時の桜前線――桜の精と人間の王子
桜の精といいますと、人間の皆さまはどのような姿容を思い浮かべますでしょうか。しかしそれは、さほど問題ではないかもしれません。たいていの御人には、その姿は見えないものですから。
ですので私も、自身がどのような形をしているかなどということは、わざわざ考えたこともございませんでした。あのひとに出逢うまでは。
「もし、そこのお嬢さん」、微睡みの中に聲が聞こえます。
ゆるりと瞼を持ち上げますと、新緑のように瑞々しい翠の玉がふたつ、目の前に浮かんでいました。
はて、精霊のお仲間かしらと思ったのも束の間、翠玉の瞳はひとたび下方へと伏されまして、それからふたたび私を見、大きくひらかれました。
「これは困った。貴女はブランケットを使えないのだね」
私は視線を下げて、この御方がしてくれようとしたことを理解しました。伸びっぱなしの芝の上に、柔らかな白茶のブランケットが落ちています。透けた私の身体と重なるようにして。
「こんなところで眠っていたら、寒いだろうと思ったんだが」
困ったと言うわりにゆったりとした言葉を紡ぐそのひとは、人間の殿方でした。
淡金色の御髪は肩先ほどの長さで、風にさらりと靡きます。輪郭は初春の光にすっかり溶けておしまいで、私などよりも精霊らしいような――
そこまで考えて、気がつきました。私はなぜ、こんなことを知っているのでしょう。ええ世の中の有り様といいましょうか、そういうあれこれを。ずっと、眠っていたはずなのに。
ともかく、応をと思いました。
「問題ありません。寒さは感じませんから」
殿方は翠玉の瞳を細めて微笑みました。
「それならよかった。貴女は桜の精だね」
「……ええ」
頷いてはみたものの、そうなのかしら、と思います。目の前のひとが殿方だということや、ブランケットという布のことは自ずと知っているのに、私は自らについてはどこか心許ないのです。けれど、このひとがそうだと言うならそうなのでしょう。
ふと後ろを仰ぎますと、ひらきはじめた桜の樹が一本立っていました。その根もとに凭れるように、地に足を投げ出し腰を下ろしている、それが私でございました。
殿方は私の隣に腰を下ろして、なんとはなしに空を見上げます。空の色は薄青で、快晴にすこし霞を引いたような風合いでした。
「寒く、ありませんか」
私はおぼえたての言葉を掛けてみます。
おぼえたてと言いますのは、私は「寒い」という言葉の意味は知っておりました。けれどもそれを誰かに問いかけるというのは、先ほどはじめて知ったことです。口から出す際に、喉と胸の境あたりが微かに震えました。
「寒くないよ。僕はたくさん着ているから」
「そうですか」
ブランケットは私の膝に掛けられたまま――と言っても実際は身体をすり抜けているのですが――ともかく、殿方はそれを拾い上げませんでした。
どれほどそうしていたかわかりません。ただ、寒くはない、と思いました。
*
それから毎日、殿方は樹の根もとへいらっしゃいました。
彼のお住まいになる館の二階のお部屋から、ちょうど裏庭の桜の樹が見えるのだそうです。あるとき、幹に凭れて眠る私の姿が見えたから、と。
「はじめの花がひとつ、綻んだ日だった。絶対に寒いだろうと思ったんだよ」
「ご心配くださりありがとうございます」
彼の手にはいつも、白茶のブランケットが携えられています。そして毎回私に掛けてくれるのです。すり抜けてしまうとわかっているのに。
また彼は、館の主なのだということでした。都からすこし離れた小さな丘に、しずかに立つお屋敷。その裏庭に一本だけある桜の樹。
そんな場所に見知らぬものが眠っていたら、訝しむのが普通ではないのでしょうか。庭の桜の樹も含めて、彼のお屋敷なのですから。
そう疑問を申しますと、彼は翠の瞳をとんぼ玉のように丸くして、それからからからと朗らかに笑うのです。
「たしかに、そうだね」
そうして彼が笑うのを見ますと、耳の裏側あたり、やや上のほうで、何かが弾ける心持ちがします。ぱちん、と。
そのような日々を繰り返すうち、私の背にある桜の樹は、順に蕾をひらいてゆきました。
「桜前線だ」
あるとき彼が、ぽつりと言います。彼はいつものごとく私の隣に腰を下ろし、そのまま首を反らすようにして、木陰をつくる桜の枝を見上げていました。
私は首を傾げます。
「東国の人は、桜が咲く日を地図上に線で結んで、桜前線と呼ぶのだそうだよ」
「でも此処の桜は、一本です」
地図上に線を結ぶということは、点である桜が何本も、何十本何百本もあるはずです。けれど此処にあるのはひとつの点だけ。
「だけど、ほら。ここは咲いている。ここは、これから」
彼の説明によりますと、一本の桜の樹の中にも、咲いている花と未だのものがあります。樹は根から水や養分を吸い上げますから、咲くのは下から上、また幹の近くから枝先へといった順です。そのひらいてゆく花の道筋が、桜前線に似ていると言うのです。
「少し無理やりだったか。東国の本で学んだばかりの言葉だから、使ってみたくなった。変かな?」
「……変です」
わかります、おぼえたての言葉は使ってみたくなりますから、と返すこともできたのに、私の口からこぼれたのはそんなひと言でした。
翠色が、陽に溶ける葉のように柔らかく細まります。
「君の髪も、ほら」
真っ直ぐ腰のあたりまである私の髪は、半分ほどが桜と同じ色をしていました。頭のてっぺんから、胸もとまで。
彼と初めて会った日は、ぼんやりした銀白色でした。それが、背後の樹と示し合わせるかのように、日ごと桜色に染まってゆくのです。
彼は、片手を私の耳もとへそっと寄せ、桜色の髪をひと房掬いました。その手は髪を撫でながら、下へゆっくり滑ります。
しかし途中でふっと、髪は彼の手をすり抜けていきました。彼が私に触れられるのは、髪、それも桜色に染まった部分だけなのでした。
時折彼は、書物を手にしていました。「この間話した東国の天気図だよ」などと言って、私に見せてくれます。やや年季の入った革表紙の本は、彼のお祖父様のものだそうです。処々に、覚え書きの紙片が挟まっていました。
そうした時間を過ごす中、彼はこの国の王族なのだと知りました。今は、彼のお兄様が王様です。そのご即位の際に、彼はこの館にいらっしゃったのでした。
「都に僕がいると、兄王陛下が困ってしまう。だからここへ来た。元々のんびりするのは好きだけど、君がいてくれたおかげで、ここの生活が楽しくなったよ」
いつしか彼が私へ向ける呼称は「貴女」から「君」に変わり、後ろの桜は満開を迎えていました。
私の髪はほぼすべてが桜と同じ色に染まり、毛先まで彼の手にとどまることができています。人間と似たような姿の私の髪には、触覚というものはありません。
けれど、彼の手が私の髪を掬いあげ、存在を確かめるようになぞってゆくとき。もしも今が冬の最中だったとしても、どうにかしてこの枝に宿った蕾をみなひらいてしまいたい、そんなむず痒い心持ちになります。
同時に、ひらいた花は何処へゆくのかしらと、ささやかな風が目の前の景色を揺らがせます。
桜色の髪をのせた彼の手が滑り、いちばん下までおりたあと、その掌に残ったのは幾枚かの花びらでした。それが、私の最後の記憶です。
*
「――トワ」
聲が聞こえます。初めて聞くその響きが、どうか私を呼ぶものであればいいと、微睡みの中にぼんやり思いました。
瞼を持ち上げますと、知っている翠玉がふたつ。「久しぶりだね」と彼は言いました。
彼の掌に残る花びらの光景は、私にとってはついひととき前のことでした。けれど、どうやら今は次の春のようでした。私は眠ってしまっていたのです。
「また会えてよかった」
「……トワ、というのは何ですか?」
聞き間違いでなければ、先ほど彼は、私の知らない言葉を口にしていました。
「聞くのを忘れてしまったからね。考えていたんだ、君の名前を」
「名前、ですか」
「うん。“トワ”……、どうかな?」
名前というものは、人間にとって大きな意味を持つものだと、私は知っていました。
昨春から眠っていた私の髪は色が抜け落ち、今年もブランケットは身体をすり抜けるでしょう。なぜだか既知である人の世の有り様とはちがって、やはり自らは心許ないのです。
けれど、すこしだけ。彼が私に名を与えてくれた瞬間、あたりに漂う塵埃ほどの光の粒がより集まって、淡い像を結んだようにも思えました。
「東国の書物から見つけた言葉だよ。美しい響きだと思って」
「ええ、気に入りました」
「そうか、よかった!」
彼はめずらしく、歓声とも言える大きな声を上げました。瞳は新月ほどに細まって、翠色が見えないくらいです。
背後でぱちん、と、今年ふたつめの花がひらいた音がしました。
幾度かの春が過ぎました。
私が目を覚ますたびに彼はやってきて、隣に腰を下ろします。何をするでもなく空を眺めたり、書物を見せてくれたり、彼が手慰みに描いた絵――あまり上手とは言えませんでしたが――を見せてくれたこともありました。
「これは、何の妖怪ですか?」
「えっ……と、猫のつもりだったんだが」
「……なるほど。東国には、猫又という妖怪がいるのでしたね」
「いや、ふつうのかわいい猫を描いたんだけどなあ」
「かわいいですよ」
「そうかい? 君が笑ってくれるならいいか」
初めて会ったとき、彼は人間でいう成人ではありましたが、未だ少年の面影を残していました。
翠玉の瞳も、肩先に揺れる淡金色の髪も、精霊と見まごう澄明さは今も変わりません。けれど、顔立ちが引き締まり、落ち着いた雰囲気を連れるようになった彼は、すっかり大人の男性でした。
「愛しているよ」
ふと独り言のように紡がれた言葉に、私は隣へ顔を向けました。目が合うと、彼は急に決まりが悪そうに、手もとの画帳へと視線を落とします。
微風が、彼の手にある白い頁の上に、花びらを一枚散らしました。彼はおもむろに顔を上げると、今度は目をそらしませんでした。
「僕は君を愛している。永遠に」
*
次の春、「久しぶり」に会った彼の表情は、それまでと異なっていました。しとしとと冷たい雨の降る日でした。
彼は、私に傘を差し掛けます。いつもですと、雨の日は地面に麻布を敷いて並んで座り、同じ傘の中から空を眺めます。けれども彼はそうしません。
ご自身だけが雨に濡れながら、彼は言いました。
「都に、帰らなければならなくなった」
王様をしていた彼のお兄様が、病に伏せっているのだそうです。代わりに彼が、王様をしなければならないと。
「僕は王なんて器じゃない。それに……君と離れたくない。僕と一緒に、王宮へ来てもらうことはできないだろうか」
桜の樹の根もとを離れて、彼についていく。そんなことができるのでしょうか。私には、わかりませんでした。途方に暮れるとはこうしたことかと思いました。いえ……もしかすると、不可能ではなかったのかもしれません。
けれど、それはしてはならないことのような気がしました。
「貴方は、いい王様になれます。私のようなものにも、ブランケットを掛けてくださるのですから」
彼の瞳が見ひらかれて、長い睫毛から雨のしずくがはらりと落ちました。
「妃を、娶らなければならない。僕は、君以外を愛せない。だから……」
「構いません」
「え……?」
どうして私の身体は人間の持ち物をすり抜けてしまうのだろうと思います。雨に身を晒す彼に、傘を差し向けることもできない。
「貴方が私を大切に思ってくださっていること、理解しています。人間の“愛”は、ただひとりに向ける言葉だということも。
けれど私には、“愛”というものの知識はあっても、本当の意味はわかりません。ですから、お気になさらないでください。都に帰って、いい王様になってください」
重い雲が覆う空の下では、世界の色は曖昧でした。彼は瞬きもせずに此方を見つめたまま――時が止まってしまったかと思いましたが、真っ直ぐ地へ落ちていく糸雨が、そうではないことを教えていました。
「気になさらないでください」と、私はもういちど声に出しました。
彼はようやく瞬きを思い出すと、静かに微笑みました。睫毛から落ちるしずくを追うように、頷きました。なぜ、痛いのだろう、と思いました。
*
それからも、彼は毎日いらっしゃいました。お昼を過ぎたころや夕刻、ときには明け方、お仕事のあいまを縫って。馬車を使えばそんなに遠くないからと。
そうして会う時刻がばらばらになり、一緒にいる時間が短くなったこと以外は、何も変わりませんでした。
春、ひとつめの花がひらけば、翠色の瞳が私を迎えます。並んで空を見上げ、風を聞き、言葉を交わします。私の髪は桜色に染まり、彼の掌に愛しまれて、終わりには花びらを残します。
何も、変わりませんでした。彼の微笑みは優しく、瞳の宝石は澄んで。……ただ時折、彼はすこし疲れていらっしゃいました。
あるとき、近くの国で戦があったそうです。この国よりも大きな国同士の争いで、いずれかに与せねばならないと。加わるのは憚られるも、そうしなければこの国が潰されてしまうのだと。
「……すまない、ここで話すようなことではなかった。せっかく君といるのに。忘れてくれ」
「……わかりました」
そうして彼は、薄ら隈の浮いた目もとを、柔らかくゆるめます。あたたかい春の日差しが、変わらず彼の輪郭を輝かせます。
私は、彼といるうちにおぼえた微笑みを返しながら――いいのに、と思います。選ばず、すべて話してくださればいいのに。愛している、と言うのなら。
彼のお妃様は、「妻というより側近」なのだそうです。淡々として、政務に必要なことしかお話しにならないのだとか。ご結婚後すぐのころ、彼は心底くたびれた様子で仰いました。
「大臣がひとり増えたみたいだ。それも大変厳しい、ね」
そのように政治的な結婚も含めて、彼は王様のお仕事に難儀しているようでした。春の光の中、時折伏される睫毛の影や、目もとに刻まれていく小さな皺が、これを物語っていました。
しかし、彼は王様であり続けました。桜の樹が立つ丘からは、目を凝らせば都がすこしだけ見えます。そうして見える朧な気配、それから、稀に樹の近くを通る使用人たちの噂話を聞くに。彼は人々のことを大切にする、いい王様のようでした。
彼がお妃様とのあいだに「男女の愛情はない」と言うのは、真実なのでしょう。けれど、苦慮しながらも人々のことを考える彼の隣で、お妃様はともに悩み、彼を支えていたようです。そこには、私の知ることのできない信頼関係がありました。
「トワ」
彼の指が、私の髪を優しく梳きます。彼は変わらず私を愛してくれます。
けれど――今の彼が、若き日の彼と同じように「永遠」という言葉を使うことは、もうありません。私は知っていました。人間には「永遠」がないことを。
彼の愛が嘘だと言いたいのではないのです。ただ、この世は刻一刻と形を変えてゆくものだから。
彼は、王様として人々のために働き、妻子を持ちました。私の知らないところでたくさん悩み、選び、力を尽くしてきました。
彼には、大切なものがあります。そして、大切なもののかたちはひとつではないのです。今の彼はそれを知っています。「永遠」を口にしないのは、彼の誠実さです。
「いつの間にか、大人になりましたね」
「はは、何を言っているんだい。孫を持つ年齢の男をつかまえて」
*
いつにも増して、寒い春の朝でした。いえ、その春が特別に寒かったのではなく、どうやら私が早起きしたようでした。
「おはよう」、と私を迎える彼の御髪は、銀白色です。お揃いになったねと、いつだか笑いあったものです。
彼は、雪のあとが残る芝に麻布を敷いて、隣に腰掛けました。私の膝にはブランケットを掛けてくれます。
「未だ寒い季節ですからご自身にお使いください」と、私は抗議しました。彼は「そうだね」と言ってすこし身体を寄せ、ブランケットの半分に足をもぐらせます。
彼の手には、表紙の緑色が日に褪せた、年季入りの手帳がありました。彼はそれをひらくと、懐から万年筆を取り出し、今日の日付を記します。そして、すぐ上の日付と線で結びました。
縦軸には、今が何年かという数字。横軸には、何の月・何日という日付。彼は毎年、私に初めて会った日と終わりの日を記録していました。そしてそれらの点を線で結んでみせて、「桜前線」などとこじつけるのです。
ゆるやかな波のような曲線が二本、頁を縦に流れていました。また変なことをしていらっしゃる、と思っていたものでした。
「今年は早かったね」
「ええ。……早く、お会いしたかったです」
「うん、間に合ってよかった。ありがとう」
未だ銀白に透ける私の髪に、彼は指を通しました。
すり抜けてしまっても、私の心は――あるのかどうかはわかりませんが――あたたかい気がするのです。
「トワ……、愛している」
「ええ、わかっていますよ。ずっと」
人間に「永遠」がなくても、彼の言葉はいつもほんとうでした。
若き日の彼が、疑うことなく永遠を誓った眼差しも、時を経た彼の、愛しみの言葉も。刻々と移ろいゆく点のすべてが、ほんとうでした。
翠色が、朝の淡い光に溶けてゆきます。透明な髪を撫でる手が、静かに下へ落ちてゆきました。
* * *
「こんにちは」と、聲がします。
ずいぶん長いあいだ眠っていました。もう、目を覚ますことはないと思っていました。私の存在は、誰かに見いだされてはじめて形をとるのですから。
目の前には、翠……いえ、やや黄みの、若芽に似た緑色がふたつ浮かんでいました。
陶器のように白い肌、蜂蜜色のふわりと波打つ御髪。人間でいう十歳、それよりは若いでしょうか、かわいらしい姫君です。
「ほんとうに、会えたわ。これ、二階のお部屋で見つけたの」
姫君は、古びた手帳を差し出しました。にこりと瞳を三日月にして、宝物でも見せてくれるかの表情で。そして半ばとび跳ねるような足どりで、ぽんと私の隣へ座りました。
きっと、孫かその孫か、彼の御血筋なのでしょう。
「ここに、今日の数字を書くのよね」
姫君は手帳をひらいて、私にたずねます。
ええ、と頷くと、彼女は鉛筆で、頁に新たな数字を刻みました。
彼が最後に記した「年」の数字から、しばらくの時間があいていました。
そして今年は、私はだいぶ寝坊してしまったようです。すっかり春めいた午後の陽が、真剣に手帳を見つめる姫君の横顔をあたためていました。
背後で綻びかけたふたつめの花を、柔らかな風がくすぐりました。
声が聞こえます。
……――愛しているよ。永遠に。




