第百七話 I want to forget.
白い、大きい屋敷だった。
見渡す限りの広い屋敷。この屋敷意外にこの地域には何もないといっても過言ではない。
そんな今更特筆する点もない、見慣れた屋敷。
その外観のどこにも穢れなどない。あえて言うならば、主の心が、穢れている。
息子を息子と思わず、ただ不潔な小動物だと考え妻を妻と思わず、ただの下僕以下と考える、そんな浄身分の人間が主人の屋敷だった。
あのころから変わらぬモニターを通して顔を見せえてから数秒、大きな門が開かれる。
数年ぶりに戻ってきた家の通路には使用人が並び、ただ頭を下げ続ける。かけられる言葉はありきたりな言葉だけ。
オカエリナサイ、ボッチャマ。ヨクゾオモドリニナラレマシタボッチャマ。
故にここは醜い。汚くて穢れていてすべてを巻き込む。けれど、自分はそんな醜いものの息子でもあるのだ。逃げられないとわかっている。だけれども、巻き込みたくはない。
「父上は、どこだ」
そうだ、俺は汚くても醜くても親とは違う生き方をしてやる。せめてだれかの役立つように生きてやる。
亮祐はそう、決心してこの場に足をとどめていた。
「ただ今御父上は会議に出席中でございます。もうすぐお帰りになるかと、亮祐坊ちゃん」
執事の一人がなれなれしく話しかけてくる。彼、ではない、全く別の執事。
「その前にその御身を清潔にしていただきませんと、ぼっちゃま」
小太りの乳母が柔和な笑顔で話しかけてくる。
それすらも、醜い。
この場所にいる者は俺を含めてすべて醜い。
だから俺は逃げた。醜くありたくなかったから。
けれど、どこまで逃げても逃げられることはなかった。血からは逃れられなかった。だからせめて、慕ってくれていた者たちを守っていたいと思う。
親のやろうとしていることには、気付いているから。
仲間が傷付けられることは、わかっているから。
切り裂きジャック中片亮祐の父親は、切り裂きジャックの重鎮、議長に身を置き、糸つの会社の社長としても身を構えるその人だった。
過去に病院で出会った人物と亮祐に血の繋がりはない。ただそこに残されているのは、育ての親であるという事実で、今、これから会おうとする父親との絆は、金、そして呪いのように強引に押し付けられている血筋だけだった。
一度も遊んでもらった覚えはない。
一度も褒めてもらった覚えがない。
一度も祝ってもらったことがない。
一度たりとも怒られたこともない。
そんな環境で、亮祐は育っていった。
そして今、その環境から逃れた亮祐は再びその環境に身を投げようとしていた。
できることなら、こんな記憶は消し去りたいと、何度も何度も願った。
「いっただっきまーす!!!」
目の前に並ぶのはベーコンエッグとトースト。今日は洋風の朝ごはんらしい。
無事進級することができた平田竜太は喜びをかみしめながら暖かいトーストにかじりついた。
「でさ、いつ帰ってくるの!?」
竜太の母親はいつも以上に微笑んで答える。
「今週末ぐらいだって……」
すでに母親の意識は花畑だ。近くに川がないことを祈る。もし近くにあったら…。
竜太はふと壁にかかるカレンダーに目を向ける。
週末の一日だけが赤ペンで囲まれていた。ただの丸ではなく、ハートマークで、数字が囲まれていた。
世界各国を旅するような形で働く竜太の父が家に戻ることはめったにない。母親と毎日のように電子メールのやり取りをしているようだが、竜太はそこまで話すこともあるわけでもなく、家に帰ってきたときに会話を交わす程度だ。
三十回の咀嚼を終えた竜太はトーストを飲み込み椅子に掛けてある制服をつかみ、駆け出す。
すでに時計の針は七時五十二分をさしていて、走らなければ遅刻する時間をさしていた。
行ってきますと玄関から飛び出し、走りながら学ランを着る。走りながらボタンを留め、靴を何とか履きなおす。
やばい。この時点ですでに通常登校時刻から逆算するに十分は遅れている。
走っても間に合うかどうかというギリギリな時間だと、右腕のジャックが冷静に液晶の数字を変えて教えてくれる。
新学期草々遅刻というのはなるべく避けたいものだ。
そんないやな記憶は消し去ってしまいたい…。
教室で友達と談話する理緒は日常の平和をかみしめていた。
いつもなら拳を握る手は、軽く友達を叩き、いつもなら噛みしめる唇は柔らかく微笑んでいる。
これが、平和だなぁとしみじみと思う。
それと同時に恐怖も感じる。次はいったいいつこの平和は壊されるのだろうか。次はいったいいつこの平和に身を置けるのだろうか。
考えれば考えるほどに理緒の頭に話は入ってこないのだった。
そんな思い考えはこの財布の中身を減らしてしまった原因とともに忘れ去ってしまう。それに限る。
ランドセルがガチャガチャと音を立てている。
それと同時にアスファルトの地面を靴が走っていく音。さらには荒い息。
そして、それを追いかけるように続く一定のテンポで音を刻む何か。
その何かは右手に鍵を持っていた。
鍵からは絶えずに音が響き渡る。低く、重いまとわりつくようなメロディー。
その鍵を持つ何かは長い丈のパーカーを着て、フードで顔を隠していた。
追われているのは二人の小学生。
二人は必死に逃げていた。
突然現れ、僕は死にたくないんだと話しかけ、懐から出した鍵で一瞬にして舗装された道路を変形させた何かに、追われていた。
細い路地裏を右に左にまた右へ。
どれほど逃げようが何かは確実についてくる。どれだけ早く逃げたとしても、何かは変わらぬ一定のテンポのまま、確実に近づいてくる。
すでに視界は涙でかすみ、足は限界を伝えている。
日頃の体力不足を解消しておけばよかったなと、こんな状況で痛感する。
走って走って走り抜けて場所は、何の変哲もないただの行き止まりだった。
足音は近づいてくる。
やがて、その足音は消え代わりに少年少女の悲鳴が響き渡る。
何かが持つ鍵は子供の命を吸い尽くし、老化させる。しわしわになっていく手は弱弱しくも鍵を離そうともがき、絶命していく。
残されているもう一人はその現状を見て、腰を抜かす。自分もああなる。回避できぬ運命。
乾いた音で地面に倒された友達はすでに息をしておらず、鍵は残された一人へと向けられる。
声にならぬ響きとともに、二人の子供は未来を奪われた。
何かは音もなく去っていく。手にした鍵を満足そうに眺め、なでながら。
それはまごうことなく、誰もが記憶から消し去りたいと考える黒鍵だった。
腰に下げた鍵を取り外し、誰も見てないことを確認してから昨日見たロボットアニメの主人公のように鍵をドアに差し込む。
この鍵があれで、この扉がそれならば俺はあいつとああなれるのになぁ…。
心の中で主人公のように決め台詞を叫びながら鍵を差し込み、回す。
何とも言えぬ心地よさとともに扉は開く。それから素知らぬ顔をして家に帰るのだ。
「ただいまー」
珍しく遅く帰ってきた祀を迎えたのはにっこりとほほ笑む鐵。
ヤバイ、見られてたのかもしれない!!!祀は表面に出さないものの内心は冷や汗がナイアガラの滝のようにだらだらと……。
だが鐵はお帰りーと返し、階段を上っていく。
………あっぶなかったー。祀はほっと安堵のため息をつく。
それから鐵と同じく階段をのぼり自室へと入る。
ベッドにぼすっと倒れ込むと枕を相手にしばらく格闘を続ける。
頭の中は昨日見た漫画原作のアニメでいっぱいだ。
演出とかいいらしいけど、やっぱりあれはあれがああだからあれなわけで…。
祀の頭の中には戦いという文字はなかった。普通の中学生を満喫していた。
にやけながら空想に浸っていると、突然扉が開かれる。
紋太だった。何も知らない、紋太だった。
「祀兄ちゃん、夜ごは……」
素早い動作では空気を読んだ紋太はゆっくりと何も見ていない顔で扉を閉める。
ガチャンッ……、と音は空疎に響いた。
違う違う違う違う!!!
祀は大慌てでベッドから飛び起きると紋太の後を追った。
なんだかんだで、今日も平和だった。
「ねぇ、佚榎、祀ってそんなキャラだったっけ…」
鉄は先ほど見てしまった祀のヒーロー風の一連の動作を見て思わず微笑んでしまった。
「っつかそれ、本人には言わない方がいいじゃねぇの?」
元祖空気の読めちゃったりする男、檜葉呀佚榎はさりげなく祀をかばっていた。
さすが、空気の読めちゃったりする男は行動一つとっても違う。
「いや、でもなんか…こういうのもなんだけど、かわいかったよ?」
途端にどたどたと走り音が聞こえ、扉は乱暴にこじ開けられる。
「何!?どんな祀が可愛かったの!!!どんなことしてたの!?」
自称灰色のイケない脳をもつ魔性の女こと凱史は口から汁をしたたらせながら息荒く、少年二人に迫っていった。
ちなみに、強引に開かれた扉に鍵はかかっていた。仲間という侵入者を拒むための立派な鍵が。
「うん、何もしてなかったよね、祀兄ちゃんは」
半ば丸め込まれむような形で紋太を説得した祀は一人今後の生活方法について悩んでいた。
嫌な記憶なら、作らない方がましだと、作られる物ではないと、痛感せざるを得なかった。
暗い地下牢の中で、一人の男はつぶやいた。
「俺は、決してやらないからな…」
日の照らぬ永遠の闇の中、男の前にはパーカーを着た何かが現れていた。
「君がやってくれなきゃ死んじゃうよ…。僕を殺したい?良いよ?でもね、その前に君の…」
何かは闇の中でくつくつと笑う。
「でもね、その前に君の家族が殺されちゃうかもね?」
何かは黒鍵を手でもてあそび男を監禁していた。
すでに男には元の見る影などなかった。彼の家族が彼を見たとて、それが彼であると気が付くはずもなかった。
その男が平田家の家長であることに、気が付くことなどありえなかった。
傍らに投げおかれているのは彼の大切なものだった。
平田竜太とその母親、つまるところ彼の嫁はその傍らで死を待つばかりの存在になっていた。
「イイよ、やらないなら、僕が殺しちゃう?」
視界が、大切な人の血で埋め尽くされた。
ただ、発狂することしか、出来なかった。
「ほら、死んじゃった?ね、もっかい聞くよ?やる?やらない?」
何かの問いかけに、意思を失った彼は頷くしかなかった。
「よく、出来ました?ご褒美は、君を生かしてあげるよ?」
必死に目で助けを請う息子の姿も、目に入らぬ彼の前で、息子すらも殺された。
「あはっ……あははははぁ~?」
何かは嬉しそうに踊りだす。
その手に持つ黒鍵の一部を深紅に染め変えて。
忘れたい…こんな悲劇は、忘れてしまいたいと、彼は意識を手放した。
なぜ、忘れさせてくれぬ?
「うまくいきましたよーアニキィー?」
パーカーのフードを外した何かは血で染めたかのように真っ赤な髪をした女だった。
さらに、彼が家族だと思っていた者たちも動きだし、皮をはぐ。
「うまくいった…。これですべたがうまくいくだろう。すべては、切り裂きジャックのために」
男がそういった瞬間、その場にいた彼を除く全員が目を閉じ黙想を始めた。
そんな中、突如一人のパーカーを着た何かが現れる。
「よくやったな…。さぁ、俺とともに始めようぜ、戦争を。シャガン率いる大軍団と、たかが数人の切り裂きジャックの戦争を」
シャガンは黒鍵を手に戻すと静かに笑った。
「許せないんだ。俺が助けたかった友達を殺した奴にとどめを刺したやつらを。あいつを助けるためにも、俺は仲間を殺したあいつを殺した切り裂きジャックの息の根止めて、助けてやるんだ。今度こそ、誰にも止めさせはしない。切り裂きジャックを、平田竜太を殺したやるんだ。あいつには死にたくなるような思い、してもらわねぇとなぁ…。だから俺は全てを壊す。腐った世界を、腐らせた生物を!!!」
シャガンの瞳は、灯りのない牢獄を不気味に照らしていた。
「忘れてぇな…。あいつの死に際の顔を…」
なんだかね、どこで区切って新しく黒鍵篇にしたらいいのか、わからないような感じになってしまった…。どうしましょ
ちなみに百八はまだ未定ということで。