人怖 親切な隣人
1. 隣の女
午後10時40分。
一人暮らしを始めて3か月になる大学生の翔太は、アパートの階段を上がっていた。
築25年、家賃4万8千円。
駅から遠いが、静かで住みやすい物件だった。
「こんばんは」
201号室の前で、隣人の女性に声をかけられた。
年齢は40代くらい。
いつも笑顔で、会うたびに挨拶してくれる。
「こんばんは」
「今日は遅かったのね」
「バイトだったんで」
「そう。お疲れさま」
女性は小さな袋を差し出した。
「これ、よかったら。お菓子なんだけど」
「え、いいんですか?」
「一人暮らしだと、ちゃんと食べないでしょう?」
翔太は礼を言って受け取った。
優しい人だと思った。
そのとき、女性が何気なく言った。
「昨日のカレー、おいしかった?」
翔太は少し驚いた。
「……え?」
「昨日、カレー食べてたでしょう?」
「ああ、匂いですか?」
女性は笑った。
「そうそう。いい匂いだったから」
翔太も笑った。
「レトルトですけどね」
「ふふっ」
女性は自分の部屋に戻った。
翔太も202号室に入り、鍵を閉めた。
その夜は、何も起こらなかった。
2. 知っていること
翌週。
翔太が大学から帰ると、ドアノブにビニール袋が掛かっていた。
中には弁当と小さな手紙。
『いつも遅くまでお疲れさま。よかったら食べてね。隣より』
翔太は少し困った。
ありがたいが、ここまでされると気を遣う。
翌日、女性に会ったときに礼を言った。
「あの、弁当ありがとうございました。でも、そんなに気を遣わなくて大丈夫ですよ」
女性は笑った。
「遠慮しないで。息子みたいなものだから」
「息子さんいるんですか?」
「いたのよ」
翔太は言葉に詰まった。
「……すみません」
「いいのよ。もうずいぶん昔のことだから」
女性は翔太の顔をじっと見つめた。
「あなた、ちょっと似てるの」
「息子さんに?」
「ええ」
それから女性は、少しずつ翔太の生活に口を出すようになった。
「最近、夜更かししてるでしょう?」
「朝ご飯は食べた?」
「昨日来てた女の子、彼女?」
翔太は次第に気味が悪くなった。
確かに女性は隣人だ。
しかし、生活を把握されすぎている。
ある日、翔太は尋ねた。
「どうしてそんなに知ってるんですか?」
女性は不思議そうな顔をした。
「……だって、お隣さんでしょう?」
3. 留守中
ある金曜日。
翔太は友人の家に泊まることになった。
翌日の昼、自宅へ帰った。
玄関の鍵を開ける。
部屋に入った瞬間、違和感があった。
洗面所のドアが開いている。
出かけるときは閉めたはずだった。
気のせいかもしれない。
しかし、机の上に置いていた充電ケーブルの位置も変わっていた。
翔太は部屋を見回した。
盗まれたものはない。
窓も閉まっている。
玄関の鍵にも異常はなかった。
それでも、誰かが入ったような気がした。
翔太はスマートフォンで小型の見守りカメラを注文した。
数日後、部屋の棚に設置した。
玄関と居間が映る位置。
動きを検知すると録画されるタイプだった。
翌日、翔太はいつもどおり大学へ向かった。
午後1時17分。
スマートフォンに通知が届いた。
『動きを検知しました』
翔太は授業中だった。
画面を開く。
録画には、自分の部屋が映っていた。
玄関のドアが開く。
入ってきたのは——
隣の女性だった。
女性は慣れた手つきで靴を脱いだ。
そして、部屋の中を歩き始めた。
冷蔵庫を開ける。
洗面所を覗く。
ベッドに腰掛ける。
翔太は息をのんだ。
女性は翔太の枕を手に取った。
しばらく抱きしめていた。
そして、枕を元の位置に戻した。
次に、机の引き出しを開けた。
中から翔太の学生証を取り出す。
女性はそれを眺めながら、微笑んだ。
「……翔太」
小さな声だった。
「今日も学校、頑張ってるのね」
翔太はすぐに警察へ連絡した。
4. 取り調べ
警察が女性の部屋を訪ねた。
女性は抵抗しなかった。
むしろ、驚いた顔で言ったという。
「え? どうして警察が?」
警察官が録画を見せると、女性は困ったように笑った。
「だって、掃除してあげてただけですよ」
「他人の部屋ですよね?」
「でも、あの子、一人じゃ何もできないから」
「鍵はどうしたんですか?」
女性は答えなかった。
その後の調査で、女性は翔太の合鍵を無断で作っていたことが分かった。
翔太は被害届を出した。
女性は住居侵入の疑いで捜査を受けることになった。
数日後、女性はアパートから姿を消した。
翔太は安心した。
しかし、もうその部屋に住み続ける気にはなれなかった。
翌月、引っ越すことにした。
5. 新しい部屋
新居はオートロック付きのマンションだった。
5階。
防犯カメラもある。
家賃は少し高くなったが、安心には代えられない。
引っ越して2週間。
翔太はようやく落ち着きを取り戻していた。
ある日、大学から帰宅すると、郵便受けに封筒が入っていた。
差出人の名前はない。
中には一枚の写真があった。
翔太がベッドで眠っている写真。
以前のアパートで撮影されたものだった。
裏には、丸い文字でこう書かれていた。
『ちゃんと眠れている?』
翔太はすぐに警察へ相談した。
だが、封筒には指紋が残っておらず、投函した人物も特定できなかった。
数日後。
また封筒が届いた。
今度は写真ではなく、短い手紙だった。
『新しいお部屋、きれいね』
翔太は背筋が冷たくなった。
住所を知られている。
しかも、新しい部屋の中まで見られているのかもしれない。
翔太は管理会社に相談し、玄関の鍵を交換した。
窓にも補助錠をつけた。
カメラも増設した。
それから一週間。
何も起きなかった。
6. 母親
日曜日の午後。
翔太の母親が新居を訪ねてきた。
「大変だったわね」
母親は心配そうに部屋を見回した。
「もう大丈夫なの?」
「たぶん。警察にも相談してるし」
「そう……」
母親は台所へ向かった。
「何か作ってあげようか?」
「いいよ、別に」
「遠慮しないの。最近ちゃんと食べてる?」
翔太は苦笑した。
「母さんまで同じこと言うなよ」
母親が振り向いた。
「同じこと?」
「前のアパートの女も、そんなことばっか言ってた」
母親は少し黙った。
そして言った。
「……その人、何歳くらいだったの?」
「40代くらいかな」
「名前は?」
「確か、田村って言ってた」
母親の手が止まった。
「……田村?」
「うん」
母親はゆっくり椅子に座った。
「翔太」
「何?」
「その人の写真、ある?」
翔太は警察に提出した映像のスクリーンショットを見せた。
母親は画面を見た瞬間、顔色を変えた。
「……この人」
「知ってるの?」
母親は震える声で言った。
「……あなたが小さい頃、うちに来てた人よ」
「え?」
「私が仕事してる間、あなたの面倒を見てもらってたの」
翔太は驚いた。
「そんな人いたっけ?」
「覚えてないでしょうね。まだ3歳だったから」
母親は続けた。
「でもね、あの人……」
「何?」
「あなたを自分の息子だと思い込むようになってしまって……」
母親はそこで言葉を止めた。
「それで?」
「……一度、あなたを連れていなくなったことがあるの」
翔太は黙った。
「警察に捜してもらって、翌日見つかったんだけど……」
「……」
「それから、もう会わせないようにしたの」
翔太はスマートフォンの写真を見つめた。
あの女は、偶然隣に住んでいたわけではなかった。
最初から、自分を知っていたのだ。
7. 最後の電話
その日の夜。
母親が帰ったあと、翔太は警察に追加の事情を伝えた。
午後11時26分。
知らない番号から電話がかかってきた。
翔太は迷った末に出た。
「……もしもし」
女の声だった。
「翔太くん?」
翔太はすぐに分かった。
隣の女だった。
「もう電話してこないでください」
「ごめんなさいね」
女の声は穏やかだった。
「怖がらせるつもりはなかったの」
「だったら、もう関わらないでください」
「……うん」
女は少し寂しそうに言った。
「もう、会わないから」
翔太は何も答えなかった。
「でもね、最後に一つだけ聞いてもいい?」
「……何ですか」
「今日、お母さん来てたでしょう?」
翔太の心臓が跳ねた。
「……何で知ってるんですか」
「ふふっ」
「どこから見てるんですか!?」
女は答えなかった。
代わりに、静かに言った。
「翔太くん」
「……」
「今日来た女の人、本当にお母さん?」
翔太は眉をひそめた。
「何言ってるんですか」
「……あのね」
女の声が、初めて真剣になった。
「私、あなたのお母さんのこと、よく知ってるの」
「だから何ですか」
「今日来た人、違う人よ」
翔太は電話を切った。
くだらない。
今度は母親まで疑わせようとしている。
そう思った。
しかし、数秒後。
母親からメッセージが届いた。
『さっき言い忘れたんだけど、今度の日曜も行くね』
翔太は返信した。
『了解』
そのとき、ふと気づいた。
母親は今日、どうやって部屋に入ったのだろう。
確か、玄関のチャイムが鳴って、翔太がドアを開けた。
そうだ。
間違いない。
ただ、母親が帰るとき。
何と言っていただろう。
『鍵、ちゃんとかけなさいよ』
普通の言葉だ。
何もおかしくない。
翔太はスマートフォンを置いた。
すると、またメッセージが届いた。
先ほどの知らない番号からだった。
『ごめんなさい。最後にこれだけ』
写真が一枚添付されていた。
翔太は画面を開いた。
そこには、古い集合写真が写っていた。
20年以上前のものらしい。
幼い翔太。
若い母親。
そして、隣の女。
三人が並んで笑っていた。
翔太は写真を拡大した。
母親の顔を見る。
次に、隣の女の顔を見る。
そこで気づいた。
母親だと思っていた女性の方が、隣の女だった。
そして、隣の女だと思っていた女性の方が、母親だった。
翔太は混乱した。
どういうことだ。
写真の裏面を撮影した画像も送られてきた。
そこには日付と、二人の女性の名前が書かれていた。
翔太はすぐに母親へ電話をかけた。
「もしもし、母さん?」
『どうしたの?』
「昔、俺を誘拐した女の人って……」
『……うん』
「本当に田村って人?」
電話の向こうで沈黙があった。
『……どうして?』
翔太は写真のことを説明した。
すると母親は、低い声で言った。
『翔太』
「何?」
『その写真、誰から送られてきたの?』
「田村さんから」
長い沈黙。
そして母親は言った。
『……その人の言うこと、信じちゃだめ』
「でも、写真には——」
『翔太!!』
突然、母親が怒鳴った。
『その女とは二度と話すな!!』
電話が切れた。
翔太はしばらく動けなかった。
そして、もう一度写真を見た。
今度は顔ではなく、裏面の文字を確認した。
『翔太 3歳の誕生日。母・田村美佐子と。』
翔太はすぐに役所へ行き、戸籍を確認することにした。
8. 本当の母親
翌日。
翔太は戸籍謄本を取得した。
母親の欄には、見慣れない名前が書かれていた。
田村美佐子。
隣の女の名前だった。
翔太は、その場で立ち尽くした。
では、今まで母親だと思っていた女は誰なのか。
翔太は警察に相談した。
調査の結果、恐ろしい事実が判明した。
20年以上前、翔太は実の母親である田村美佐子と暮らしていた。
しかし、当時近所に住んでいた女性が翔太を連れ去った。
その女性こそが、今まで母親だと思っていた人物だった。
連れ去り事件は当時捜査されていたが、女性は翔太を連れて姿を消し、名前を変えて生活していた。
翔太は、その女を母親だと信じて育った。
そして、実の母親は20年以上、息子を捜し続けていた。
ようやく翔太を見つけた田村は、隣の部屋に引っ越してきた。
しかし、どう接すればいいのか分からず、少しずつ距離を縮めようとしていた。
その行動は、翔太にとって異常で恐ろしいものだった。
もちろん、無断で部屋に侵入したことは許されない。
だが、田村には田村なりの事情があった。
翔太は涙を流した。
自分が母親だと信じていた女は、20年以上も自分を騙していたのだ。
9. もう一つの事実
数日後。
翔太は警察署で田村と再会した。
田村は泣きながら謝った。
「ごめんなさい……怖がらせて……」
翔太は何も言えなかった。
田村は小さな封筒を差し出した。
「これ、ずっと持ってたの」
中には、幼い翔太の写真が何枚も入っていた。
翔太は一枚ずつ眺めた。
そして、最後の写真を見た瞬間、手が止まった。
そこには、幼い自分が写っていた。
隣には田村。
そして、もう一人。
今まで母親だと思っていた女が立っていた。
女は笑っていた。
その腕には、赤ん坊が抱かれていた。
翔太は田村に尋ねた。
「……この赤ちゃん、誰?」
田村は写真を見た。
そして答えた。
「……あの人の息子さんよ」
「……え?」
「あなたと同じ年に生まれたの」
翔太は写真を見つめた。
「……その子は、今どこに?」
田村は俯いた。
「……亡くなったの」
「いつ?」
「あなたが連れ去られる、少し前」
翔太は言葉を失った。
田村は続けた。
「あの人、自分の息子さんが亡くなってから……様子がおかしくなってね」
「……」
「あなたを、自分の子供だと思うようになったの」
翔太は震える手で写真を握りしめた。
20年以上、自分を育ててくれた女。
誕生日を祝ってくれた女。
病気のとき、看病してくれた女。
その女は、ずっと自分を亡くなった息子の代わりにしていた。
そして、今もなお、自分を本当の息子だと信じているのかもしれない。
その日の夕方。
翔太のスマートフォンに、母親だと思っていた女から電話がかかってきた。
翔太は出なかった。
何度も鳴った。
やがて、留守番電話が残された。
翔太は再生した。
『翔太……』
女は泣いていた。
『お願い……帰ってきて……』
『お母さん、あなたがいないと生きていけないの……』
長い沈黙。
そして。
『……あの女のところに行っちゃだめ』
『あの女は、あなたを奪おうとしてるの』
『だって……』
女は、急に泣きやんだ。
そして、穏やかな声で言った。
『あなたは、私が育てたんだから。』
録音が終わった。
翔太はスマートフォンを置いた。
その瞬間。
玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
モニターを見る。
そこには、今まで母親だと思っていた女が立っていた。
笑顔だった。
手には、大きな買い物袋。
そして、いつもの声で言った。
「翔太、ご飯作りに来たわよ」
翔太は震えながら警察へ電話をかけた。
女はモニターに向かって笑っていた。
「ねえ、翔太」
「……」
「どうして開けてくれないの?」
「……」
「お母さん、悲しいな」
しばらく沈黙したあと、女は買い物袋を持ち上げた。
「ほら、あなたの好きなハンバーグ」
そして、ゆっくりと言った。
「20年前と同じこと、させないでね。」
翔太は、その言葉の意味を理解した。
この女は、まだ諦めていない。
自分が28歳になっても。
自分の正体を知られても。
何も変わっていない。
モニターの中で、女は笑い続けていた。
「お母さんのところに帰っておいで。」
おわり。




