Si.リコリスをまた
鳥ノ巣の薬学者セシル・デムヴァルトは妹として、そして一人の女性としてセシリアのことを愛していた。幼いころから、いやセシリアがこの世に生れ落ちたその瞬間から、セシルの胸には妹を想う熱情が秘められていた。
それが周囲から見て異常、異端であること、また隠さねばならないということは、セシルは十分に理解していた。だから成人してすぐ結婚をしたのだ―自分に献身的に尽くす女性、ミンミ・ルベーノと。それ故に結婚生活はごく質素であった。昼夜缶詰になって働くセシルはほとんど家に帰らず、帰ってきたとしても自分からは一切ミンミの体に触れようとしない。
ミンミはセシルと結婚してからというもの、そこはかとない寂しさを感じていた。そしてそれを、ミンミを心から愛していた、同じく鳥ノ巣で働いているアルガ・ティヌ・ミストが気付かぬはずもなかった。
毎日のようにセシルにミンミの様子を問い詰めても、セシルは自らの家のことに関して何も教えてくれない。アルガは一抹の不安を感じていた。ミンミと付き合い始めてすぐも、結婚した直後も、恋人の惚気一つ言わない冷たいこの男が、ミンミを本当に愛しているのだろうかと。
「きみが望むなら、今すぐあいつの手からきみを奪い去って、地の果てまでも逃げるのに」
昔、そう零したアルガに、ミンミは寂しげな微笑みを浮かべた。
「セシルさんの傍にいるのが、私の幸せなの」
なんて謙虚で優しい娘だろう。でも愚かだ。美しくて優しすぎるその心は、なおも冷たい夫と謎の失踪を遂げた義理の妹により、手折られてしまった。アルガは今こそ行動を起こすべきだと、そう思いセシルの研究室の戸を開いた。
「やあセシル、今、ちょっと時間あるかな?」
セシルは机に向かってレポートを書いているようだった。声から来訪者をアルガであると判断すると、顔も上げずに言った。
「君の目には、ここに時間があるように見えるのかな。おめでたいね」
「まあまあ、セシル先生。」
勝手に入ったら怒られそうな気がしたので扉を開いて立ち往生していたのだが、間もなくしてセシルの助手らしき女の研究者が招き入れてくれた。アルガはありがとうと言ってその女性にウインクしたのち、そっと白衣のポケットに可愛らしい包装紙に包まれたキャンディを入れた。
「お礼と言ってはなんだけど、飴あげる。」
「アルガ…まさかとは思うが、遊びに来たんじゃないよな?」
「まさか、そんなわけないだろ。たまたま部屋に招いてくれたのがきみじゃなくて、女性だっただけじゃないか」
ぴりぴりした雰囲気を醸す二人に、悪いことをしてしまったような気分になったセシルの助手は居た堪れなさそうな顔をした。アルガは小声で「気にしないで、きみのせいじゃないから」と助手を慰め、そしてセシルに歩み寄った。セシルはまだ此方を見ようとはしなかった。
アルガは呆れたように溜息を吐いて、ああもう本当にこいつ嫌い。という感情がにじみ出た表情を浮かべた。
「あのさあ…セシリアちゃんが家出しちゃったことは心中お察しいたしますとも。でも…いやだからこそきみにビッグニュースを持ってきてあげたのになぁ」
セシルは漸くぴたりと手を止め、レポートから顔を上げてアルガの顔を見遣った。アルガは肩をすくめて口の右端を上げた。
「…何故お前がセシリアのことを知っているんだ」
「それは内緒。でも大体察しがつくだろう?ああでも、俺に相談してきた彼女を責めないであげてよね。きみが悪いんだから」
「聞くのは勝手だが、セシリアの件はまだ政府から内密にするように言われている。あまりこんなところでする話じゃないだろ」
「だからきみの時間をもらいにきたんだよ。それに口にしなければきみは仕事といちゃついて、真面目に取り合おうとしてくれないだろう?」
セシルはしばらくアルガの両の眼を睨んでいたが、アルガが表情を変えずに同じく睨み返すと、大きくため息をついて「場所を変えよう」と重い腰を持ち上げた。アルガは満足そうににんまり笑みを浮かべると、先ほどあげた飴を頬張る女性に「いつでも連絡してね」とウインクし、二人は研究室から退室した。
その後セシルに殴られたのは、言うまでもなく。
セシルたちは人気の少ない鳥ノ巣の裏の植物園に行き、そこの管理者であり植物の研究者クレイア・ウィンドレイスに頼み場所を貸してもらった。この植物園のお茶会スペースはクレイアに頼めば誰でも使用することが可能だが、そこで話した内容は仲間内の了承がない限り他言無用という条件が課せられる。クレイアが定期的に盗み聞きされていないか、人が隠れていないかなどを見回りに来てくれるので、内緒話をするのにはもってこいの場所なのだ。
何故そこまでお茶会の秘密が守られるのかというと、かつて庭園の主が少年と少女の秘密を洩らし、不幸にしてしまったからと言われている。それ以来庭園の管理をするのは、秘密を厳守でき植物を愛する者が務めることになった。
「で、話って何?なるべく手短に頼みたいんだけれど」
「うん、俺この間ねぇ、セシリアちゃんのこと酒屋で見たんだよね。確か、リトアレスの外れの小さい酒屋かなぁ。そのあたりで用があったからちょっとナンパがてら寄ったんだよ。ま、女の子はあんまりいなかったんだけどさ。」
「…それだけかよ…。」
これだけもったいぶって、わざわざ場所まで借りておいて“見かけた”だけの話か。セシルは頭痛がしてきて、額に手を当てため息を吐いた。
「それだけだよ。声かけようか迷ったんだけど何か目が怖かったからやめといたって話。」
「…馬鹿にしてるのか。」
「大真面目だって。ああそれと―たぶんあれはウメルケア人の行商人かな―男の人に声かけてて、しばらく喋ってすぐ出てっちゃった。俺には気づいてなかったみたい」
「てことは、セシリアの行く先はウメルケアか…通行許可証も持たずに?何をやっているんだセシリー…」
セシルは何やらぶつぶつと独り言を言い始めた。アルガは暇そうに頭の後ろで腕を組み、セシルの独り言が終わり、ある一つの答えを待った。後押ししてやってもいいが、恐らく今のセシルには自分の声は聞こえていないだろうから。
「アルガ、僕はセシリアを追ってウメルケアに行く。政府より早くセシリアを捕まえないと…」
その言葉を待っていた。アルガはにんまり笑みを浮かべると自身が下げていた鞄から地図を取り出し、セシルに開いて見せた。その上に趣味で作った小さな彫刻を乗せ、セシリアの行先を示した。セシリアは3日前の夜リトアレス区で商人と出会い、その翌朝出発したと思われる。馬を走らせれば辺境まで1日と少しでつくはずだが、歩きというていで話を進める。
「ま、この地図きみにやるよ。現在位置がわかる不思議な地図だからね。原理は俺もよくわかってないんだけど」
「そんなの所持していて大丈夫なのか…政府に見つかったら少なくとも没収されると思うが」
「大丈夫だよ。現在地が表示される以外はただの地図だからさ…たぶん。あ、でも夜はインクが光って見えるから、そこだけ気を付けた方がいいよ」
何故そんなものを持っているのだろうとセシルは不思議に思い、また怪しいから使いたくないという気持ちもあったが、アルガの「ただの地図」という言葉を信じることにした。それに夜に明かりを必要としない地図というのは、中々に便利だ。
「今頃、何事もなく境界門を抜けられればここ、ザラクに着いてると思う。ザラクと首都のツユギはまあ隣接してはいるんだけど、ユガンダル山脈に阻まれてるから迂回しなくちゃいけない。だからセシリアちゃんは、東から南へ…このベルッグ地方を行くと思う。」
「…アルガ、珍しく親切じゃないか。何か企んでいるのか?」
「やだなぁ、人聞きの悪い。俺は早くセシリアちゃんに戻ってきてほしいだけだよ…誰かさんのためにもね」
セシルはふっと笑みをこぼし、アルガに家の合鍵を手渡した。アルガもまたにやりとして「ありがたく頂戴します」と一礼した。粗方進路がわかったところで二人は地図をしまい、残っていた紅茶を飲みほして、植物の世話をしているクレイアのもとへと向かった。クレイアは二人の気配を感じて振り返り、にっこり微笑んで「終わったのですか?」と尋ねた。セシルはああ、とだけ返事を返し、少しの気持ちをクレイアに渡して庭園を後にした。
そして間もなくセシルは長期休暇を上からもらい、家も研究室も空にした。突拍子もなく上司が居なくなった研究室はセシルが処理するはずだった仕事の一部が部下へとまわり、ただでさえ忙しいのにさらに慌てなくてはならない事態に陥った。セシルをそそのかした張本人のアルガが時折セシルと連絡を取り合い、指示等を聞き届けてくれるので、思った以上の害はなかったが。
一方、病に倒れたミンミの耳には、セシルの長期休暇とウメルケア旅行のどちらも入ることはなかった。それはミンミの心の平静を保つためというアルガの配慮であったが、アルガが自宅の合鍵を持っていることで、セシルがもう暫くは家に帰らないことをミンミは察していた。悲しみにも孤独にも、慣れることはない。ただ心を侵食していく速度が遅くなるだけだ。ミンミは、セシルの無事と、一刻も早い帰還を神に祈るばかりであった。
◆
セシリアは境界門の傍にある小さな町、ザラクに訪れていた。憲兵に地図を見せて首都からまた隣の国への行き方を訊いている。セシリアをザラクまで連れてきてくれた商人は荷を整えて、また町を転々とするみたいだった。
首都へ行くには険しい山脈を登っていくか、迂回していくしかないことを憲兵から聞いたセシリアは肩を落としながら、三日間世話になった商人のもとへいった。商人のオルレージュ・ユンファは別れを惜しむようにセシリアの頭をぽんぽんと撫でた。
「馬とも時々会話しながら道をいくが、お前さんが居るだけで大分にぎやかな旅になった。ありがとな」
「こちらこそ。オルレージュさんのおかげで、無事境界門を超えられたよ。…そういえば、リネージュちゃんとは会わなくていいの?」
「ああ、会ったら、別れがつらくなるからねえ。ただでさえ、三日三晩旅をしたお前さんとの別れがつらいというのに。」
「そっか…確かに別れはとても辛いね。とても会いたいけど、会えないって気持ちは…すごくわかるよ。」
兄を思い出して寂しげな表情を浮かべるセシリアの悲しみを拭うように、自身も寂しいであろうオルレージュは快活な笑い声をあげてセシリアの背中を強く叩いた。セシリアは派手によろめいて苦笑した。
「ま、お互い旅人なんだ。生きていれば、いつかまたどこかで会えるさ!…あんたの大事な兄ちゃんともな。」
「…うん、ありがとう。でも次またザラクに戻ってきたときは、リネージュちゃんに会ってあげなよ。僕と同じくらいの子なんでしょう?一人ぼっちは、寂しいよ」
「ははは…やっぱり、そう思うか。じゃあ、あいつが二十歳になるまでには、家に帰ろうかねえ」
数字のきりもいいし、と笑うオルレージュ。二人は別れを惜しみながら、姿が見えなくなる距離まで手を振り合いそして別れた。セシリアは丁度腹が鳴ったので、何処か丁度いい店で軽食を取ろうと思った。ザラクは比較的気候が穏やかな方だが、母国と比べると随分と暑い。いよいよ異国の地に居るのだということを自覚してきた。
セシリアは通行許可証を元々持っていなかったし、犯罪者となった今作ることも難しかったのだが、寝ている間にイヴォルビットが何とか用意したらしい。どうやって用意したのか気になったが恐喝等はしなかったと初めに言われてしまったので、それ以上は問い詰められなかった。
『セシリア…前を見て歩け。』
「パパッ…きゃあ!!」
「うわ!!」
セシリアがぼうっと考え事をしていると、イヴォルビットの秒前の忠告も空しく死角から飛び出してきた少女と衝突した。意味のない忠告などされるだけ無駄だと思いながら視界が宙を舞い、貧弱な尻と背を地面に叩き付ける。少女は、そのセシリアの上に覆いかぶさるように倒れたので、セシリアよりは衝撃が少なかったようだ。
『鈍臭いな。本物の豚の方がまだ、俊敏だ』
「う、うるさいな…」
呻きに近い悪態を吐く。痛みに絶えながら上体を起こすと、少女も呻きつつ起き上がった。少女の髪は薄い紫色で、ところどころが黒髪に染められており、更に両サイドに編まれている。着ている服も涼しげで、あまり見たことのないデザインだった。セシリアは、ああウメルケア人だ…と思った。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
「あっ…。り、隣国の人…?」
「はい。あの…お怪我はないですか?」
「はっ。す、スミマセン!!わたしは大ジョーブです。いきなり、ぶつかってゴメンナサイ!」
衝突して倒れたことを今やっと理解したらしい少女はさっと立ち上がり、ぺこぺこと頭を下げた。次に少女が顔を上げると、なぜか泣きそうな顔をしていた。セシリアは少女のペースについていけず、置いてけぼりにされているような気持ちになった。
「あの…パパ、わたしのパパ見てませんか?ケンペーさんが隣国の人と一緒におしゃべりしてるの見たって言ってて、それでぶつかっちゃったんですケド」
「それって…失礼ですけど、お名前は?」
「わたしですか?リネアンジュ・ユンファです。」
「そうじゃなくて…って、えっ?」
目の前で泣きそうな顔をしている少女は、首を傾げてきょとんとする。セシリアはあの屈強な商人とあまり似ていないリネアンジュという少女を上から下まで見て、間の抜けた声を上げた。
「ナニか変ですか?」
「いや…もしかして、あなたのパパって…オルレージュさん?」
その名をセシリアが口にした瞬間、泣きそうだった少女の顔は晴れ上がり花が咲いた。ああ、やっぱりと、セシリアはあの時オルレージュともっと長話をしていればと後悔した。結果的に彼女が父と再会しなかったことでセシリアの運命は良い方向へ導かれるので、運命の女神には愛されているのだが。