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「……ロイド、大丈夫?」
ルフトへと向かう船の上、甲板に青い顔で座り込んでいるロイドに私が声を掛けると、彼は、
「……大丈夫……とは正直言い難いですが、お気になさらず……うぅっ」
と、口を押さえ、船の隅へよろよろと駆けて行った。
……確認したくはないけど、何をしているかは分かるわ……ご愁傷様。
フワフワを飼育する国、ルフトに向かうため、サキファ村を出た私とロイドは、私が乗って来たオルビアの王城付きの馬車で、まずは私の生まれ育った国オーダの、フランシス兄さんの元へと向かった。
ロイドは外国へ行くのは初めてらしかった。
というより、村を出るのがほぼ初めてに近いという。
サキファ村はのどかなオルビアの中でも特に山奥の小さな村なので、目に入るもの全てが珍しいらしく、オーダへの馬車で3日間の道のりも、彼は子供のようにしきりに流れて行く景色をきょろきょろと眺め、感心していた。
オーダに入り、フランシス兄さんと落ち合うと、3日間の行程の疲れを癒すため、私達はフランシス兄さんが家族と暮らす家に1泊厄介になり、お風呂を使わせてもらった。
いくら王城付きの、少なくともオルビア国内では1番のしっかりした造りの馬車で、休憩しながらとはいえ、ほとんどずっと座り続けて3日間なんだもの。
シャワーで汗を流して、湯船にも湯を張ってもらって、ゆっくり浸かって体をほぐさないと。
今度はルフトへの船旅が待ってるんだもの、体が持たないわ。
一方のロイドは、オーダに辿り着いた時点ではまだまだ元気で、オーダに1泊してからルフトに向かうという話になった時も、
「えっ?1日休憩を入れるんですか?俺なら、全然元気です。このままでも行けますよ」
なんて、上機嫌で言っていた。
ルフトへと向かう船を見た時も、大きな海を見た時も、初めて見る乗り物と景色に感嘆の声を上げていたのだけど、船に乗って何時間もしないうちに、彼の体に異変が起こった。
船も海も初めての彼は、勿論船酔いというものも知らなかった。
船に乗って初めて、身をもって知ることになったようだけど、分かったところで体調が改善される訳じゃない。
そんな訳で、先程からロイドはこの辺りをうろうろうろうろしているのである。
「ついさっきまでは元気だったのになぁ。まぁ、脱水症状にならないように、ちゃんと水分摂るように注意しろって言っておいてくれ」
ロイドの様子を遠くから見ていたらしいフランシス兄さんが言った。
ちなみに、商売で年に何回も外国へと出向くフランシス兄さんは勿論、私も船酔いはしないタイプである。
「ルフトに辿り着いた時には疲れ果てて、何も出来ないってことじゃなきゃいいんだけど」
それから、この旅には私も、フランシス兄さんも予想していなかった人が同行していた。
キール兄さんである。
モサモサのことを調べるために先日は協力を依頼したのだけれど、今回はフランシス兄さんから提案のあったルフト視察だったので、獣医の仕事もあるだろうキール兄さんには声を掛けていなかった。
けれど、フランシス兄さんから今回の視察のことを聞いたキール兄さんは『自分の意思で』今回の視察に同行を決めてしまった。
無理に同行しなくても大丈夫よと言う私に、キール兄さんはぼそりと言った。
単純に、フワフワに興味があるだけだ、と。
……さすが、兄弟の中でも1番の変わり者なだけはあるわ。
私がキール兄さんが同行することになった時のことを思い出していると、フランシス兄さんが、
「ああ、そうだ」
と何かを思い出したように言った。
「視察のことなんだけどさ」
ポリポリと頭を掻きながら、若干言いにくそうに切り出したフランシス兄さんに、私が最悪の事態を想定し、
「……まさか、ルフトに向かってはいるものの、実はちゃんと視察の約束を先方と取り付けてないとか?それとも、断られたとか??」
と聞くと、フランシス兄さんは苦笑して、
「ああ、違う違う。約束は取り付けてある。大丈夫」
と言った。
「たださ、先方の社長とは仲が良くて、モサモサのことも正直に説明して、簡単に言うと技術を盗ませてくれって説明はして。向こうも、モサモサでもしオルビアが成功したとしてもフワフワは負けないって自負があるから、構わないとは言ってくれたんだけど。でも、現場の職人達は自分達の技術を盗みに来るってことに、あんまりいい顔はしないかも、って言われたんだ。難しいタイプの職人も多いんだって」
「……じゃあ、どうするの?」
私が尋ねると、フランシス兄さんは、
「……だからさ、社長と、一部の人間は本当のことを知ってるけど、表向きは、取引先の社長である俺と、身内の人間の視察ってことにしてくれって言うんだよ」
「……それって、実際には身内じゃないロイドは、どういう扱いになる訳?」
何となく予想はついたんだけど、一応聞くと、フランシス兄さんは答えた。
「アンナ、お前の旦那……つまり、オルビア国王トレイス……ってことにしといた方が、無難じゃないかなぁと思うんだ。まぁ、実際には、現場の人間はこちらの言葉は分からないだろうけどさ。念のためな」
そんな訳で。
やっぱり、船を降りた時には疲れ果てていたロイドの休憩も兼ねて今度はルフトで1泊し、サキファ村を離れてから1週間以上かけて、私達はフワフワの加工工程を視察させてくれるという会社に向かった。
ロイドは、事情を説明し、トレイスになりすまして視察をするようにと話すと、最初は恐れ多いとしきりにアワアワしていたが、モサモサのために、覚悟を決めなさいと言うと、神妙な顔で、
「……僭越ながら、よろしくお願いします……」
と言った。何をお願いするの。何を。
「それでは、案内させていただきます。私は、秘書をしております、ローレンスと申します」
社長は出張中で留守らしく、対応してくれたのは、ローレンスさんという眼鏡をかけた秘書の女性だった。
彼女は、社長以外で事情を知っている唯一の人で、こちらの言葉も理解しているので、通訳の代わりもしてくれるらしい。
私の隣に立つロイドは、彼の持って来た服ではさすがに国王というには素朴すぎるので、フランシス兄さんが見立てた、ラフなりに洗練された感のある服に着替えている。
……実は、トレイス本人は服装には全く興味がなくて、オフの日にはロイドと変わらないような服を着てる時もあるんだけどね。
でもまぁ、海外視察ならこんなものかも。
私は最後の仕上げとばかりに、ロイドの腕に自分の腕を絡めた。
「アンナ様!?」
ロイドが動揺して叫ぶのを、私は人差し指を唇に押し当てて黙らせた。
「夫婦、なんでしょ?私達。こうしてる方が自然だと思わない?……ほら、しゃんとして」
「……ううぅ」
ロイドが困惑顔のまま、しかし素直に背筋を伸ばす。
……やだわ、ちょっと楽しいじゃない。
私が好きなのは勿論トレイスだけど、ちょっと年下の子を可愛がる女の人の気持ちがわかった気がするわ。
オーダへと向かう馬車の中で聞いたところによると、ロイドは20歳になったところで、私より2つ年下らしいんだもの。
私達はローレンスさんの案内で、まずはフワフワの飼育されている牧場に向かい、毛刈りの工程を見学させてもらった。
牧場には、当たり前だけどフワフワが何百匹も放牧されていた。
キール兄さんは無言のままでその光景を見つめているけれど、明らかに目が輝いている。
同じくじっとフワフワの群れを眺めていたロイドが小声で、
「本当にモサモサの小さい版、ですね。……モサモサより綺麗な、真っ白な毛をしていますが」
と囁いた。
確かに、放牧されているフワフワは、一様に真っ白な毛に覆われていて、灰色に近い毛に覆われたモサモサを見たばかりの私達には、似ているけれどまったく違う、とても美しい生き物に見えた。
この小屋の中で毛刈り作業が行われているところだと牧場長に説明され、中に入ると、ふわふわもこもこの毛に覆われた、モサモサにそつくりだけど、ひとまわり小さな生き物、フワフワは、小屋の中で一列に並べられ、1匹ずつ手作業で毛が刈り取られて行くのを待っている。
順番が来たフワフワは、作業員の男性の手で体を広げられ、一気に毛を剥ぎ取られて、丸裸になって行く。
いくらフワフワの個体数が全世界的に見て少ないとは言っても、フランシス兄さん曰く、ルフトでも有数のフワフワ製衣料を扱う会社なだけはあり、牧場内には何百匹ものフワフワがひしめいていた。
毛刈りの早さに言葉を失っていると、牧場長が得意げに何か言っている。
すかさず、ローレンスさんが、
「うちの作業員は見事でしょう。素早く、確実に刈り取らなければ、フワフワも暴れてしまってかえって効率が悪くなってしまうのですよ」
と通訳してくれる。
「使っている道具は、何か特別なものですか?」
今度はロイドが聞いた。
フワフワの毛を刈る作業員は、男性用の髭剃りに似た道具を使っているようだった。
よしよし、なかなか自然じゃないの。
「形は髭剃りに似ていますが、フワフワ用に改良されたものを使っています。この方がフワフワを極力傷付けず、スムーズに毛が刈れる、とのことです」
牧場長の答えを、またローレンスさんが訳して伝えてくれる。
出来れば、その道具、いくつか欲しいわね。フランシス兄さん、調達出来るかしら。
私がそう思いながら横を見ると、ロイドは、自分が実際にやるかもしれない作業を身に付けようとするように、真剣に毛を刈り取る作業を見ているようだった。
毛刈りの作業を見た後、次に私達が案内されたのは、刈り取った毛を洗浄する作業工程だった。
「先程刈り取った毛を、ここで洗い、綺麗にして乾かした状態のものを、糸に加工する工場に送って、糸にしています」
説明され、ロイドがまた真剣な目になる。
「フワフワの毛って、洗わなくても結婚綺麗にしてるように見えるけど、やっぱり洗うのね」
私が呟くと、牧場長が笑い、ローレンスさんに何かを告げる。
ローレンスさんは、牧場長が彼女に伝えただろうことを、またこちらに伝えてくれた。
「フワフワは高級品になりますから、毎日丁寧にブラッシングしていますし、パッと見は綺麗ですが、外で飼育しているので、汚れは付いています。それに、洗浄桶の中を見て下さい」
指し示されたのは、毛を洗浄している桶の中だった。
「油が浮いているのがわかりますか?見た目は綺麗に見えますが、フワフワの毛の内側には、脂がいっぱい付着しています。こうして洗わないと、使い物にならないんです。因みにこの油も精製して、化粧品に加工されています」
あら、化粧品にもなるなんて、お得ね。
モサモサも同じだったらいいんだけど。
私が思っていると、ロイドはあくまで真剣に、牧場長に
「洗浄には、何か特別な洗剤を使っているんですか?」
と聞いていた。こちらから聞かなくても、ロイドが自ら質問しているので、静かに感心する。
今度はローレンスさんが直接、
「アルカリ性の溶剤だったと思いますが、作ることはそちらの国でも可能かと思います。後で確認して報告させていただきますね」
と答えてくれた。
「あ、どうせなら化粧品の作り方も一緒に教えて」
私が言うと、彼女はまた頷いた。
モサモサから化粧品が作れたとしたら、村の女の人ももう少し興味を持ってくれるかしら。
牧場を出ると、ロイドは持っていたカバンから筆記具を取り出し、何かしら一生懸命書き付けていた。
「……何書いてるの?」
と尋ねると、ロイドは、
「今見聞きしたことを、忘れないうちにちゃんとメモしておかなければと思いまして」
と答える。
「牧場にノート持って行けば良かったのに」
「そのつもりだったんですが……国王様が実際に視察されているなら、現場で真剣にメモを取っていては、怪しまれるかと思いまして……」
思いがけない言葉に、私は目をぱちくりさせた。
「……確かにな。ちゃんと考えてるじゃないか」
フランシス兄さんに言われ、ロイドは照れ臭そうに笑う。
「……せっかく、王妃様がオルビアの為に尽力していただいて、祖父が大事にしていたけれど、村の人達には正直邪魔がられていたモサモサを、村の利益となるかもしれないと言って下さったのです。……俺も、正直、何故祖父はモサモサを可愛がるのか、いっそ処分してくれれば、村の人達から陰口を叩かれることもなくなるのにと、思う時もありました。……モサモサが何かの役に立つなんて考えたこともなかった。……今頑張ることが、祖父に対する唯一の恩返しになるのかも……なんて思っているのです。……王妃様には、感謝しています」
そんな風に思ってくれているなんて思わなかった私は、言葉を失った。
ああ、私はこんな風に、真面目に生きている国民達のために、力を尽くして行かなければいけないんだわ。
私は心の中で改めて、自分に言い聞かせたのだった。