Fo.いるおびっと
悪魔とは、人間や動物たちの生きる世界とは別次元を生きる人ならざる者であり、人に干渉することにより善い事も悪い事も引き起こす、主に後者のものを悪魔と呼ぶ。或いは善悪に関わらず、“魔界”に彷徨う霊魂を悪魔と総称することもある。
魔界に生きる多くの魂は、セシリアらが生きる所謂人間界に悪をもたらしてきた。それは新生エヴラ・ソラス女王が望む平和に著しい乱れを生じさせる存在であった。
女王は云った。「民は、何人も人ならざる者の力を求めてはならぬ」と。
◆
デムヴァルト邸宅にて、セシリアは求人雑誌を読んでいた。セシリアの愛猫ベルはなぜか、今日は彼女から離れて毛づくろいを行っている。
兄は仕事に出かけ、義姉は夕餉のため、商業区へと買い物に行っている。セシリアは、邸宅に一人留守番をしていた。しかし留守番で暇をつぶそうにも、セシリアの緑色に光るその瞳には、その求人雑誌はひどく退屈な読み物だった。
それは彼女にとって仕事を探すためでも文字を読むためでもなく、ただ今日の退屈な時を持て余すための道具に過ぎない。…セシリアは、今日確実に来るであろう客を待ち続けていた。
リンリン、客人の呼び鈴が鳴る。セシリアはにやりと厭らしい笑みを浮かべ、ベッドへ無造作に雑誌を放り投げ、覗き穴から客の姿を見た。
そこにいたのは、ブロンドヘアの小柄な少年―いや、少女であった。
「どちらさまですか?」
扉を開け、わざとらしく問いかける。
「いきなり申し訳ない、私はリディ・アラルーチェ。…貴女がセシリア・デムヴァルトさんですか?」
「ええ、私が――いえ、ぼくがセシリアです。何か?」
「べレスフォード家に関連のある方々からお話を伺って回っております。少々お時間いただいてもよろしいですか?」
「……ええ、喜んで。」
計画通り…セシリアは時計をちらりと見遣ってから外套と鍵を手に取り外へ出た。リディに先導され向かった先の喫茶店には、リディの側近らしい男性が待っていた。
緑色の瞳のセシリアはこの男性の存在を知っていたが、当然知らないふりをして挨拶をした。30分、セシリアは時間の制限を設け、リディとその側近アレシュの取材に応じた。
◆
早々に任せられた仕事をすべて終えてしまったリューリは、集合場所近くのカフェで暇を持て余していた。リディアと約束した時間にはまだ早すぎるし、かといって外で時間をつぶせるほど、エヴラ・ソラスの冬は優しくない。
リューリは珈琲を飲みながら、今日得た情報のメモを軽く読み直していた。するといきなり向かいの椅子にアッシュブラウンの長髪の男性が座り込んできた。一人でいたいリューリは、向かいの男性をにらみつけた。
男性はビクッとして、甲高い声を上げた。
「やだ!怖いわね、いきなり睨んでこなくったっていいじゃない!」
男のくせに甲高い声を上げる此奴は―リューリの元同僚、カデル・アンディーである。リューリはただのナンパじゃなかったことに驚き、さらに不機嫌になった。…むしろ上機嫌と言うべきか。
「怖いわねは此方の台詞だわ、アンディー。何なの、いきなり現れてこないでよ。」
「折角久しぶりに会ったのに、そのリアクションはキズ付くわ。おんなじ街に務めてるんだから偶然会ったっておかしくないじゃないの!あっそれよりリューリ、アナタ、ちょっと痩せたでしょ。ちゃんと食べてるの?」
「うるさいうるさいっ。あたしが言いたいのはね、どうして勤務時間中であろう人物とカフェで偶然会って、しかもベラベラと、余計な世話を焼かれなきゃいけないのかって話よ。それにご飯なら今食べてるじゃない!」
実のところ二人の仲は出会い初めから現在に至るまで、あまり芳しくはなかった。なんでもカデルが歩み寄ろうとしたところでこのようにリューリが突っぱねるので、仲良くなる兆しは一向に見られない。
カデルはリューリと仲良くしたいと考えているのだが、リューリの性格上困難なのである。リューリはリディアに対してこそ愛想がいいが、リディア以外に対しては、好意を寄せる相手ほどつっぱねてしまうのである。
「シッ!うるさいのはアナタよ、リューリ…静かにしなきゃ。っていうかアナタ、珈琲が食事って本気で言ってんの?」
「あんたの声よりマシ。………珈琲は食べるって言わないね。でもただの暇つぶしだし、お金もったいないんだもの。」
「クルキステルノー家の子が何言ってんだか…。あれ、そういえば女王様のナイト様役はしなくて大丈夫なの?」
「……じゃんけんに負けたからね」
「…アナタ達一応それでもれっきとした仕事でしょ…ちゃんとやんなさいよ」
余計なお世話よっという言葉を珈琲と共に飲み込んだ。リューリはだんだん冷静になってきて、改めてカデルの方を見遣った。今度は、睨まないようにしながら。
久しぶりに会った元同僚とゆっくり話せる機会など、同じ鳥ノ巣に務めているといえど(むしろそこに務めているからともいえる)滅多にない。(おそらく)休憩中にカデルが自分を見つけて思わず声をかけてきた気持ちが、なんとなくわかってきた。
「あのさアンディー…さっきは悪かったわ、久しぶりに会えたのに睨んだりして」
「慣れてるからいいわ。特にアナタはさ、万年女の子の日って感じだものね」
「……殺そうか?」
「ジョーク!ジョーク!!」
別れ際に、異動する前タイミングが掴めず言い出せなかった連絡先を交換した。分かれ道までを共に歩き、リューリとカデルは同じ研究室で働いていたころを思い出していた。出会い頭から二人は、互いに印象が悪かったであろうということを語った。
カデルはかつて、貴族家の子供たちを恨んでいたことがあった。特にエヴラ・ソラス女王からよく贔屓されているクルキステルノー家に対しては、特別なコンプレックスを抱えていた。そして春、新たな研究員を研究室に迎えたと思ったら、仇敵のクルキステルノーである。カデルの黒く汚い部分が露呈されないはずはなかった。
今でこそ多少打ち解けて痴話喧嘩のような会話を繰り広げることができるようになったが、当時は水と油のような関係でとてもギスギスしていた。リューリも例え容姿からの一目惚れとはいえ、惚れた相手から罵られて気分がいいはずがない。
惚れたとはいえリューリの性格上言えるはずもなく、むしろカデルよりリューリの方が罵る回数が多い気はする。
「じゃあ、またね。今度は飲みにでも行きましょ」
「生憎、アンディーみたく暇じゃないんでね。飲みたいときはこっちから誘うわ」
「あーそっ。今日暇してた人の台詞じゃないわね。まあいいわ、どうしてもって言うんなら極力空けてあげる」
「なーに上から目線、気に入らない」
「どっちがよ!」
まるでただの女友達と話しているようだ。リューリはため息をついてじゃあ、と手を振りカデルと別れた。リディア達と約束した場所にはまだ誰もいなかったが、約束の時間まであと少しだった。
もう少しカフェでゆっくりしていてもよかったかとも考えたが、カデルと話せたことを思い返すと、まあいいかと思うリューリなのであった。
◆
取材を続けている間、リディ・アラルーチェはセシリアの完璧な受け答えに疑問を感じていた。何を質問されるかあらかじめ予習していた、あるいはわかっていたかのように、質問に対する返事の速さが尋常ではなかった。
尤も、セシリアもリディの考えている通り何の質問をされるかなどお見通しであり、彼女自身わざと即答しているのである。リディの疑問や怪訝を膨らませるために。
「そう、ですか…貴女は主人が断りなく不在であることを疑問に思い、地下室を見つけたと。その時すでに主人はこと切れていて、とりあえず貴女は子供たちを救助した。そういうことですね?」
「ええ、ええ。その通りです。ぼくも初めて見たときは、悪魔の仕業か、神の制裁かと混乱しましたよ。だけど…結局、子供たちは助かっていたわけです。これはきっと、神の鉄槌が子爵に下ったんでしょう。」
「……セシリアさんは神や悪魔を信じておられるのですね。…?」
刹那、セシリアの瞳の色が移ろった。リディは瞬きし、幻覚かどうかを確かめようとした。セシリアの瞳は未だ、仄明るい緑色だった。
セシリア―イヴォルビットは、心の中で舌打ちをした。今イヴォルビットが乗っ取っているこの体の意識が目覚め、騒ぎ立てている。何をしているんだイヴォルビット、どうして体が勝手に動いているの?と。
嗚呼、もう少しこの人形と遊んでいたかったのに。イヴォルビットは起き出そうとしているセシリアを押し込め、最後に言った。
「ええ、信じておりますとも。それに…さっきはああ言いましたけど、こういうのはどうです?神話には首のない悪魔が存在する。そしてその悪魔の能力は首を狩ることだ。…その悪魔の名は…」
「……悪魔の名は?」
「…ちょっと待って、何、どういうこと?」
セシリアの瞳が、薄紅に代わる。突然態度が変わったセシリアをリディは訝しげに見つめた。
「どういうこと、とは?」
「えっ、あ、いや…何でもないです。ええと、何の話でしたっけ…?あはは。」
「―……いいえ、大した話ではありませんよ。ああ、それより、もう時間ですね。お時間ありがとうございました、感謝いたします。」
「いえいえっ。あ、お勘定は?幾らでしたっけ」
「私が払いますよ、大丈夫。少ないですが、情報料です。」
今すぐイヴォルビットに文句を言いたくてたまらなかった。セシリアは羞恥と焦りから赤面し、早々に挨拶すると、逃げるように家に帰った。
その様が愉快で堪らなかったらしいイヴォルビットは、セシリアが家に帰る途中の道でも、家に帰ってからも、ずっと笑っていた。どうしてあんなことしたんだろう、セシリアはイヴォルビットの真意が理解できなかった。
リディ・アラルーチェもとい、リディアとその側近のアレシュは、リューリとの集合場所に行くまでの間、口を重く閉ざしていた。まさかこんなにも早く確信が得られるとは思ってもいなかったのだ。
これでリューリが、セシリアが口にしかけた悪魔の名の情報を手に入れていたなら、十中八九セシリアは黒となる。そもあの様子からして、セシリアは悪魔に憑かれているらしかった。
リューリの姿が見えると、リューリはベンチから立ち上がって駆け寄ってきた。そこでやっとリディアは重く閉ざしていた口を開いた。
「リューリ、犯人の目星がついたよ。…おまえたちが言った通りあれは人間の仕業じゃない。怪しいのはやはり、第一発見者だね」
「まあ…あんなずさんな報告書では、報告した当人が犯人でーすって言ってるようなもんですものね。私の方は、有力な情報はあまり…。子供たちは怯えて、口も利いてくれない子がほとんどでしたし。」
リューリのめくるメモを、アレシュは横から覗き見た。書かれていたのは「首が落ちた」「化け物」「子爵は1週間に2回ほど行方を知らせず外出していた」「いるおびっと(?)」…
「いるおびっとって何?なんでメモったの?」
「勝手に見ないでよ。なんか、喋ってくれない子でも、共通してその言葉?…を言ってきたのよ。だからなんとなく。はっきり聞こえなかったから、いるおびっとじゃないと思うけどね。」
「その言葉の意味が分からない限りは、迂闊に捨てることも重要とも取れないねえ…だけど、どこかでそのイントネーションは聞いたことあるな」
とりあえずこれ以上はここでする話ではないと、リディア達は一旦話を切り上げて鳥ノ巣へ戻ることに決めた。リューリが得た情報曰く、ほかの使用人から聞いたことによればセシリアは事件が発覚する数時間前から姿を消していた。そして子供たちが「おねえちゃん捕まってたの」と言っていることから、セシリアの報告は嘘が混じっているということがわかる。
しかしリディアは端から報告書など信頼していなかった。戻ってからというもの、リディアは数日書物庫に引きこもり「いるおびっと」について関連性のある蔵書はないだろうかと探していた。というのも、いるおびっととは、セシリアが言いかけた悪魔の名称と関係があるのではないかと踏んだからだ。
もしいるおびっとと発音の似た悪魔が居り、それが首なしの悪魔であったら…正式にセシリアを拘束することができる。このときばかりは、リディアは自分が飲まず食わず寝ずで動ける存在でよかったと思った。
取材したあの日から1週間後、リディアは突然書物庫から顔を出し、リューリとアレシュを呼んだ。
「これだ!!」
リディアの指し示す古書には、首なしの悪魔「Ivolvit」と書かれていた。