2、知らない天井
目を覚ますと、清潔にすぎる白い天井が見えた。家の天井はクリーム色だし、学校でもここまで白くはない。保健室のベッドで寝た時に見上げた天井は、薄汚いくらいだった。
「……ここは、あの……なんだっけ」
有名なセリフを思い出そうとして、つぶやきが漏れた。
「知らない天井は使われすぎて、もはや寒いだけだ」
夢心地の気分が、男の無愛想な声で醒めていく。ゆっくりと身体を起こしながら、声の主を見た。黒かった。メガネをかけていない事に気づき、サイドテーブルの上からひったくる。
視界が晴れ、黒い塊は葬式に出るには黒すぎるスーツに、黒いネクタイだったことがわかる。サングラスまで黒く染め上げていた。きっと、パンツも黒だろう。
「あの……」
「半日寝ていたとはいえ、無茶をしたんだ。楽にしてくれ、俺も楽にする」
パンツも黒いんですかと言うわけにはいかず、戸惑う緋荼里を前に男はソファに深く腰掛けた。周りを見れば、天井と同じ真っ白な壁が四方を囲っていた。スライド式の扉が、男の向こう側に見える。窓はなかった。
男が腰掛けるソファの前には、応接室にあるようなテーブルが置かれていた。そのテーブル上に書類が広げられている。何が書いてあるのだろうかと目を細めたが、素早く男が片付けてしまった。
「あー、まずは水でも飲むか。起きたばかりだと喉が乾くだろう」
思い出したように手をたたき、男は立ち上がる。緋荼里の寝ているベッド脇に小さな冷蔵庫があった。中からミネラルウォーターのボトルを取り出し、緋荼里に手渡す。確かに、喉が乾いていた。
怪しさ爆発の状況だが、逃げられるわけもない。我慢したところで、好転するようにも思えない。キャップを開けて水を口に含む。
「毒は入ってないみたいね」
「無味無臭だったら、わからんぞ」
「そんな毒を用意するくらいなら、私はすでに死んでいるんじゃないかな。映画だとこういうやり取りって、よくあるよ……ありますよね」
「無理に敬語を使ってもらわなくても、いいぞ。君ぐらいの少女からのタメ口は、悲しいことに……慣れているからなぁ」
少女と聞いて途端に記憶が蘇った。黒髪を振り乱しサメへと斬りかかる少女の姿、彼女の足元に広がっている血だまりに、誰のものかわからない腸や腕が転がっている。サメが出てきた瞬間まで引き戻され、身体が小刻みに震え出した。手にしていた水のボトルが、口を開けたまま落ちかけ……男が受け取った。水は一滴もこぼれなかった。
ごく普通の少女が示すであろう反応を、早乙女緋荼里は示していた。思い出したくない記憶のフラッシュバックと喚起される恐怖に身体が支配されるのだ。あの凄惨な現場で、サメを二度も殴った少女であれば、もう少し豪胆かとも思っていた。
緋荼里の平凡さを見て口元が綻ぶのを、男はとどめた。転がっていたキャップをボトルに付けて、サイドテーブルに置く。少女を見下ろして、男は問うた。
「怖いか?」
「……とても……」
絞りだすような声と荒い呼吸。万が一に備えて、医療スタッフは扉の向こう側に待機させてある。もっとも、緋荼里には肉体的損傷は皆無である。医療スタッフが担うのは、精神が壊れるより先に麻酔を打つことだけだ。
できれば、そうならないことを男は望んでいた。
「サメに対する恐怖は、人間が起こす至極まっとうな反応だ。誇っていい。君は人間であって、サメではない。決して、サメではないのだから」
「サメ……そう、あのサメはなんなの。ここは、どこ……なの?」
「その質問に答えるには、少し時間がかかるだろう。その前に自己紹介をしておこうか。俺の名前は鎌倉愛護……あいごっていう字は愛護団体のと同じだ。やっていることは、真逆もいいところだがね」
「鎌倉さん、ですか」
「愛護さんの方が嬉しいね。名字を含めて偽名だから、愛護って呼ばれるのに慣れているんだ。おっと、偽名だからって信用出来ないと短絡的には決めつけないでくれよ。違うな……信用されるような立ち位置に俺はいないわけだから、君は俺を疑ってくれてかまわない」
ただし、と前置きをして愛護は続けた。
「君が見たものは紛れも無く現実であり、これから俺が話すことは世界にとって真実だ。聞いてしまったとしても、後戻りはできるから、その点は安心だがな。世の中の物語は、真実に対して重みが強すぎる……そうは思わないか?」
「愛護さん、うるさいっていわれませんか?」
「……ときどき」
愛護は緋荼里から顔を背けた。
申し訳ないような気分になったところで、体の震えがおさまってきた。情景を
「えと、私の名前は早乙女」
「緋荼里ちゃんだね。J県立百々道高等学校1年。父親は早乙女真中、妹は美樹。あぁ、そうそう、妹ちゃんには怪我はなかったよ。君が守ったおかげというわけだ」
「美樹は無事なのね……よかった」
「我々が君のことを知っているのには、驚かないのか」
「私、未成年だからここにいるためには親に説明がいるでしょ。妹は一緒にいたから、名前ぐらい知ってても不思議じゃない」
「そりゃそうだ」
それに、と緋荼里は自嘲を浮かべた。
「あの出来事の後なら、何があってもおかしくない。ここが、非日常なところっていうのも……なんとなくわかるし」
サイドテーブルから再びボトルを手にして、こくこくと飲み下す。空になったボトルを握りつぶして、緋荼里は問い直した。
「で、ここは病院?」
「間違いではないが、当たってもいない」
「だったら、研究施設かしら……真っ白ってかなり悪趣味よね」
「それには同意する。俺もこの部屋は落ち着かんが、わざとそうしているのかもしれん。君に対する心理的な圧迫を与えるために、ね」
随分と緋荼里の態度はくだけていた。まだ表情に陰りは見えるものの、気丈夫ではあるようだ。本題に移ってもよいだろう。
「ここがどこかを説明するためには、君の目の前で起こった現象について話す必要がある。単刀直入にいえば、あれはサメだ」
「確かに……サメだったけど……」
「正確に言えば、幽霊サメと我々が呼称することにしたサメのことだ」
「だから、サメだったけど……」
「君の言うサメは一般的な生物を指しているのだろう。テレビや映画などに登場する海洋生物のサメを思い浮かべているのだろうな。だが、我々のいうサメは人智を超えた超常的生物や現象のことをいう」
数秒の間をおいて、
「はぁ?」
思い切り緋荼里は眉間に皺を寄せ、かすかに愛護から距離を取った。
「それらは、何故か海洋生物のサメと同等の姿を取るかサメが必ず関与している。故に我々は、サメと呼んでいる」
緋荼里の顔面筋は固まっていた。突拍子もない話を信じろという方が、難しい。愛護自身もかつて同様の説明を受け、まったく同じ反応を示したのだ。誰もが通る道を彼女もまた通ろうとしている。
その道の先にあるのは、残酷な真実だ。
「話を続けるぞ。ここはそうしたサメを観察し、凶暴であると判断された場合には排除を行う団体、シャークブラウジングセンター。通称SBCの施設なのさ」
「どこまでが本当?」
「どこまでも本当だ。残念ながら、真実はいつも我々の理解を超えているものだよ」
間髪入れず放たれた緋荼里の質問に、即座に答えた。よどみない返答だった。
「それで、私たちを襲ったのも愛護さんがいうのところの……サメってわけ」
愛護がうなずきで肯定する。
「説明になっていない気がするけど……結局のことろ、あのサメは何なの」
「わからん。半透明で水の中を自由に行き来できる性質を持っていることは、今回の接触で判明した。だが、奴がどこからきて、どう殴ればいいのかはさっぱりだ」
「頼りにならない団体ね。おかげで、たくさん死んじゃったわけ?」
「申し訳ない」
サングラスの奥で、愛護の瞳が揺れた気がした。唇を噛み締めすぎて、若干血が出ている。手で血を拭い取ると、愛護は続けた。
「被害が出てからしか、対処できないことが多いんだ。やつら……サメは神出鬼没で予想の斜め上からしか出てきやしない。だが、これは言い訳にすぎないか」
団体の力不足だ、と愛護は言い切る。その声はかすれていた。混乱した頭のなかで緋荼里は、少なくとも今回の件に後悔はしているらしいと理解する。信じて欲しいならサングラスくらい外して欲しいものだとも思った。
「それで、私がこうして……その、サメなんちゃらセンターにいるのはどういうことなの? あなたの話を聞く限り、私みたいな一般人に知られちゃいけないみたいなんだけど」
「それは……」
愛護が口を開いた時、彼の背後で扉が開いた。コツっと靴音を立て、黒髪を広げながら一人の少女が入ってくる。あのときと同じセーラー服を身にまとった、神楽真魚だ。無表情な顔が、緋荼里の無事を認めるとかすかに微笑む。
だが、緋荼里の視線は真魚の表情を捉える前に、胸元へ注がれた。眼球が緋荼里の意識に反して動いたのである。自分の体が自分の思い通りに動かない感覚。あの半透明なサメを見た時と同じだ。
彼女の胸元には、金魚鉢ほどのビンが抱えられていた。蓋がしっかり閉められたビンは、薄く緑づいた液体で満たされている。液体の中に一匹のサメがいた。円筒形の身体にぷっくりとした頭部のヒレは一段と高い。いわゆるネコザメ科のサメに似た姿をしているが、サメに詳しくない緋荼里には、それがサメであることしかわからなかった。
「このサメは悪い子じゃないよ。いつかは、殺すけど……ね」
真魚が物騒なことをいいながら、ビンを机の上に置く。緋荼里の視線がビンを追っていることを確認すると、隠すようにビンの前に立った。視界からサメは消えたはずなのに、視線はいまだにサメのいる場所から外せないでいる。
「さて、単刀直入にいうわ。早乙女緋荼里、あなたは私たちの仲間になるの。SBCのエージェントにね」
真魚の表情を緋荼里は見ていない。そして、真魚もまた緋荼里を見ていなかった。彼女の目は遠くを見つめていた。過去――かつて彼女と親友であった頃の自分たちを見ていたのである。