プロローグ:思いは届かず……
「ありがとう」
彼女は僕の手をとり、微笑んだ。
「私、きっと、幸せになるから」
「うん……」
彼女の瞳は真剣で、それ以外何も言えず僕はぎこちなく笑ってみせた。
電車の到着を告げるベルが鳴る。
数秒の内に電車が目の前に止まった。
「じゃあ、いってくるから。また会おうね」
彼女は握った手に力をこめてきた。
握り返したい衝動を抑えて、僕は頷く振りをして目をそらした。
彼女が僕の手を離し電車へと乗り込んでいく。
「またね、薫君」
「……うん」
今の僕はきっとうまく笑えていないだろう。
涙は出ていないけれど、今すぐにでも溢れてしまいそうだ。
電車のドアが閉まる。
その向こうで彼女は笑いながら手を振っている。
僕も答えるように小さく手を振った。
電車がゆっくりと動き出し、スピードを増していく。
すぐに、彼女を乗せた電車の姿は見えなくなった。
「さよなら……好きだったよ」
小さくつぶやいた言葉を、少し冷たい風がさらって行ったけれど彼女の元まではきっと、届かない。
プロローグ 想いは届かず……
「それで、みすみす行かせたってのか」
呆れ返った声と顔で僕の小学校からの友達である悠斗がため息混じりに言った。
「仕方ないだろ、あいつが決めたことなんだから」
「だからって、お前……」
「それに、俺はあいつの恋人でもなんでもないんだし。止める権利なんかなかったよ」
飲み干した缶コーヒーを放り投げたけれど、ゴミ箱の端に当たり入ることはなかった。
思わず舌打ちをしながら立ち上がり空き缶を拾いゴミ箱に捨てた。
振り返ると、悠斗の視線は哀れむような物に変わっていた。
「でも、お前……」
何か言いたげに口を開き、直ぐに噤んだ。
僕は、小さく鼻で溜息をついた。
「何だよ?」
悠斗が何を言いたいのかは予想がついていたけれど、知らない振りをして先を促した。
「お前は、その……好きだったんだろ?」
「誰を?」
悠斗の予想通りの言葉に、嘲笑にも似た笑みを作り、あらかじめ用意していた答えを即答した。
「誰をって、藤原さんのことだよ。決まってるだろ」
「……」
黙りこんでしまった俺を悠斗は見つめてくる。
僕を哀れむ目のまま。
僕はその目から逃げるように後ろを向いた。
悠斗の視線が背中に突き刺さる。
ポケットに手を突っ込み、空を見上げてみた。
羊雲の群れが静かに揺れて、桜の花びらがひとつ風に踊っていた。
そういえば、もう直ぐ春なんだよな、と今更ながらに思う。
「好きだったよ」
「え?」
「俺は亜衣の事、好きだった」
「それなら、何で……」
「好きだったから、亜衣の事応援したかったんだ。亜衣に幸せになってほしかったんだ」
亜衣の笑顔を思い浮かべてみる。
夏に咲き誇る向日葵のような、いや、僕には太陽のような、と言っても遜色なかった彼女の笑顔。
その笑顔を守れるのは僕じゃない、あの人なのだ。
「亜衣は、あの人の傍に居ることを望んだ。それをどうやって止められる?」
再び悠斗を振り返って見るとすでに哀れみの目線は消えていた。
悠斗は目を伏せて、頭をかいた。
「ったく……仕方ねぇな……」
悠斗も立ち上がり空き缶をゴミ箱へ向かって投げた。
カンはきれいな放物線を描きゴミ箱へと入った。
ナイッシュッと小さくガッツポーズなんて素振りをしてみせたりしている。
この場にそぐわないような高いテンションも、悠斗なりの慰めみたいなものなのかもしれない。
「よし!!これから飲みにいくか!!」
「いや、これからってまだ昼だし。それに俺たちまだ高校生にもなってないぞ……」
「なんだよ、今はそんなの関係ないだろ。薫の失恋は俺の失恋だからな。一緒に過ぎ去った恋を悼まないといけないんだよ」
「理由になってないし、第一、意味がわからん……」
僕は呆れ返ったかのように肩をすくめてみせたりしたけれど、本当は悠斗に対する感謝の気持ちでいっぱいだった。
ありがとう、という言葉は気恥ずかしくて言葉にはできなくて、そっとむねのなかにしまいこんだ。