうところの処理だとか調整がなされたか。今考えても答えは出そうにない。
鎌倉さんに聞いてみようか、と緋荼里はまた意識を緑に流していた。
「全校集会で、不用意な質問はするなと釘はさしてあるが……おい、またぼうっとしてないか?」
緋荼里は申し訳なさそうに笑いながら、
「補習とか宿題が増えるのに憂鬱な気分なだけですから」と手を振った。
「そうか。まぁ、いっても二日だ。風邪で休んだのと変わらんさ」
精神的に問題がなければ、ノートを写すぐらいで構わないと担任は告げる。むしろ、補習より質問や周りの反応に対してあまり過敏にならないよう注意を入れた。
「わかってます」
肩をすくめて、緋荼里は一礼をする。職員室を出ると神奈が、待ってくれていた。
「どうだった?」
「とくに、なにもないよ。補習もなさそうかな」
うらやましいなー、日頃の行いだなーと適当に唇を尖らせる神奈に緋荼里は、
「神奈は勉強しなさすぎ」
ノートを借りる相手から、神奈は除外される。もはや神奈もわかっているのか、もう一人のクラスメート白樺ひさぎの名前を出すのだった。
「じゃあ、ひさぎちゃんに借りよう―!」
白樺ひさぎは、神奈と違って勉強好きな学生である。グループを作ってといわれると、緋荼里、神奈、ひさぎ……それから赤沼智里の四人でつるむ。智里はホームルーム開始の数分前に滑り込んで来ることが多い。
教室に入ると、ひさぎは窓辺の席でいつもどおり本を読んでいた。
「ひさぎ、今日は何読んでんの?」
読書中だというのに、お構いなしに神奈がひさぎに声をかける。小さな溜息とともに本を閉じたひさぎは、「今日は早いのですね」と神奈を見上げた。その視界に緋荼里が映ったのだろう。目を見開き、すぐに顔中の筋肉を弛緩させた。
「おはようございます。心配しましたよ、早乙女さん」
「おはよう、ひさぎ。心配かけてごめんね」
お体はと二口目に聞いてきたひさぎに、全身を動かして元気さをアピールする。その様子にひさぎは肩の力を抜いた。
「顔色も悪くはなさそうですね。何よりです」
「本当だよ……で、本題なんだけどノート貸してくれない?」
緋荼里より素早く神奈がひさぎに聞いた。
「それは早乙女さんに……ですわよね?」
「ついでに私も写す!」
「ちょっと、神奈。あんたは昨日も学校来てたんじゃないの?」
自信満々に告げる神奈を、思わず緋荼里が問いただす。神奈はいやーと頭をかきながら、堂々と「寝てた」と言い放った。遅刻早退欠席なしという健康優良児も、授業中に寝るのなら考えものだ。
「とりあえず、早乙女さんには貸してあげます」
差し出されたノートを素直に受け取る。神奈はひさぎに抗議していたが、一度怒られるべきだと緋荼里とひさぎ、ダブルに言われて黙りこくった。もっとも、緋荼里がノートを写している横で神奈もノートを広げていたのだが……。
ひさぎは特に事件のことも追求せずに、再び本の世界に没入していった。
そのあとはノートを写してる間に、入れ代わり立ち代わり男子も女子も事件のことを聞きたそうにやってきた。
たいていは犯人を見たか、という質問だったのだけれど、見ているわけがない。存在すら怪しいのだ。
見ていない、必死だったから。
この二言と困ったような曖昧な表情で、ほとんど全て質疑応答は断ち切られる。中には重ねて心配そうに言葉をかけてくるものもいた。
「大丈夫」とやはりぎこちない笑みを浮かべれば、無理しないでねとかよかったとか適当な返事をして去っていくものだ。
「もー、みんな全校集会で注意されてるのに」
ノートから目を離さずに、神奈は頬を膨らます。仕方ないよと緋荼里は神奈を抑えた。誰しも何らかの事件が身近で起きたら、知りたいと思うものだ。緋荼里も神奈が巻き込まれていたのなら、聞きたいと思う。
「そういうものなのかなー」
神奈は納得しきれてない声を上げながら、緋荼里が写し終わったノートを奪っていった。
「うへぇ、もう時間ないよ」
「おはよう〜」
焦る声に重なって、赤沼智里が教室に飛び込んできた。乱れた髪と息を整えながら、智里は緋荼里をみとめると安心したような表情を見せた。
「おはよう、智里」
「緋荼里ちゃん、もう大丈夫なんだね〜」
何人目かわからないリアクションに、何回目かわからない応えを返す。
さらに智里が何か聞こうと口を開けたところで、勝己先生が入ってきた。慌てて席につく智里に、あとで、と口の形だけで伝えるのだった。
結局、合間の休み時間はノートを写すのと質問したがりの対応に追われた。昼休みは神奈たちと一緒だったから近寄る者はなかった。
それでも、廊下を歩いてるとヒソヒソ噂をされたはした。
こういうことは、得意じゃないが気にする質でもない。人の噂も七十五日、棹もいずれは川に流されるのだ。そういう、ものなのだ。