3、SBC
早乙女緋荼里が目を覚ます、たった十分前――。
白い壁紙に囲われた執務室の中央で、今宮早苗は書類を睨みつけていた。小奇麗にまとめあげた髪と知的に見える顔立ちは、彼女がある程度できる人間だと思わせるのに十分な機能をはたしている。実際、彼女はこのシャークブラウジングセンターでも重要な地位を得ていた。
早苗は書類から顔を上げると、変わらず無愛想な面を愛護に向けた。執務机を挟んで、正面に立つ愛護は失笑を浮かべていた。
「早苗ちゃんさ。あんまり、不景気な顔してると老けちゃうよ?」
「セクハラですよ、鎌倉第三部隊長?」
「はっは、そりゃあいけないな。うん、改めよう」
軽妙な笑い声はあからさまに反省の色を浮かべてはいない。早苗はため息をついて、眉間のシワを深くした。
「んで、報告書のとおりだけど……どうする?」
早苗が睨みつけていた書類は、早乙女
緋荼里に関する調査報告書であった。そこには彼女の簡単なプロフィールから、消された過去、あまり歓迎されない事柄にいたるまで連ねられている。
最も重要なのは、緋荼里がセンターに収容されてから行われた検査結果だ。曰く、彼女の瞳はサメであると告げていた。センターが保持する精密な、あまりにも精密な検査の結果だ。これがひっくり返ることなど、世界が終わった後に復活でもしない限りありえない。
「早苗ちゃんの決定に俺は従うつもりだ」
などと愛護はのたまうが、結局のところ責任の所在を早苗に押し付けているだけだ。早苗にとって愛護は年上だが、役職は下になる。これも愛護自身が若者こそ上に立つ経験を積むべきだ、苦労をするべきなんだと熱く主張した結果という噂もある。実際のところ、早苗以上の上役から愛護が好かれていないだけだろうが。
こういうところが、早苗も気に食わないでいた。何でもない顔で早苗に決断を迫る。今、早苗が決めなければならないのは、一人の少女の人生だった。早乙女緋荼里を終了させれば、彼女が持つサメは活性化することはない。だが、このサメが緋荼里という少女の人生を丸ごと刈り取るだけの重みがあるのか……。
「彼女を観察処分に処すのは、無理なのでしょうか。私にはそれが一番だと思われます」
「すでに一度経過観察期間を経ている。彼女は、三度サメに遭い、三度命を救われた。それだけで特異な存在であるといっても過言じゃない」
わかっているはずだ、と愛護はサングラスの奥で早苗を見つめた。瞳は見えないが、愛護は視線を早苗の目から外さないだろう。不可視の威圧感を感じながら、早苗は苛立たしげに机を指で二回叩いた。
「少なくとも……記憶消去はうまくいっていた」
「だが、今回は目が醒めちまった。文字通りになぁ」
愛護が一段とボリュームを上げた。わざとらしく両手を上げながら、戯けるようなポーズすら取る。机は再び、二回音を鳴らした。
「危険性は皆無です。彼女が……サメと関わらなければ」
早苗の声は、愛護とは対照的に小さくなっていく。緋荼里が過去に接触したサメは、いずれも高危険度を誇るサメであった。そして、今回もまた高い危険度を研究チームは示した。彼女の16年の人生で、三度である。
早苗自身、わかっているのだ。緋荼里をサメと無関係で居続けさせる方法は、サメがこの世にいる限りありえないのだと……。
「……早苗ちゃん。何なら、俺が責任を引き受ける。けどな、決断は君がしなきゃならない。これから先、こんなクソ見てぇなこと山ほどあるんだからよ。これしきの決め事が嫌ならその引き出しに入っている青色の錠剤を飲むんだなぁ」
逡巡する時間すら与えないと、愛護は早苗の背後にある時計を見上げた。文字盤のない壁掛け時計の針は、かちりと音を立てて動く。早苗はこの時計が気に入っている。時間という狭間を感じさせないからだ。
それでも、秒針は動き、分針は時を刻む。
「特例番号469にもとづいて、早乙女緋荼里にエージェントの打診をしてください。前例を求められた場合、個体番号111『サメユメ』の事例67を参照するように。多少のケース違いはありますが、日本支部にはそれで押し通せます」
「打診が拒絶された場合は?」
一瞬の間、早苗の瞳が揺らぐ。それでも、愛護が先を促す前に早苗は口を開く。
「対象のサメを収容するため、早乙女緋荼里の目玉を確保すること。これには彼女の同意を必要としません。通常の手順に基づいて、サメの確保に努めてください」
ただし、とコンコンと机を指で叩いて早苗は結ぶ。
「その際は彼女の精神的安定に最大限つとめてください」
早苗の指が机から離れる。眉間のしわが和らいだように見えた。愛護は、わかったとだけ伝えると形だけの敬礼を見せて振り返る。彼が出ていき、扉が閉まる音が響いた。数秒の間、秒針の音だけが室内に響く。
力強い嘆息が、静寂を破る。早苗は机の上に突っ伏しながら、誰にでもなく「くそったれ」と呪詛を振りまくのであった。
緋荼里は早苗なる人物のことを、まだ知らない。当然、彼女が決断した内容も知りはしない。緋荼里にとってわかっていることは、自身がサメという超常的存在と戦う仲間になってほしい。そう同級生の少女から告げられたということのみだ。
だから、
「どういうこと?」と説明を求めるのは仕方がなかった。
それによって、真魚が面倒くさそうな表情をしたとしても、だ。緋荼里に今、一番必要としているのは情報だった。少なくとも、彼女はまだ一般人だと自身を断じているのだ。受け入れがたい絵空事が語られるだけの背景は彼女の中にはない。
「……わかった」
至極面倒くさそうに真魚は頷いた。真魚が浮かべた表情と、二人のやり取りに愛護は思わず微笑を浮かべていた。いや、そんな綺麗な言葉を使うのはもったいない。彼は、にやけていた。
緋荼里か真魚が愛護を見れば、いの一番にドン引きしたことだろう。中年オヤジのよくわからないニヤつきは、年頃の少女にとって忌避対象の一つなのだ。
幸いにも二人の視線は愛護から外れていた。真魚は一心に緋荼里へ熱い視線を注いでいたし、緋荼里は真魚の腰回りを凝視していた。
眼球が鈍く痛みを発するほどである。実際に緋荼里が見ようとしているのは、真魚ではなく彼女が後ろに隠したサメなのだ。緑色の液体に浸された、一匹のネコザメの姿をした「サメ」である。
「そんなに見つめられると、照れるわ」
わかっているのかいないのか、おそらく前者であろう真魚はぽつりと告げる。本気で照れているのか、冗談なのか。やはり前者らしい真魚を、緋荼里は軽くいなす。
「ごめん。けど、何か、視線が動かせない……」
意識を集中して、真魚の腹部から目をそらそうとする。まるで眼球だけが緋荼里の制御を離れているかのように、いうことを効かない。厄介なことに頭ごと動かそうとしても、眼球の力が勝るのだ。まぶたを閉じても、閉じ続けることができない。
あの半透明のサメを素早く見つけたように、緋荼里の目玉は「サメ」に執着していた。汗が額に滲み、頬を伝って顎から落ちる。空調の風は寒いくらいだというのに、頭が沸騰しそうだ。
「あなたの目もまた、サメだから」
さらりと真魚は耳を疑う言葉を吐いた。緋荼里は眉をひそめた。真魚から続けての説明はなく、緋荼里もまた混乱ゆえに言葉を繋げないでいた。
噛み合わない二人を前にして、愛護は笑い声を噛み殺す。沈黙が降りた二人の間に身体を割りこませる。
「緋荼里ちゃんさ、俺が間に割り込んでも視線ぶれないよなぁ。何でだと思う?」
「え……と……」
「薄々気づいてるんじゃないかなぁ」
緋荼里の顎先から汗が床に落ちた。震える唇を開いて、緋荼里は愛護の問いかけに答えるべく声を発する。考えるまでもなかった。
「私の……目がサメということですか?」
「そうだ」
即答だった。
愛護は一歩進んで、緋荼里と目を覗き込む。緋荼里の目は黒目が後退し、全体的に白く濁っていた。霞んで薄い灰色になった瞳が、愛護と真魚の後ろへ狙いをつけている。
愛護は、真魚の名前を呼ぶとビンを外へ持っていくように告げた。緑色の水に満たされたビン、そしてネコザメ。扉から出ていくまでの間、緋荼里はサメの姿を追った。
無害そうなサメだった。
扉が閉まると同時に、緋荼里は大きく息を吐いた。圧迫感から解放されたとき、人はしばらく呼吸に意識を集中させる。
緋荼里は自身の息が整ったのを確かめると、愛護を見上げた。瞳は黒みを経て、通常の人型生物と相違ないものに戻っていた。
「……あのサメは?」
「簡単にいえば、緑の粘液を作り出すサメだ。あの粘液は意外と便利でな、植物の生育に良好な結果を与える。だが、まぁ、それは今はどうでもいい」
そう、どうでもいい。
「君はサメ化した目と付き合っていかなければならない。常にサメを追い続ける目とね。残念なことに我々の現在の技術では、君の目をもとに戻すことは不可能なんだなぁ」
エージェントになることで、力のコントロールはできるようになるかもしれない。また、サメの目が緋荼里自身を食い始める可能性がゼロとはいえない。安全かつ迅速に対応するためには、エージェントであるのが最もよいのだと愛護は説明する。
「悪いが……あまり時間がないのでね。決めるなら、今だ」
サメ……という単語を聞いた時から緋荼里の胸がざわついていた。何故、という疑問に彼女の記憶は答えてくれない。エージェントになれば、神楽真魚のこともわかるのだろうか。彼女のことを特別知りたいとは思わなかったが、何か、心のなかで引っかかるものがあった。違和感としか言いようのないものだが、緋荼里は直感を信じるタチであった。
知的興奮が緋荼里を支配していく。ぐるぐると巡る思考が、高速回転の末に振り切った。こういうとき、彼女は自分に言い聞かす。
「……なるようになるさ」
小さなつぶやきは、愛護には届かない。一度口を紡いで、つばを飲む。
「お受けします」
緋荼里ははっきりと告げ、愛護を見つめた。サングラスの位置を指で直しながら、愛護は手を差し出した。
「ようこそ、シャークブラウジングセンターへ。我々は君を歓迎する」