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昨日も、あなたは泣きましたか

作者: 塩木 寧子
掲載日:2026/05/23

一代で成功した男がいた。


彼は、自分と同じように貧困に苦しむ人に衣食住を用意し職を与え、病気やケガで苦しむ者のために無償の病院を用意したかった。

当然その男にそれだけの資金があったわけではない。


男は、記憶をお金で買い取る企業から相当な金額を得ていた。


最初は半信半疑で地元の意地悪な友人たちの記憶を売ってみた。

すると、施設を出るときにはそれ相応のお金を得られ、それと同時に気持ちも少し明るくなって一石二鳥だと思った。


ただ、オフィスを構えたらその資金も底を尽きた。

それまで肉体労働で得たお金を貯めて使っていたが、記憶を売れば一瞬で大金だ。

そして、男には捨ててしまいたい記憶もたくさんあった。


意地悪な同僚やかつての非情な上司、こっぴどくフラれた失恋等を売ったが、その人にとっての価値にも反映されるらしくそれなりの金額しか得られなかった。


次に男はピアノの記憶を売った。

かつては一日中弾いていたそうだが、今では「ねこふんじゃった」も弾けない男になってしまった。

それでもピアノは元々売ってしまっていたし、特に支障はなかった。


…ということも、ベッド横に貼ってあるメモで知った。

メモを見て記憶することはできるが、それはあくまでも自分の歴史の教科書を見ているような気持ちであり、書かれた記憶には一切の感情が乗らなかった。

そのうち、男に助けられた者たちが支援を始めたことで、男は記憶を売ることをやめた。


はずだった。


その日、男は気が付いたら施設前にたたずんでいた。

抱えきれないほどのお金と小切手を握りしめていた。

受付の人が出口まで追いかけてきて、「これ以上の記憶は買い取れません、今までありがとうございました」とお辞儀をした。


メモを見ると、男の企業を悪徳企業が買収しようとしていて、それを阻止するために大金が必要だとなぐり書きがあった。


売ったのは、

今後の記憶 と …


今後の記憶という響きにゾッとしたが、それが何を指すかはよく分からなかった。

そして、後半は涙と消し跡で読めなかった。

それでも、男は何も思い出せないので少しも悲しくはなかった。



そんなことを取引先の担当者に語った。


「…それはさぞかし辛かったでしょう」


「いえ、記憶がないから辛くはないのです」


その人は、少し涙をこらえるように上を向いた。


「もしかして、この話ももう何度かしましたか?」


「今後の記憶」をなくしたせいか、一切の新しい記憶を覚えられなくなった。

翌日には前日までのことをすっかり忘れていて、私は自分のメモを見て一日がかりで一人の男の人生を学んだ。


目の前にいるその女性は、とても美しく聡明で、もう連日で会っているそうだが、何度会っても全く名前も顔も覚えられなかった。


「昨日も、あなたは泣きましたか」


その女性は、強く何度も頷いた。


「ごめんなさい、何度聞いても泣いてしまうのです」


彼女は、心配そうに覗き込む男の手を握って「また明日来ます」と告げて病室を出た。


彼女と男はかつて同じ街に住んでいて、図書館ですれ違っているうちにすぐに恋仲になった。

しかし、彼女は資産家の娘で、貧困層だった彼との結婚は許されなかった。

そして、男が財を成したとの噂が聞こえてきて、やっと両親に彼との結婚を許されて会いに来たのが三年前である。


「君は、誰」


男は、その女性の記憶を全て売っていた。

男にとってその女性は全ての記憶を売ってでも守りたかったが、企業を守る気持ちはなくならないままだったからだ。

男は企業を守るため、今後の記憶も売ってしまったため彼女のことを覚えられなかった。


そして、いつの間にか記憶を買い取る企業はなくなっていた。

記憶を買い戻すこともできず、彼女は自分のことを思い出せない彼とただ形にならない昔話を繰り返すのだった。  


おわり

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