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ブーランジェリー聚楽

掲載日:2026/04/20

深夜の一条橋。経営難のパン屋・勝の厨房に、ある夜から者たちが現れます。悪意はない。ただ、黙って手伝う。晴明神社の神水と上林春松本店の抹茶で仕込んだ、利休あんぱんが生まれるまでの少し不思議な物語。



 静まり返った深夜の一条橋は、色さえもなかった。


 パン屋の店主、勝は、堀川沿いの細い道を、店に向かってうつむいて歩いていた。夜中の三時を過ぎたばかりだ。眠れなかった。先月の業績が、また頭に浮かんだ。


 橋の欄干に手をついて、川を見下ろす。暗い水面が、街灯の光を細長く映している。


「……ブーランジェリー聚楽か…利休だって最後は切腹やしな」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。


 また歩き出そうとしたとき、

 何か聞こえた。


 空き缶の転がる音だ。


 橋の下、川沿いの暗がりから、からん、からん、と軽やかな音が、夜の静寂に響いていた。


 勝は土手を下り、草を踏みながら橋の下を覗き込んだ。


 薄ぼんやりとした光を放つ何者かが、10人くらいだろうか、缶を蹴って遊んでいる。人のような形をしているが、人ではない。体が半透明で、川の光が透けて見える。それぞれが違う色の光を放っていた。


 者たちが一斉にこちらを向いた。


 「えっ!」勝が身構えたと同時に、それは消えた。いや、蒸発した。


 そこには、深夜の堀川だけが、暗く静かに流れていた。


 勝はしばらく、そのまま橋の下を見ていたが、何の気配もない。


「……なんやいまの。疲れてるんかな」


-----


 それから数日後だろうか、


 深夜の厨房で仕込みをしていると、空気がわずかに揺れるのを感じた。


 顔を上げると、彼らはそこにいた。


 橋の下で見た、あの者たちだ。やはり人ではなかった。あの時と同じ三体が厨房の隅に並んで、じっとこちらを見ていた。赤い光を放つ者、青い光を放つ者、白い光を放つ者。


「……やっぱり夢じゃなかった」


 勝は麺棒を置いた。者たちは動かなかった。ただ、じっとこちらを見ていた。怖くはなかった——得体は知れないが、悪意はない。それだけはわかった。


 しばらく、静かに向き合っていた。


「……好きにしろ、なんなら手伝ってくれ。」


 やけくそ気味に言った。どうせもうすぐ廃業だ。


-----


 翌朝。


 勝が店に来ると、厨房の窯がすでに温まっていた。赤い者が窯の前に仁王立ちになっている。


「……温度」


 温度計を見て、言葉が止まった。


 三百度。


「……それは少し、やりすぎじゃないか」


 赤い者はびくともしなかった。


 押しのけようとした瞬間、窯のタイマーが鳴った。


「あかん、まっくろ焦げ…」


 焦げていなかった。表面がぱりっと香ばしく焼き上がり、中はふっくらと柔らかかった。そして香りが——尋常ではない香ばしい焼き立てのパンの香りが、厨房に、店の外にまで満ちていた。


 その朝、まだシャッターが閉まっているのに、店の外に人が集まり始めていた。


「……なんやこれ」


 赤い者が窯の前でさらに胸を張った。


「……わかった。火はお前に任す」


-----


 次の日は青い者がやらかした。


 生地に水を入れる担当を買って出たはいいが、気がつくと生地がびちゃびちゃになっていた。


「……水の入れすぎや」


 青い者は首を傾げた。何が悪いのかわからない、という様子だった。


 捨てるのも惜しかった。試行錯誤しながら成形し、窯に入れた。


 焼き上がったパンは、今まで作ったことのない食感だった。外はぱりっと、中はとろけるように柔らかい。


 その日の売上は、久しぶりに昨年より多かった。


 青い者が、どこか得意げにこちらを見た。


「……偶然や」


 勝はそっぽを向いた。しかし翌日から、こっそり生地の水分量を増やした。


-----


 ある朝、勝は首を傾げた。


 入口の電球が新しくなっていた。昨日まで少し暗かった電球が、眩しいくらいに明るくなっている。


 その日、久しぶりの顔が店に来た。常連の老婦人が「明るくなったね」と言いながら入ってきて、パンを三つ買っていった。


 翌朝は、東北の隅に積んでいた古い段ボールが消えていた。いつも片付けなきゃと思っていた場所だ。その場所から、朝の光と空気がすっと店に入るような気がした。


 また翌朝は、カウンターの上の花が新しくなっていた。新しい花の白さが焼き立てのパンの美味そうな色を際立たせた。


 三日間、勝は誰の仕業かを確かめなかった。


 四日目の朝、白い者が花瓶の水を換えているのを、偶然目撃した。


「……お前か」


 白い者はこちらを振り返り、小さく頭を下げた。


「……ありがとな」


 勝は何も言わずに厨房に入った。


-----


 翌日の昼過ぎ、照美が来た。


 幼馴染だ。今はフードコーディネーターをやっている。連絡もなく現れるのは昔からの癖だった。


「あら」


 照美は入口で立ち止まり、店の中をぐるりと見回した。


「随分きれいになったわね」


「まあね」


 照美はもう一度、店内をぐるりと見渡したあと、紙袋をカウンターに置いた。


「やっとこの抹茶を卸してもらう話をつけてきたわよ」


 宇治茶最古の老舗のひとつ、上林春松本店の抹茶だった。


「なんでこれなの?」


 照美は微笑んで


「私、伊勢茶も好きなんだけどなぁ、それじゃダメなの?」


「ダメダメ」


「なんでよ」


「あほ、上林家は利休と同じ時代に宇治茶を作ってた店やぞ、利休が茶の湯に使ったのもここの抹茶や。利休あんぱんを名乗るなら、お茶こそ本物にせんと、お茶は量より質!」


「フードのプロによく言うわね」


 照美は少し首をすくめた。


「……いくら」


「超美味い利休あんぱんが完成したら現物で払って」


-----


 ある夜、勝は体調を崩した。


 連日の仕込みと販売…体の限界だった。早く店を閉め、シャッターを下ろしながら、三体の者たちを振り返った。


「明日は休む。……お前らも、まあ、好きにしろ」


 者たちは黙っていた。


 家に帰り、食事もせずに一日中眠った。売り上げが厳しい中、店を一日休業にしてしまった。


 翌朝、恐る恐る店に向かった。


 厨房に入って、勝は立ち尽くした。


 厨房が、隅々までピカピカだった。


 いつも粉まみれの床が磨き上げられ、窯の周りの汚れが跡形もなく消え、棚の器具が整然と並んでいた。ショーウィンドウのガラスも、壁も、天井の隅まで——すべてが清められていた。


 者たちの姿はなかった。


「……アイツら」


 それだけ言って、言葉が続かなかった。


 そういえば、しばらく廃業のことを、考えていなかった。


-----


 利休あんぱんが完成したのは、それから少し後のことだった。


 深夜、三体が揃って厨房に現れた。その日はいつもと様子が違った。三体とも、静かだった。


「……今日は、いよいよだな」


 勝も黙って作業した。者たちも失敗しなかった。


 赤い者が窯の前に立った。青い者が水の量を確かめた。白い者が生地をこねた。


 晴明神社から汲んできた神水で仕込んだ生地に、丁寧に挽いた抹茶を混ぜ込む。粒餡と抹茶クリームを包んで成形する。抹茶は照美が置いて行ったもの、クリームは、勝が考案した自信作だ。


 夜明け前に焼き上がった利休あんぱんを、勝はひとつ口に入れた。


「……なんや、これ」


 なんとも重みのある、懐かしい味がした。もっと味わおうとすると、逃げるように溶けてしまう。


 者たちも焼き上がったパンをじっと見ていた。


「……いいものができた」


-----


 翌朝から、者たちは来なくなった。


 一日待った。二日待った。三日目の朝、勝はようやく確信した。


 もしかして、と思ったことは一度あった。橋の下で見たあの者たち、厨房に現れたあの者たち——あれは何だったのか。この街に長く伝わる話を、勝は子供の頃から聞いて育っていた。


-----


 晴明神社は、朝の凛とした空気の中で静かに佇んでいた。


 勝は本殿の前に立ち、しばらく目を閉じた。御礼を伝えた。それから、もう少し妻と二人で「ブーランジェリー聚楽」を続けることにした、と伝えた。


 手に提げた包みの中に、利休あんぱんが三つ入っていた。


 帰り際、晴明井の水が音もなく湧いているのを、勝は少しの間眺めてから鳥居をくぐった。

桜のつぼみの先端が、薄紅色を差しはじめていた。


-----


 店に戻ると、照美から連絡が入っていた。


「利休あんぱん、何何!…すっごい…」


 勝はスマートフォンをポケットに押し込み、エプロンを締めた。窯のスイッチを入れる。


「……今日も忙しくなりそうやな」


「そうね、頑張らなきゃ!」


 豆腐店のパートをやめて、店に帰って来た妻が答える。


「300度良し!」


 窯が温まり始める音が、静かな厨房に響いた。


-----


終わり


……

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