F.悪夢
セシリアの得意なことは靴磨きだった。実家(といっても兄が一人暮らししていた貸家)では、毎日兄の靴を磨いて過ごしていたからだ。
そしてそれはセシリアの自己満足で終わらず、気難しいベレスフォード子爵の目にも留まった。お前はどの女中よりも靴磨きがうまいと、15アールムほど安月給に追加してもらえた。
まだまだ学費を返すには足りなすぎる貯金額だが、これからもっと働いていつかは兄の支えになるのがセシリアの夢だ。
今日一日の仕事が終わり、セシリアは屋敷の電話を借りて兄に報告した。もう皆寝ている時間なので、そんなに長くは話せないのだが。
「あのね兄ちゃん、ぼく、毎日が楽しいんだ。アールムをもらえる度に一歩一歩夢に近づいているような感じがするし、ぼくの先輩たちもみんな優しいし…ご主人様はちょっとまだ怖くて慣れないけど、靴磨きのこともあるし認められてる感じがする。とにかく、下働きも悪くないよ」
兄のセシルは妹からの楽しげな電話を、うんうんと嬉しそうにしながら聞いていた。初めはセシリアが下働きなんて!とあまり肯定的でなかった兄が、セシリアが電話をするたびにだんだんと受け入れていってくれている。
なお、セシリアは“ぼく”という一人称を使っているが、彼女はれっきとした女の子である。セシリアがまだ小さな頃兄が「女らしくふるまうな」と言ったから、兄の口調を真似るうち、その一人称に慣れてしまったのだ。
一通り今日のこととこれからのことを話し終えると、それじゃあまたと言って電話を切った。いつまでも屋敷の電話を借りるのは申し訳ないので、これからは公衆電話から掛けようと思った。
しかし公衆電話は利用料金がいちいち高い。1分4アールムは少々高すぎる。そしてベレスフォード子爵が、好きなように使っていいと言ってくれたから、どうしてもお言葉に甘えてしまうのだ。
「うん…こうして電話も貸してもらっているし、お仕事頑張るしかないよね。」
セシリアは頬をたたいて気合を入れ、明日へと備えてすぐに眠りについた。
その時に見た夢は、よく覚えていないけれど、ぐにゃりと空間がゆがんでいる不思議な夢を見た。
◆
セシリアがベレスフォード邸宅で働くようになっておおよそ1年が経った。19歳になっても特に恋人もできず、先輩とは仲良くなったものの学生時代の友人とも疎遠で、ただただ仕事に勤しむだけの当たり障りのない一年だった。
世間もほとんど何も変わっていなかった。ただ最近少し不穏なうわさを聞くぐらいで、セシリアが住むリトアレス区は至って平穏な日常を刻んでいた。兄とその妻は一つ歳を取り一冊教科書を書いたぐらいで、幼い時からずっと連絡をよこさない従兄も変わらず音信不通だった。
残り少ない青春をすべてベレスフォード家に捧げるセシリアを先輩女中たちは心配したが、今のセシリアは仕事が大事だった。
そんなセシリアは1年前と比べて格段に仕事が早くなっていた。自分の持ち場はすべて埃ひとつ残さずに掃除し終えたし、暇だから自分の部屋を掃除しようと思っても、悲しいことに私物が少なすぎて散らかりもしないし、こまめに掃除をしているおかげで塵もない。
仕方ないからセシリアはさぼりたがりな新人召使いの仕事を手伝おうとバケツを持ち上げると、ふと見知らぬ人が書斎に入っていくのが見えた。
ベレスフォード邸の書斎はたとえ主人の正妻であろうとも、容易に足を踏み入れてはならない場所だ。新人が良かれと思って勝手に掃除をした時も、減給あるいは解雇といった厳しい処置をとられたぐらいだ。
それなのに、ただのお客人が勝手に書斎に入るなんて、癇癪持ちの子爵が知ったらどんなとばっちりを受けるだろうか。セシリアは不安になってあわよくばそれとなく外へ誘導しようと、書斎を覗きに行った。
やましい気持ちは決してないのに、書斎の扉の前に立つととても緊張する。子爵に見られたらセシリアの下女人生がすべて終わってしまう。
「…あの~…」
控えめに扉を開け、消え入りそうな声で入っていった人物の姿を探す。しかしパッと見る限りでは誰もいないし、人の気配すらしない。
不思議に思ったセシリアはさっきまで感じていた緊張なんて忘れて、書斎の中へと入っていった。やはり探してみても人の気配はしなかった。
(あれ?でもそういえば、書斎っていつも鍵閉まってるよね?)
書斎の鍵はもう新人が不用意に入らないように、いつもベレスフォード夫人か子爵本人が管理している。しかしここの鍵が開いているということは、子爵が書斎に入ったということだ。
けれど書斎には誰もいない。あの見知らぬ人も、子爵も夫人も。自分一人だけだ。
(どうして…。…ん?)
ふと、足元に風を感じる。セシリアが床を見ると、少しだけ隙間が空いているように見えた。風はそこから、かすかに吹いていた。
もっとよく見つめると、セシリアが立っているところだけ周りのタイルより少し色が違っていた。隙間に指をめり込ませて床を持ち上げようと試みると、地下へと続く階段があった。
一体何故、何のために?セシリアはしばらく闇へと続く階段を見つめていた。探求心と恐怖とがセシリアの心内でせめぎ合っている。
(ここに入ったらきっと絶対解雇ここに入ったらきっと絶対解雇ここに入ったらきっと絶対解雇)
自分が今一番恐れているものを心の中で唱えて探求心を打ち消しながら、セシリアは床を閉じて再度バケツを持ち上げ、新人の手伝いへ行こうと意気込んだ。しかし立ち上がったその時、背後から何者かにいきなり布をかぶせられた。
人は本当に突然の恐怖に駆られたとき悲鳴なんて出ないし息さえするのを忘れる。やっと息ができたとき、あまりの煙草臭さに咽かえった。セシリアは視界を遮られ身動きを封じられ、この何物かわからない恐怖から逃れようともがくうち、薬を嗅がされ意識を手放した。
あ、ぼく死ぬかもしれない。バケツが転がる音を聞きながら、意識が遠のく中冷静にふと、そう思った。
◆
うるさい喧騒が聞こえる。気持ち悪い薄ら笑いや、気色の悪い熱のこもった視線を感じる。大きな声で多額のアールムを叫ぶ男の声が聞こえる。昔兄に連れてきてもらったことのある、競売にいる気分だ。
しかしどうして、子爵は出かけているし、ほかの下女たちは黙って働いているというのに、こんなにうるさいんだろう。そして、何故自分は何もしないで床に突っ伏しているのだろう。
嗚呼、煙草のにおいがする。子爵がよく好んで吸っている銘柄のにおいだ。自分は煙草の使いに出されたことはないので、銘柄は知らないが。
「おうちに帰りたいよう…」
小さな子供の愚図る声が聞こえた。セシリアは急に頭が冴えてきた。薄紅色の丸い瞳を開いて辺りを見渡す…ここは、何処だ?
自分は舞台らしきところのカーテンの陰にいるらしく、明かりはステージからのものしかなく薄暗い。辺りを見回すと周りにはたくさんの小さな子供がいて、息を殺して泣いていた。
足が鎖に繋がれているため行動の自由はないが、ステージを覗くだけの余裕はあった。どくん、どくんと心臓が脈打っている。現実を目にしなくても、セシリアはここがどういうところなのか理解できた。
ステージを覗くと、自分の半身ほどしかない小さな少女が虚ろな目で遠くを見つめていた。観客席にはたくさんの人影が見える。
人を売り買いする競りだ、ここは、まぎれもなく。セシリアは、乾いた唾を呑み込んだ。
「どうしよう…」
仮面をつけているがステージの横に立ち司会を務めているあの男はベレスフォード子爵だ。中肉中背で、声が高い。顔を隠していてもわかる。
セシリアは段々、自分が意識を手放す前に何をしていたかを思い出してきた。自分は見知らぬ来客が書斎に入ってしまったのを止めようとして、たまたまこの違法売買会場へ続く階段を見つけてしまったのだ。
そして多分、自分に布をかぶせて薬を嗅がせたのはあのベレスフォード子爵で、子爵は自分を今日の競りの商品にするつもりだ。
それにしてもこんなことをしている奴が爵位を得ているなんて…悪事は隠ぺいすればしていないのと一緒なのか。セシリアはふつふつと怒りが込み上げてきた。もう雇主として子爵に尊敬も恐れも感じない。
感じるのは、人の命を金に換えて好き勝手やっていることへの怒りだけだ。
「今すぐ止めないと…どんどん犠牲者が増えるだけだ」
けれど、どうすれば?セシリアは足りない頭をフル稼働させて策を練ろうと唸った。頭を抱えて蹲っていると、隣で静かに座っていたおかっぱ頭の10歳くらいの男の子が自分の肩をつついてきた。
顔を上げて男の子を見ると、男の子はこんな状況であるにも関わらずにっこり笑みを見せた。真意はわからなかったが、セシリアもつられて頬を綻ばせた。
男の子は周りの子に比べると比較的きれいな姿をしている。容姿端麗という意味ではなく、傷がついていたり、泥で汚れていたり、やつれていないということだ。
「お姉ちゃん、いいこと教えてあげようか」
「うん、何?」
「あのね、契約すればいいんだよ」
少年の緑色の瞳が仄明るく光り、そのミステリアスさに目を奪われる。普通の男の子のはずなのに、この男の子は周りの子供たちとはずっと雰囲気が違う。
「…契約?」
「そう。ねえお姉ちゃん、耳かして?」
セシリアは何故か躊躇いを感じながら、少年が自分の耳に届くように屈んだ。少年はくす、と不敵な笑みを浮かべると、その口元をセシリアの柔らかな銀色の髪にうずめた。
ズキッ。突如脳天に走るような頭痛がセシリアを襲う。セシリアは顔を歪めて身を縮めた。痛い!痛い痛い!!
「お姉ちゃん、ごめんね」
激痛が収まると、次はビジョンのようなものが流れ始めた。現実味のない、歪んだ空間のビジョン。時折垣間見える場所といえる場所は、ただ荒廃した灰色の世界。背後を見ると、自分の影が何メートルも伸びていて、それは恐ろしい異形の形をしている。
これは…自分が悪夢と思っていた、最近よく見る夢だ。どうせ夢と思って忘れていたのに、これは自分の未来を暗示していたのだろうか。いや、それとも今この状況こそが自分が寝て見ている悪夢なのだろうか。
セシリアはぎゅっと目をつむり闇を求めた。今はそんなの見たくない。意味の分からない悪夢なんて思い出したくない!
―セシリア、名を呼ぶのです。
自分の名を呼び、そして名を呼べという美しい女の声が聞こえた。セシリアは閉じていた瞼を開き、顔を上げた。どうせ夢ならば目の前の世界に光に満ちた天国を願ったけれど、やはりそこには人買いの競りしかなかった。
隣にいた少年はどこへ行ったのか、男の子を繋いでいた鎖すらどこかへと消えていた。セシリアは、どれが現実なのかわからなくなった。
「…誰?」
―私の名を呼べば、お前の願いを叶えてやれる。お前は、子供たちを救うすべを探していたのでしょう?
―名を呼びなさいセシリア。我が名は…そう、“イヴォルビット”。