第5巻 地獄の学校 18話
第18話 鏡の中の私(誤認の治療)
地獄庁・心理治療区画。
白い灯りの下、アリアが勢いよくドアを開けた。
ぱっと回転してみせる。髪がふわりと揺れた。
「どう? 都会っぽくなったでしょ!」
オリバーは書類から目を上げ、リリカは端末を閉じた。
室内が少しだけ静まりかえる。
照明に照らされたアリアの髪は、きれいに染め上げられていた。
色ムラはない。美容師の仕事は丁寧だ。
だが、どこか落ち着きすぎている。
若い彼女の輪郭には、少し年上の印象を与える色だった。
つまり——悪くはないが、惜しい。
リリカは顎に手を当てて言った。
「……きれいに染まってる。そこは本当に上手いわ。でもね、その色味……お母さん世代の“安心ブラウン”って感じ」
「えっ!? 安心ってなに!? 落ち着いて見えるって意味でしょ!?」
「そう。落ち着いてて安全。悪くない。けど“都会っぽい”とはちょっと違うのよね」
リリカは少し笑って、さらに続けた。
「たぶん家の近くの美容院でしょ? 田舎のほう」
「……便利だからいいじゃん。すぐ行けるし」
「分かるわよ。だけどね、田舎の美容院って“清潔感と無難”を大事にするの。
一方、都会の美容院は“個性と流行”を重視する。
ただ——都会だから上手いとは限らないわ。
ブローは一流でも、カットと染めが下手な美容師なんて山ほどいる。
むしろ地元の美容師の方が、髪質をちゃんと見てくれることだってある」
アリアは肩を落として笑った。
「じゃあ私、地元仕様ってこと? 垢抜けてないってこと?」
「そうね。悪く言えば。良く言えば、“誠実で安心できる色”。」
オリバーはその会話を聞きながら、ひとこと漏らした。
「……人間というのは——一卵性双生児でもない限り、自分を俯瞰して見ることはできん。」
「え?」アリアが顔を上げる。
オリバーは淡々と続けた。
「鏡に映るのは“他者に見られたい自分”であって、“実際の自分”ではない。
だから、どうしてもズレる。似合うと思って選んでも、それは欲望の反映にすぎん。
真の自己像は、他人の瞳の中にしか存在しない。」
アリアは黙った。リリカも少し息を飲む。
カノンのホログラムがゆっくりと点灯し、淡いピンクの光が部屋に広がった。
「その通りね、オリバー」カノンが静かに言った。
「あなたが見てる自分は、あなたの願望。だからこそ、他人の視線が必要なの。」
「でもさ」アリアが小さく反論する。「自分の好きな色を選んじゃいけないの?」
「いけなくはないわ」リリカが微笑んだ。「ただ、色には“文脈”があるの。
たとえばそのブラウンはね、社会的には“落ち着きと経験”の象徴なの。
だから若い人が使うと“早熟”とか“老け見え”に振れる。
アリア、あなたはたぶん“安心されたい”って気持ちで選んだのよ。」
アリアは目を丸くした。
「……あー……確かに、かも。最近、周りの子がみんな大人っぽいから。」
「でしょ?」リリカが頷く。「外見って、心の翻訳なのよ。」
カノンが静かに続けた。
「アリア、人はね、他人の言葉で傷つくよりも、自分の誤解で迷う方が多いの。
あなたは他人に“都会的”って言われたかったんじゃなくて、“ちゃんとしてる”って言われたかったのよ。」
「……うん、そうかもしれない」
オリバーが端末を開き、短く記す。
《自己像誤認:外見的変化による社会的安心の模倣。根本は承認飢餓。》
フェイ太郎のホログラムが、壁の端からひょいと顔を出した。
「オリバー、難しい顔してるけど、要するに“褒められたい”って話だろ?」
ハチ公が“ワン”と鳴いて尻尾を振る。
リリカが笑う。「正解。さすが地獄庁のマスコットたちね。」
*
カノンが、ふっと声を落とす。
「でもね、アリア。あなたが“自分らしく見せたい”と思った瞬間、それは治療の始まりなの。
たとえ色が違っても、そこにあなたの意思がある。」
「……意思?」
「ええ。流行や他人の評価じゃなく、“私はこれを選んだ”と胸を張れること。
それが本当のオシャレ。
メッシュを入れたいなら入れればいいし、入れたくないなら無理に入れなくていい。」
リリカが少しからかうように言った。
「でも、ほんの少しだけメッシュを入れたら、動きは出るわよ?」
「入れないの! 母に付け毛もらったけど、面倒くさくてやってないの!」
「正直でよろしい」とオリバー。
「またそれ! それ言わないでって言ってるじゃん!」
フェイ太郎が笑う。「でも、それがアリアらしさじゃん。」
アリアは髪をくしゃっとかき上げて、少し笑った。
その笑顔は、色よりもずっと明るかった。
*
治療の終わり際、オリバーは端末に記す。
《誤認の治療、段階的改善。
人間は一卵性双生児でもない限り、自分を俯瞰して見ることはできない。
よって自己像の再構築には他者の視点を要する。
ただし“他人に見せたい自分”と“本当に居心地の良い自分”の境界を、本人が選び直すことが最終課題。》
リリカが端末を覗きこみ、「あんた、いいこと書くじゃない」と笑う。
オリバーは肩をすくめて答える。
「だが俺は、いまだに歌もオシャレもわからん。」
「それでいいのよ」カノンが微笑む。
「あなたがわからないからこそ、みんなが“自分の答え”を探せるの。」
アリアはその言葉を聞いて、鏡を見つめる。
ブラウンの髪が、柔らかく光を反射していた。
「……なんかね、前より落ち着いて見えるかも。都会っぽくなくても、嫌いじゃないかも。」
「それで充分」リリカが答える。「次に色を変えたいと思った時、理由を言葉にできたら、それがもう治療の卒業よ。」
アリアは照れくさそうに笑った。
「じゃあ次は、“私らしく見える色”を探すかな。」
フェイ太郎とハチ公が、同時に拍手した。
その音が、地獄庁の静寂に柔らかく響いた。
*
オリバーは最後に記す。
《教育:停止。処置:選択確認。転帰:自己像再生の兆候。》
白い部屋の灯りがゆっくりと落ちていく。
講堂の方角から、鐘が一度だけ鳴った。
——ひとりの少女が、自分の“今”を受け入れた音だった。
(了)




