ブーランジェリー聚楽
深夜の一条橋。経営難のパン屋・勝の厨房に、ある夜から者たちが現れます。悪意はない。ただ、黙って手伝う。晴明神社の神水と上林春松本店の抹茶で仕込んだ、利休あんぱんが生まれるまでの少し不思議な物語。
静まり返った深夜の一条橋は、色さえもなかった。
パン屋の店主、勝は、堀川沿いの細い道を、店に向かってうつむいて歩いていた。夜中の三時を過ぎたばかりだ。眠れなかった。先月の業績が、また頭に浮かんだ。
橋の欄干に手をついて、川を見下ろす。暗い水面が、街灯の光を細長く映している。
「……ブーランジェリー聚楽か…利休だって最後は切腹やしな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
また歩き出そうとしたとき、
何か聞こえた。
空き缶の転がる音だ。
橋の下、川沿いの暗がりから、からん、からん、と軽やかな音が、夜の静寂に響いていた。
勝は土手を下り、草を踏みながら橋の下を覗き込んだ。
薄ぼんやりとした光を放つ何者かが、10人くらいだろうか、缶を蹴って遊んでいる。人のような形をしているが、人ではない。体が半透明で、川の光が透けて見える。それぞれが違う色の光を放っていた。
者たちが一斉にこちらを向いた。
「えっ!」勝が身構えたと同時に、それは消えた。いや、蒸発した。
そこには、深夜の堀川だけが、暗く静かに流れていた。
勝はしばらく、そのまま橋の下を見ていたが、何の気配もない。
「……なんやいまの。疲れてるんかな」
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それから数日後だろうか、
深夜の厨房で仕込みをしていると、空気がわずかに揺れるのを感じた。
顔を上げると、彼らはそこにいた。
橋の下で見た、あの者たちだ。やはり人ではなかった。あの時と同じ三体が厨房の隅に並んで、じっとこちらを見ていた。赤い光を放つ者、青い光を放つ者、白い光を放つ者。
「……やっぱり夢じゃなかった」
勝は麺棒を置いた。者たちは動かなかった。ただ、じっとこちらを見ていた。怖くはなかった——得体は知れないが、悪意はない。それだけはわかった。
しばらく、静かに向き合っていた。
「……好きにしろ、なんなら手伝ってくれ。」
やけくそ気味に言った。どうせもうすぐ廃業だ。
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翌朝。
勝が店に来ると、厨房の窯がすでに温まっていた。赤い者が窯の前に仁王立ちになっている。
「……温度」
温度計を見て、言葉が止まった。
三百度。
「……それは少し、やりすぎじゃないか」
赤い者はびくともしなかった。
押しのけようとした瞬間、窯のタイマーが鳴った。
「あかん、まっくろ焦げ…」
焦げていなかった。表面がぱりっと香ばしく焼き上がり、中はふっくらと柔らかかった。そして香りが——尋常ではない香ばしい焼き立てのパンの香りが、厨房に、店の外にまで満ちていた。
その朝、まだシャッターが閉まっているのに、店の外に人が集まり始めていた。
「……なんやこれ」
赤い者が窯の前でさらに胸を張った。
「……わかった。火はお前に任す」
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次の日は青い者がやらかした。
生地に水を入れる担当を買って出たはいいが、気がつくと生地がびちゃびちゃになっていた。
「……水の入れすぎや」
青い者は首を傾げた。何が悪いのかわからない、という様子だった。
捨てるのも惜しかった。試行錯誤しながら成形し、窯に入れた。
焼き上がったパンは、今まで作ったことのない食感だった。外はぱりっと、中はとろけるように柔らかい。
その日の売上は、久しぶりに昨年より多かった。
青い者が、どこか得意げにこちらを見た。
「……偶然や」
勝はそっぽを向いた。しかし翌日から、こっそり生地の水分量を増やした。
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ある朝、勝は首を傾げた。
入口の電球が新しくなっていた。昨日まで少し暗かった電球が、眩しいくらいに明るくなっている。
その日、久しぶりの顔が店に来た。常連の老婦人が「明るくなったね」と言いながら入ってきて、パンを三つ買っていった。
翌朝は、東北の隅に積んでいた古い段ボールが消えていた。いつも片付けなきゃと思っていた場所だ。その場所から、朝の光と空気がすっと店に入るような気がした。
また翌朝は、カウンターの上の花が新しくなっていた。新しい花の白さが焼き立てのパンの美味そうな色を際立たせた。
三日間、勝は誰の仕業かを確かめなかった。
四日目の朝、白い者が花瓶の水を換えているのを、偶然目撃した。
「……お前か」
白い者はこちらを振り返り、小さく頭を下げた。
「……ありがとな」
勝は何も言わずに厨房に入った。
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翌日の昼過ぎ、照美が来た。
幼馴染だ。今はフードコーディネーターをやっている。連絡もなく現れるのは昔からの癖だった。
「あら」
照美は入口で立ち止まり、店の中をぐるりと見回した。
「随分きれいになったわね」
「まあね」
照美はもう一度、店内をぐるりと見渡したあと、紙袋をカウンターに置いた。
「やっとこの抹茶を卸してもらう話をつけてきたわよ」
宇治茶最古の老舗のひとつ、上林春松本店の抹茶だった。
「なんでこれなの?」
照美は微笑んで
「私、伊勢茶も好きなんだけどなぁ、それじゃダメなの?」
「ダメダメ」
「なんでよ」
「あほ、上林家は利休と同じ時代に宇治茶を作ってた店やぞ、利休が茶の湯に使ったのもここの抹茶や。利休あんぱんを名乗るなら、お茶こそ本物にせんと、お茶は量より質!」
「フードのプロによく言うわね」
照美は少し首をすくめた。
「……いくら」
「超美味い利休あんぱんが完成したら現物で払って」
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ある夜、勝は体調を崩した。
連日の仕込みと販売…体の限界だった。早く店を閉め、シャッターを下ろしながら、三体の者たちを振り返った。
「明日は休む。……お前らも、まあ、好きにしろ」
者たちは黙っていた。
家に帰り、食事もせずに一日中眠った。売り上げが厳しい中、店を一日休業にしてしまった。
翌朝、恐る恐る店に向かった。
厨房に入って、勝は立ち尽くした。
厨房が、隅々までピカピカだった。
いつも粉まみれの床が磨き上げられ、窯の周りの汚れが跡形もなく消え、棚の器具が整然と並んでいた。ショーウィンドウのガラスも、壁も、天井の隅まで——すべてが清められていた。
者たちの姿はなかった。
「……アイツら」
それだけ言って、言葉が続かなかった。
そういえば、しばらく廃業のことを、考えていなかった。
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利休あんぱんが完成したのは、それから少し後のことだった。
深夜、三体が揃って厨房に現れた。その日はいつもと様子が違った。三体とも、静かだった。
「……今日は、いよいよだな」
勝も黙って作業した。者たちも失敗しなかった。
赤い者が窯の前に立った。青い者が水の量を確かめた。白い者が生地をこねた。
晴明神社から汲んできた神水で仕込んだ生地に、丁寧に挽いた抹茶を混ぜ込む。粒餡と抹茶クリームを包んで成形する。抹茶は照美が置いて行ったもの、クリームは、勝が考案した自信作だ。
夜明け前に焼き上がった利休あんぱんを、勝はひとつ口に入れた。
「……なんや、これ」
なんとも重みのある、懐かしい味がした。もっと味わおうとすると、逃げるように溶けてしまう。
者たちも焼き上がったパンをじっと見ていた。
「……いいものができた」
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翌朝から、者たちは来なくなった。
一日待った。二日待った。三日目の朝、勝はようやく確信した。
もしかして、と思ったことは一度あった。橋の下で見たあの者たち、厨房に現れたあの者たち——あれは何だったのか。この街に長く伝わる話を、勝は子供の頃から聞いて育っていた。
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晴明神社は、朝の凛とした空気の中で静かに佇んでいた。
勝は本殿の前に立ち、しばらく目を閉じた。御礼を伝えた。それから、もう少し妻と二人で「ブーランジェリー聚楽」を続けることにした、と伝えた。
手に提げた包みの中に、利休あんぱんが三つ入っていた。
帰り際、晴明井の水が音もなく湧いているのを、勝は少しの間眺めてから鳥居をくぐった。
桜のつぼみの先端が、薄紅色を差しはじめていた。
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店に戻ると、照美から連絡が入っていた。
「利休あんぱん、何何!…すっごい…」
勝はスマートフォンをポケットに押し込み、エプロンを締めた。窯のスイッチを入れる。
「……今日も忙しくなりそうやな」
「そうね、頑張らなきゃ!」
豆腐店のパートをやめて、店に帰って来た妻が答える。
「300度良し!」
窯が温まり始める音が、静かな厨房に響いた。
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終わり
……




