T.緑色の光
先日悪事を暴かれ、爵位を失ったベレスフォードの邸宅の地下。そこのステージらしき台の上にフードを被った少年が佇んでいる。少年の襟足で切り揃えられている髪は美しい金色をしていて、瞳は硝子玉のような澄んだ青色をしていた。
この世に生きる“人”とは思えない美しさを少年は兼ね備えていた。―まるで神の腕を持つ職人が心血を注いで生み出した、つくりものの様な美しさを。
そんな少年の瞳は目の前に広がる赤い惨劇を映していた。そして唇を薄く開いて、自らの背後に立つ少年少女へとこの光景を問うた。
「リューリ、アレシュ、これはどうだと思う?」
青紫色の二つにくくっている凛とした少女のリューリは、隣にいる少年アレシュが口を開くよりも先に答えた。二人の答えは一致していた。
「とても人間の仕業とは思えませんね。ベレスフォード氏の一件は表向きは倒産、裏では氏が快楽殺人者として大量殺戮を行った後何故か子供たちを残して自殺、という腑に落ちない報告書が上がっていますが…」
フードを被った少年はリューリの答えに頷いて、床に転がる男の首の断面を見遣った。ベレスフォード氏が所持していた刃物はナイフのみ。本当にそうならば、こんな定規で線を引いたような垂直の断面にはならないだろう。
もし刃物がチェーンソーなどの機械的な物だったなら100歩譲って頷ける。しかしベレスフォード氏は実戦経験すらない素人だ。
「この事件は要注意事項として調査しよう。死人には流石に聞くことはできないから、この場に居合わせたとされる子供たちと、第一発見者の下女中から情報を聞き出す。それでいいか?」
「はい。手分けして調査いたしましょう。」
そう返事したのは今度はリューリではなく、その隣にいるリューリの弟アレシュだった。アレシュもまたリューリに似た凛とした少年である。青みがかった黒髪は長く胸元まで垂れ下がり、一瞬女性的な印象を与える。
姉弟と共にフードを被った美少年は邸宅の外へ出た。外へ出ようとする間、アレシュとリューリはどちらが美少年と共に行動するかを争っていた。美少年は苦笑を漏らしながらもすぐに収まるだろうと放っておき、外の風のにおいを嗅いだ。
使い古された刃物にこびりついた、血のにおいがする。錆と生臭さが混じる異様なかおりだ。
「さて、口喧嘩はほどほどにして、もう行くよ。時はアールムなり、一秒も無駄にできない」
勝利を勝ち取ったのはアレシュらしかった。口数の少ないアレシュはやはり口には出さないが、心なしか嬉しそうにフードを被った美少年の後ろにつき、喜ばしきことのように弾む足取りで着いてきている。
反面、じゃんけんに負けたリューリは納得がいかない様子だった。二つにくくった髪を握りしめて、赤い頬を膨らましてこちらを(特にアレシュを)睨みつけている。
まったく、もう既にいい大人だというのにこの子たちは。フードを被った少年はため息をついた。
「それじゃあ、頃合いになったら連絡を取り合って落ち合おう。くれぐれも気を付けるんだよ、リューリ」
少年がリューリの頭を撫でてやると、リューリは膨らませていた頬を綻ばせ、元気よくはいと返事した。もうじゃんけんに負けたことへの恨みつらみは消えたのか、姿が見えなくなるところまでリューリは笑顔で手を振り続けて去って行った。
少年は苦笑を漏らしながらカバンからファイルを取りだし、次の目的地をアレシュに伝える。理解と呑み込みの早いアレシュは一度ファイルに目を通すと、すぐ少年の前に立って言った。
「行きましょうリディア様、目的地はそう遠くないです。」
新生エヴラ・ソラスの女王の名は、リディアといった。
◆
兄夫婦に電話を掛けたその晩は兄が忙しくて帰ってこられなかったらしく、友人の家に一晩泊めてもらうことにした。次の日セシリアが兄の家へ訪問すると、出迎えてくれたのはやはり兄の妻ミンミだった。―そして、その後ろについてきた猫のベルもセシリアを迎えてくれた。
義姉は柔らかな微笑みを浮かべて嬉しそうにセシリアを招き入れると、物置として使われていたらしい小さな一室へ案内した。
「ごめんね、セシルさんまだ帰ってきてないの。昨日研究室で夜通し仕事して、そのまま寝泊まりしたそうよ。」
「気にしないで、兄ちゃんだって忙しい人なんだから。いつ帰ってきてもすぐに休めるように、美味しいものを用意してあげようよ。」
「え…ああ、うん、そうね。セシルさんもセシリアちゃんが一緒なら、きっと食べてくれるわよね」
眉を下げて苦笑するミンミを訝しげに見ながら、その足元で鳴くベルの頭を撫でてやる。ベルはセシリアが小さなころから一緒にいた長毛種の猫だ。
昔、セシリアがまだ10歳にも満たない頃兄が仕事でほとんど家に居られないから、幼いセシリアが寂しくないようにとベルを拾ってきてくれたのだ。自分が学校に通い始めてからは兄かミンミが面倒を見てくれるようになり、そのまま住み込みで働いてからは、ずっと会えていなかった。
「ふふ、ベルも嬉しそう」
「もうぼくのこと、忘れちゃってるかと思ってたよ」
ニャーンとベルが返事をする。しばらく笑って、そしてミンミは家事へと戻った。セシリアは荷物の整理をして、それからミンミの夕餉の手伝いをした。
もう日がとっぷり沈んだ頃、漸く兄セシルが疲れ切った表情で帰宅した。日が暮れる前ミンミが早く帰ってこられるようにとセシルに電話をかけようとしたのだが、生憎取り込んでいると言われ繋がらなかったらしい。
セシルが帰ってきて早々、ミンミは不満げな表情でセシルに言った。
「おかえりなさいセシルさん…そんなに時間は取らせないのだから、ちょっとだけでも電話に出てくれてもよかったじゃないですか」
「帰ってきて早々文句を言われるのは、気分がよくないな…。リトアレス区で起きたある一件で、急に仕事が増えたんだよ。できるだけ早く帰りたいからこそお前の世間話に付き合って大事な時間を割きたくなかったんだ」
「…それは、わかってますけど…。でもセシリアちゃんが帰ってきたっていうのに」
セシリアはなんだか邪魔をしてはいけない気がして、部屋から出ていきづらかった。もしセシルが何事もなかったように機嫌よく帰ってきていたならば、喜んで飛びつきに行ったかもしれないが。
しかしミンミがやっと自分の話題を出してくれたので、一室の扉から顔を覗かせ照れくさそうに「ただいま」と小さな声で言った。セシルの表情は驚きのまま止まっていた。
「な、なんで早く言わないんだ!あああ折角1年ぶりの再会なのに、僕ひげ剃ってないよああもう!」
「言おうとしたら貴方、忙しいからって電話切ったじゃないですか。自業自得です」
「兄ちゃんはひげ剃ってなくてもかっこいいよ!」
玄関でこのように大騒ぎする家族は、そうそういないと思われる。セシリアはこの光景がなんだか可笑しくて一人けらけらと笑った。
我に返った兄夫婦もふっと笑いを零し、セシルは両手を広げてセシリアを抱きしめる。兄の懐かしい匂いに、セシリアは目を細めた。
「…いい匂い」
イヴォルビットはその光景に反吐が出そうになったが、生憎自分には口はあっても食道がなかった。
首のない悪魔のイヴォルビットだが、どこから声を発しているのかというと手に口がある。いや口など使わなくとも意思をテレパシーで伝えるだけの力は持っているが、セシリアの影を借りて実体化する時には、手の平にある口を用いなければならないのだ。
しかしこれから死にゆく相手に何を伝えることもないため、イヴォルビットは自分の口を使った記憶があまりない。
それはさておき、イヴォルビットは今後セシリアがどう生活していくのが気になった。まさか仕事大好きなセシリアが兄のすねかじりで一生を過ごすとは到底思えないが、例え就職しても平凡な就職先だったならば相当暇になるであろうことが予想される。
このまま政府に契約がばれずに事なきを得れば、セシリアは一般的な人間の人生の模範であるように働き結婚し年老いて死ぬだろう。
(しかし、この間の事件…派手にやった割には適当な嘘でごまかしたからな…。面倒くさがりの衛兵たちは悪事を働いて死んだ人間の真相なんて探りもしないだろうが、この国の面倒な人形があの光景を見たら、この馬鹿な豚は必ず尻尾を捕まれるだろう。
いや、寧ろ尻尾を捕まれて窮地に陥った方が何かと面白い。そうすれば人間なんてすぐに神という偶像にすがる。―はは、いいことを思いついたぞ)
明らかに何か企んでいるイヴォルビットを感じ、セシリアは借りた部屋のベッドに横になっていてもなんだか落ち着かなかった。折角久しぶりに会えた大好きな兄と話しをしていても、かわいい愛猫のベルと戯れていても、いつ何が起こるかわからないこの状態で心を落ち着かせるのは無理な話だった。
そも、セシリアは聖書や神話を読んだことはあるが、悪魔と契約して自分の身に何が起こるのか全く無知だった。イヴォルビットは多くを語らないし、自分から質問するにも何処から聞けばいいかわからないしで、まだ自分と契約した悪魔のことも、そして悪魔と契約してしまった自分のこともなにも理解できていない。
セシリアはベルを抱きしめて、イヴォルビットを呼んでみた。
「ねえイヴォルビット、少し聞いていいかな」
『……』
沈黙は彼にとっての肯定のサインであることを、セシリアは知っている。
「きみと契約することで、ぼくの体に何か変化って訪れるの?」
『それは、お前の行動次第だ。我が力を執拗に求めればお前の…主にその首に変化が訪れる。後で鏡を見てみればわかると思うが、紋章が浮かび上がっているだろう。』
「え、あ…そうなんだ…」
今まで自分がろくに鏡を見ていなかったことに気が付き、セシリアは女として自分を恥じた。年頃の女が一日一回も鏡を見ないなんて、とまた義姉に叱られてしまうかもしれない。
義姉は兄の妻だが本当の姉のように自分に優しく接してくれる。兄がミンミに対して素っ気ない態度を取る反面、セシリアが特に懐いていたからかもしれないが。
『もう質問は終わりか』
イヴォルビットが尋ねる。セシリアは首を横に振って答えた。
「…イヴォルビットのことたくさん知りたいんだ。これから契約を切らない限り、きみとは一生一緒なんでしょ、だからお互いのこと知っておいたほうがいいかなって。…ほら、きみは紳士のような形をしているけれど、どうして女の人の声をしているのか、とか」
少しの沈黙。セシリアは聞いてはいけないことを訊いてしまったのだろうかと不安になった。しかし、イヴォルビットは優しい女の声ですぐに答えてくれた。
『自分の契約者が、悲しいことに女ばかりだったから…これを人間は神の定めた運命と呼ぶけれど、悪魔にはそんなものない。ただ人の願いに呼び寄せられているだけ。つまり、私の力を求める者は、すべて女だった。だから私は女の首と声ばかりを持っている。
いや、過去一度だけ男と契約をしたこともあったか。しかしその男私と契約するや否や、一度願ったきりで契約を破棄したのだ。頭に来たけれど生憎私には頭がなかったし、魔界の掟により契約者をどうこうすることはできなかったから、今でもあいつはのうのうと生きている』
「そうなんだ。可哀想だけどでも、そっちのほうが都合よさそうだよね。女の子を誘うにも男の子を誘うにも、怪しい男の声より女の人の声のほうが、よっぽど誘われやすいもの。あ、そうだ…」
セシリアは夜が更けて朝を迎えるまでイヴォルビットに問い続けた。魔界の掟とは何か、今まで出会った女の人で誰が一番美人だったか、そして恋人はいるのかなど他愛のないコミュニケーションを。
ベルはすっかり自分のそばで丸くなって寝ていた。外が明るくなり始めたころ、セシリアは電池が切れてしまった蛍光灯のように眠りについた。
イヴォルビットはセシリアの意識が深い眠りに就くまで暫し待った。日が明るくなり、セシルやミンミが起き出した頃にセシリアは漸く夢の世界へと堕ちて行った。
「ああ、おはようセシリア。起こしてしまったかな」
セシルは食卓に上がったセシリアを見てにっこりと朝の挨拶をした。セシリアは少し考えてから、兄と同じようににっこりと微笑んで挨拶を返した。
「おはよう、兄ちゃん。…そんなことはないよ、たまたま今、目が覚めたのさ」
セシリアの目は、緑色に輝いていた。