大川君
二十年前の冗談は、まだ終わっていなかった。
深夜の玄関チャイムは、まるで棺の蓋を叩く音のように、冷たく響いた。
戸川俊は、薄暗い廊下を歩きながら、誰だろうとぼんやり思った。時計は午前一時を過ぎていた。
ここに移り住んでから20年。来客など一度も無かった。しかも、こんな時間に客など来るはずがない。
覗き穴から外を見ると、薄暗い玄関灯の下に、一人の男が立っていた。
初めは誰だか分からなかった。髪は白く交じり、頬はこけ、目だけが異常に大きく見開かれていた。
だが、その目が戸川を捉えた瞬間、記憶の底から何かがゆっくりと浮かび上がってきた――
大川。高校時代のクラスメート、大川だった。戸川がドアを開けると、男はほとんど間髪を入れず、低い声で言った。
「何か、おかしなこと、してない?」
声は掠れていた。二十年という歳月が、大川の声からも若さを奪い去っていた。
「…大川?」
「おかしなことしてるだろ」
男の右手がゆっくりと動いた。暗い廊下に、冷たい金属の光が走った。包丁ではなかった。研ぎ澄まされたサバイバルナイフだった。
刃は短く、しかし鋭く、玄関の明かりを反射して、白く光った。戸川の背筋に、凍えたような感覚が走った。
思い出は、突然、鮮明に蘇った。高校三年の秋だった。受験を控えた季節で、空気そのものが張り詰めていた。
大川は真面目一辺倒の男だった。成績は常に上位にいたが、決して一番にはなれない。要領が悪く、要領よく立ち回る者たちにいつも一歩及ばなかった。
それでも課題は完璧に提出し、誰かがサボれば「大川に聞け」と頼られる存在だった。
皆に重宝され、しかし誰からも本気で尊敬されることもない、影の薄い男。
ある日の朝、戸川は何気なく、余計なことを口にした。
「なぁ、大川。昨日の十一時くらい、胸が苦しくなったりしなかった?」
大川は教科書から顔を上げ、きょとんとした。
「どうして?」
「だって、その時間、藁人形に大川の写真を入れて、五寸釘で胸を打ちつけてたんだよ」
冗談のつもりだった。ただの悪戯心だった。大川は少し間を置き、それから小さく頷いた。
「…あっ、そういえば、少し苦しかったかもしれない」
「あ、やっぱり」
「やめてよ、そういうの」
大川は苦笑し、すぐにまた教科書に戻った。それだけの会話だった。だが、次の時間が技術だったのが、運の尽きだった。
その日はティッシュボックスを作る授業で、皆が釘を打っていた。戸川も何気なく金槌を振り下ろしていただけだ。
しかし、大川の目には、それがどう映ったのだろう。戸川の表情が、まるで何かに取り憑かれたように見えたらしい。
釘を打ち込むたび、大川の胸に、見えない五寸釘が打ち込まれていくような錯覚に陥ったのだろう。
翌日、大川は廊下で戸川の胸ぐらを掴んだ。普段はおとなしい男の目が、血走っていた。
「ねぇ、本当にやめて! 苦しいんだけど!」
「何もしてないよ」
「もう、あの狂った顔で釘を打ち込む姿が、頭から離れないんだよ!」
大川はそう叫び、そのまま保健室へ消えた。
その夜、十一時過ぎに担任から電話があった。親に起こされた戸川は、事実を話した。
「お前、馬鹿だな。くだらないこと言いやがって。…今は受験でみんなピリピリしてるんだ。もう二度と、そういうこと言うな」
電話はそれで終わった。しかし、数時間後、再び母に起こされた。
「大川君って人が…様子がおかしいわ。『おたくの息子さんをやめさせてください』って、それしか言わないの」
受話器を渡された。大川の声は、ほとんど悲鳴に近かった。
「やめて!苦しいんだよ!またおかしなことやってるだろ!」
「してないよ。寝てるんだ、こっちは」
「おまえなら、寝ててもやりかねないんだよ!あの狂った顔が…頭から離れないんだよ!」
電話は一方的に切られた。
翌日、大川は何事もなかったかのように登校し、それから二人の間に、その話題が再燃することはなかった。
受験が終わり、卒業し、それぞれの道を歩み始めた。戸川は大川のことを、ほとんど忘れていた。
二十年が経った。そして今、目の前に大川が立っている。
ナイフを握りしめ、目を見開き、まるで二十年前の夜が、今この瞬間に続いているかのように。
「何か、おかしなこと、してない?」
大川の声は、震えていた。だが、その震えは恐怖ではなく、確信に近いものだった。
戸川はゆっくりと後ずさった。玄関は狭く、逃げる場所などない。
「大川…お前、どうしたんだ。二十年前のこと、まだ…」
「まだ、じゃない」
大川は一歩、踏み出した。ナイフの刃が、戸川の胸の高さに向けられた。
「毎晩、十一時になると、胸が苦しくなるんだ。釘を打ち込まれる音が聞こえる。金槌の音が、どんどん近くなってくる。お前の顔が見える。あの、狂った顔が」
大川の瞳孔は、暗がりでも分かるほどに開いていた。
「やめてくれと言ったのに、お前は続けてる。二十年間、ずっと」
戸川は言葉を失った。冗談だった。ただの、くだらない冗談だったはずだ。だが、大川の目には、もう「冗談」という概念は存在していないようだった。
「やめてくれ」
大川は再び囁いた。声は音を持たぬほど低かった。
「やめてくれ。もう、苦しいんだ」
そして、ナイフを握る手が、ゆっくりと上がった。戸川の耳に、遠い記憶の中から、金槌の音が聞こえた気がした。
コン、コン、コン――
夜は深く、玄関の薄明かりは二人を優しく、そして容赦なく包み込んでいた。
読んで頂き有り難う御座います。




